混乱の波紋は広がり、始まりを告げる
どれだけ走り続けたんだろう。
「はぁ、はぁ、はぁ」
気がついたら、見知らぬ場所にいた。
息が上がり、肺が苦しい。
足の裏も、多分ボロボロだ。
石が刺さってて、鋭い痛みが走っている。
冬もいいところなのに、汗が止まらない。
体が、熱い。
もう、走りたくない。
「っはぁ、くっ、あぁ......」
自分の状態に意識を向けてしまった僕は、ついに足を止めてしまった。
そしてよろよろと、近くの電柱にもたれかかり、ズルズルと座り込んでしまう。
もう、動けない。
そんな諦念に近い感情が心を占めるが、逃げなきゃいけない。
とにかく、逃げなきゃいけない。
いつあのゴンがドアをぶち抜くか分からない。
もしかしたらもうぶち抜いて追っているかもしれない。
どれだけ離れていても、安心できるようなものじゃない。
犬の鼻はいい。僕の匂いを嗅いで追ってくるだろう。
その前に、どこかへ逃げ込まなければ。
こんなところで止まっていたら、遊ばれてしまう。
そして見るも無残な死体になってしまう。
何としても避けなければ。
「っは、ここはっ、どこだ......」
だけどアテもなく走り続けたせいで、現在地が分からない。
住宅街らしいが、こんなところは家の近くにあった記憶がない。
本当、どこまで走り続けたんだ?
とりあえず、動かなきゃ。
そう思うも、体がピクリとも動かない。
何で、動かない。
あのゴンが、迫ってるんだぞ!?
捕まったら、死ぬんだぞ!?
へこたれている場合じゃない!
焦りが募るけど、身じろぎ程しか動かない。
「く......そっ、はぁっ、動け、動けよぉ......」
どうやっても、動く気配を見せない。
焦りばかりが募っていく。
だけど、動けない。
「あ、くっ......」
焦りが募って道行く人に助けを求めようと出かかった言葉だが、一瞬冷静な心が戻り、それを堪える。
助けを求めたところで、自分でも信じられないことを信じて助けて貰えるわけがない。
説得するだけ、時間の無駄だ。
焦っても、何もできない。
落ち着け、一度落ち着け、僕。
時間を無駄にするわけにはいかない。
動けないなら、助けを求められないなら、それなりに何とかしよう。
頭を切り替えろ。
今やれることをするんだ。
僕は動かない体に見切りをつけ、ゴンがすぐに来ないことを祈り、休むことにした。
「はぁ、はぁ」
息が上がり、かなり苦しい。
動くことはできない。
だけど、頭だけは少し動く。
考えろ、じゃなきゃ、死んでしまう。
あの時感じた確かな死への恐怖を思い出し、僕は必死に考えを巡らせる。
まず、あれは何なのか。
可愛かったゴンが、何故あんなのになってしまったのか。
昨日までは普通だった。
鳴き声も大きさも、いつも通りだった。
変化があったのは、本当にあの瞬間だけ。
本当に、あれはなんなのか。
夢や幻覚なら、話は早いだろう。
だけど、そうじゃないと僕のナニカが叫ぶ。
なら、あれをどう説明する。
考えろ。
突然変異?遺伝子の異常?にしては早すぎる。あの十数秒であれだけ骨格が変わる突然変異は、体への負荷が大きすぎる。自然に起こったとは思えない。
ウイルス?そんなの聞いたことがない。けど、ウイルスは体の負荷とか考えないから、ああいうこともありえるかもしれない。それでも現実的でないけど。
ラノベの展開よろしく突然化け物に変わる奴?それは最終的に上の2つのどちらかに収まる。
結局は何なのか、さっぱり分からない。
飛んでいる鳥とか、日向で寝転がっている猫は普通だ。
なのに何故、ゴンがああなってしまったのか。
それとも、まだそこまで被害が拡大していないだけなのか。
ウイルスだったらその可能性はある。
バイオハザード系の作品の中に似たようなものがあった......と思う。
けど、確証は持てない。
考えれば考えるほど、思考の沼にハマっていく。
......。
情報が足りない。
これに尽きる。
とりあえず、ゴン並びに犬、そしてその他動物に気をつけよう。
今分かることで対策を立てるとしたら、それしかない。
もしかしたら、人間も......。
.....そうなったら、間違いなく僕が最初の犠牲者になる。
そうならないことを祈るしかない。
「ふぅ......ふぅ......」
呼吸もだいぶ落ち着いてきた。
代わりに疲労特有の気怠さが体を襲うが、何とか動けそうだ。
道行く人に心配そうな、怪しむような目で見られているが、気にしていられない。
すぐそばに、死が迫っているかもしれないんだから。
そして、僕は立ち上が———
「ねえ、あんた大丈夫?」
———ろうとして、失敗した。
聞き覚えのある声に意識を持っていかれ、ボロボロの体はぺたんと腰をつけてしまった。
「大丈夫に......見える?」
そんな情けない自分の体に苦笑すると、僕は声をかけられた方を向く。
「見えないから声をかけたのよ」
「それも......そうだね」
そこには、目つきのキツイショートカットの少女が怪訝そうな目でこちらを見ていた。
——やはりそうだった。
声の持ち主の予想が当たり、少しだけ心に余裕ができた。
何せ、彼女とは昔からの知り合いなのだから。
「それで、裸足でこんなところで何してんのよ」
相変わらずの高めのギャンギャンうるさい声で彼女は僕を問い詰める。
いつもはうるさいと感じるそれは、不思議と嫌に感じなかった。
疲れ切った僕には、それが救いだと思った。
最後のチャンスだと思った。
「ああ、それなんだけどさ......」
だからなのだろう。
僕は、座ったまま頭を下げて、
「ちょっと......助けてくれない?」
「......はぁ?」
幼馴染、というより腐れ縁の彼女—澤田香に助けを求めた。
•••
「ごめんね、色々と」
香の自宅、そのリビングにて。
足に巻かれた包帯を摩り、僕は香に謝る。
まだじんわりと熱を持つ痛みが続いているが、彼女の処置であの時までよりかは幾分マシになった。
「あんたが助けを求めるなんて、異常事態以外何でもないわよ。そんな怪我まで負っちゃって」
そう言って、彼女はお茶を出して包帯が巻かれている僕の足を見ながら、向かいの椅子に座った。
彼女、澤田香とは小学校からの付き合いだ。
幼馴染とかそういうじゃないけど、小、中、高とずっと同じ学校に通っている、言わば腐れ縁だ。
特別仲がいいとか、そういう訳ではないけど、それなりに長い付き合いもあってそこそこの交友はある、ぐらいの仲だ。
——僕が彼女に助けを求めた時、彼女は訝しげに僕を見たが、僕に肩を貸し、彼女の家へと連れて行ってくれた。
交友があるとはいえ男を家に上げるなんて無防備だとは思ったが、正直助かった。あの場で放置されていたら、危なかったかもしれない。
家に連れていかれた僕は彼女の処置を受け、家で休ませて貰えることになった。
そして今に至る——
「それで、何があったか教えてちょうだい」
腰を下ろした彼女はジッと僕の目を見る。
その目は、どこか心配そうだった。
そんな目を向けられて、僕の目は自然と下を向いてしまう。
「話すけど、その前に聞いて欲しい」
心配してくれる彼女でも、正直僕は不安だった。
自分でもまだ信じられないことを話して、信じて貰えるか、が。
「なに?言ってごらんなさい」
「これから話すことは、実際に起こったことなんだ。信じられないかもしれないけど、信じて欲しい」
それでも、実際に起こったことだ。
もしかすると、僕だけじゃなく彼女までその被害に遭うかもしれない。
信じてもらうしかない。
僕はそう言うと、彼女の目を見た。
「信じるわよ。この期に及んであんたが嘘をつくとは思えないし」
そんな僕の葛藤を吹っ飛ばすかのように、彼女はあっさりとそう宣言する。
その潔さに、僕は思わず面食らってしまった。
だけど、それが彼女だと再認識し、自然と心が落ち着くのを感じた。
「ありがとう」
「いいわ。それよりも、私にも分かるように話してよね?あんた自分の中で分かってるつもりで話すからよく分からなくなるのよ」
「う、うん、分かった。出来る限り分かりやすいように話すよ」
少々申し訳なくなり、僕は頰を掻く。
「うちのゴンを知ってるでしょ?あのゴン。あのゴンが、化け物に変わったんだ」
そして、僕は話し始めた。
ゴンが変わった時の様子、そこから追いかけられたこと、それに対する僕なりの考察を全部彼女に話した。
その間、彼女は馬鹿にすることなく僕の話を聞いていた。
彼女のそんな姿を見て、僕は彼女に助けられて良かった、と話しながら思った。
僕が話し終えると、彼女ははあ、とため息をついた。
「正直、信じられるようなことじゃないわね。話したのがあんたじゃなきゃ、夢でも見てるんじゃない、って突っぱねたところよ」
「僕自身信じきれていないんだ。仕方ないことだよ」
「それでも私は信じるわ。話を聞いたところだと、私も危なくなるかもしれないし」
「ありがとう、信じてくれて」
僕はそんな彼女に感謝する。
だが、問題が解決したわけじゃない。
ゴンがいつここを突き止めてもおかしくないのだ。
普通の犬でさえも優秀な嗅覚を持っているのだ。身体能力が強化されたあのゴンがどれだけの嗅覚をもっているかは未知数だ。
僕の家から彼女の家までは10キロほど離れている。すぐに追いつかれるとは思えないが、嫌な予感は拭えない。
幸いなことに、彼女の処置を受ける前にシャワーを浴びて、来ていた服の代わりに彼女の兄の服を着させてもらっているため、今から逃げるなら匂いでバレることはない、と思う。
逃げるなら、今の僕の匂いを覚えられる前に逃げた方がいい。
「それで、これからなんだけど——」
僕はそう考えて、彼女に提案しようとした。
その時、僕の視界の端でナニカが動いた。
僕は言葉を引っ込めてバッ、とこっちを見る。
「ニャ〜」
だが、そこにいたのは可愛らしい白い猫だった。
「ね、ねこか」
「別に飼ってるわけじゃないわ。親戚の人から預かってるの。それがどうかしたの?」
「い、いやなんでもない」
ゴンのこともあり、少しばかり気が立っていたようだ。猫でびっくりするぐらいなのだから。
ゴンじゃないと知り、ホッと胸をなで下ろす。
そして、話を戻そうと彼女の方に向き直る。
だけどなんだろう。
なんか、嫌な予感がする。
そう、ゴンの異変に気付いた時のような——
「二”ャアアアアアアアア」
「—————」
息が詰まる。
それは、予感が的中したことを表す。
明らかに、声が変わった。
さっきの細く高い声じゃなく、野太く低い声。
これは、間違いない。
僕は恐る恐るそちらを見る。
その猫は、少しづつ大きくなっていた。
「ちょ、ちょっとこれって...」
「ゴンと、同じ...」
見る見る身体が大きくなり、可愛らしい相貌を醜く歪めながら変貌していく白猫。
ゴンとは違い、体の大部分が原型を保っているが、その尻尾は2つに割れた。
『ニ”ャアアアアアアアアアアアア......」
白猫は天井近くまで大きくなり、その存在感を辺りに撒き散らす。
そして、僕等を見るとニタァ、と背筋が凍るような笑みを浮かべた。
やばい。
やばいやばいやばい。
やばいやばいやばいやばいやばい!!!
生存本能が警鐘を鳴らす。
頭が命の危機を感じ、フル稼働する。
だけどそれより先に体が反応していた。
僕は、体を机の下に滑り込ませた。
刹那、頭上をナニカが通り抜けた。
ガッシャアアアン!
食器が割れる派手な音が、彼女の家に響く。
机の下に、その破片が飛んできた。
見ると、化け猫が食器棚に突っ込んでいた。
『ミギャァァァアアアアアア!!』
化け猫はそこから抜け出せないのか、はたまた皿の破片が顔に刺さっているのか、凄まじい声を上げる。
なんだ、あれ。
デタラメだ。
逃げ切れる、わけがない。
さっきのは、運が良かっただけだ。
化け猫の身体能力に、僕は恐怖する。
そのまま座っていたら、僕の頭は今頃体と泣き別れていた。
それを感じさせる凄まじさだ。
「ちょっと、何の音?」
階段から、誰かが降りてくる。
あれだけ派手な音を立てたのだ。異変に気付くだろう。
だけど、これはまずい。
「お母さん、来ないで!!」
香が叫ぶが、その人、香の母はそこに来てしまう。
その時、食器棚から化け猫が顔を上げた。
化け猫の視線が、香の母に向く。
「ちょっ、な———」
それが、最後の言葉になった。
香の母がいたところに、化け猫の姿があった。
そして、その口に頭を加えていた。
間違いなく、香の母のものだ。
ドサッ、という音とともに、香の母の体が倒れた。
一瞬訪れる静寂。
そのあと、響くのはゴリッ、ゴリッ、という化け猫がナニカを噛み砕く音。
「い、いやあああああああ!!」
彼女の絶叫が響き渡った。
リビングは、一瞬にして恐怖に包まれた。
「に、逃げるよ!」
僕は恐怖にビビりながらも机から這い出し、彼女の手を取る。
そして無理やり立ち上がらせ、玄関へと走る。
化け猫は人間の味を占めたのか、香の母の体を貪っている。
今しか、逃げる機会はない。
「お母さん!お母さん!」
必死に母の元へ駆け寄ろうとする彼女を引っ張る。
これ以上誰かが死ねば、僕も保ちそうにない。
それ以前に、彼女を死なせたくない。
嫌がる彼女に無理やり靴を履かせ、ドアを開けた。
「お母さああああああああん!!」
叫ぶ彼女を引き連れ、僕は外へ出た。
そしてドアを閉める瞬間、化け猫と目があった。
次は、お前だ。
そう言われた気がした。
ガチャン!とドアを閉める。
恐怖を断ち切るように。
未だ縋る彼女を諦めさせるように。
「ほら、走って!」
こうして、僕等は走り出した。