プロローグ
もしもこの世界を作った私が、欲望や悪を嫌い、罪を罰し、善を愛するような存在なら、人間というものはそもそも存在していない。
欲望に塗れ、生きるだけで悪を生み出し、罪を犯し、善を裏切る人間だ。目も当てられない存在であろう。そんな私なら、最初からそんな存在を作る訳がない。欲望を消し去り、善のみを行う存在として作り上げるだろう。
そのようにすれば、誰も死なない、何も失われない理想郷が生み出されるだろう。
しかし、実際に私はそのようなことは行っていない。簡単だ。私はそんな正義を体現したような存在じゃないし、そんなことをすれば『面白く』ないからだ。
全てが善ならば、何も始まらない。
欲望があるから、悪があるから、罪があるから、物事は動く。
希望や絶望が生まれる。
そして、より『面白い』イベントが起きる。
産業革命然り、世界大戦然り。
欲望や悪、罪があったからこそ、この世界のイベントが起こったのだ。
私にとって、世界とは絵本だ。
地球を舞台にした、世界中の生き物が主人公であり、脇役であり、モブであり、敵の物語だ。
敵と味方が馴れ合う物語なんて、『面白く』ないだろう?
希望や絶望が入り乱れていた方が、ドキドキするだろう?
より『面白い』イベントがたくさんあった方が、物語としては『面白い』だろう?
だから私は世界に善という綺麗なものだけでなく、欲望や悪、罪といった穢れたものを混ぜ込んだのだ。
より多くのイベントが起こるように。
より絶望や感動的なシーンが見られるように。
よりこの物語が『面白く』なるように。
さて、そんな感じで進めてきたこの世界だが、ちょっと『面白く』なくなってきた。
発展に発展を重ねてきたこの世界だが、それがマンネリ化してきたのだ。
同郷の私の神の友人にも、『最近お前のところつまんねえよな』と言われる始末だ。それはいただけない。
だから私は、この世界に少しだけ手を加えることにした。
途中で神が世界に直接手を加えることは、この界隈ではタブー視されている。
確かに『面白く』なりそうだが、手を加え過ぎてコンセプトがズレ、逆に『面白く』なくなるからである。
しかしそれは、1億年も持たない世界しか作れないことが多い界隈の暗黙のルールだ。47億年も続けば、そのルールは意味をなさないだろう。むしろかなりのテコ入れをしなければ、これ以上は厳しいかもしれない。
案は既に考えている。
後はそれを実行するだけだ。
私はこの世界に、1つの種と雫を落とした。
種は、絶望を与える闇。
人間を除く全ての生き物が、凶悪な生命体に変異するウイルスの種。
これにより、世界は絶望と混沌に包まれるだろう。
そして、雫は希望の光。
人間に与えられた、さらなる可能性への光の雫。
これにより、人間は新たなる可能性、『面白さ』を見せてくれるだろう。
人間が絶滅しても、環境を克服しても、どちらに転んだとしてもその先には『面白い』展開が待っている。
ここから先は、私でも分からない未来だ。
さあ見せてくれ。人間の可能性を。
•••
ワン!ワン!
真司!起きなさい!
「......うるさい......なぁ」
ぼやける意識の中、飼い犬のゴンの鳴き声と母さんの呼ぶ声に顔をしかめる。
「今日ぐらいゆっくり休ませてよ......」
僕はそう呟くと、布団に蹲る。
なんだって、今日は日曜日。
しかも塾もない、他に予定もない、完全フリーな貴重な日曜日。
センター試験に向けて仕上げとかしないといけないだろうけど、こんな日まで勉強に費やしたくない。だらけたい。
だけどそんな甘えが許されないのが僕の家。
「真司!いつまで寝てるの!もう朝ごはんが冷めちゃうじゃない!」
「ワンワンワン!」
ガチャン!と扉が開け放たれ、母さんと怒声とゴンの鳴き声が部屋に響く。
「知らないよ、もうちょっと寝かせてよ......」
その煩さに、僕はゴロンと寝返りを打って母さん達に背中を向ける。
だけど次の瞬間、掛け布団と毛布が僕の上から消えた。
「ワン!」
「ぐふっ......」
そしてゴンによる脇腹へのダイレクトアタックが、布団を失った寒さと共に襲いかかってきた。
「ほら早くしなさい!今日はお父さんと私は出掛けるから全部片付けておきたいの。真司が片付けてくれるならいいけど、できないでしょう?」
「うっ......」
寒さと痛みに加えて図星を指され、言葉を詰まらせる僕。
「み、美玲がやってくれ......」
「あの子は友達と遊びに行ったわよ。というか、妹に頼るなんてはずかしいと思いなさいよ、全く」
そして最後の砦も落とされてしまった。
呆れた様子をひしひしと伝えてくる母さんは溜息をつくと、スタスタと歩いていき、カーテンを開けた。
「うぅ......」
眩しい陽の光が僕の顔を照らし、叩き起こしてくる。
「わふんっ!」
「ちょっ!?」
そしてトドメのゴンの顔舐め。
これで完全に目が覚めてしまった。
そして目の前のゴン越しに母さんと目が合ってしまう。
「目が覚めたなら早く朝ごはん食べてちょうだい」
「ふぁ〜い......」
こうなったらもう起きざるを得ない。
ベッドから立ち上がると、よろよろとしながらもリビングに向かう。
どこにでもある、家庭のひと時。
当たり前の日常。
今までも、そしてこれからも、この日常は変わらない。
当たり前のように朝を迎えて、当たり前のように家族や親しい人と時を過ごし、当たり前のように明日を想像して、明日を迎える。
そしてこれがずっと続く。
そんな幻想を抱いていたのは、きっと世界中の人々も同じだろう。
その日常の歯車は、既に狂ってるとも知らずに......
•••
「それじゃあ、行ってくるね。ちゃんと勉強してるのよ?」
「分かってるよ」
余計なお世話だよ。守るつもりもないけど。
ドアを開け、ちらっとこちらを見てそう言い残す母さんに、リビングの机の上で赤本を開いてにらめっこしていた僕は心の中で呟く。
「ゲームばっかりしてたらダメだからね?あんた成績はいいけど調子乗って本番でやらかすんだから。分かってる?」
「はいはい」
早く行ってよ。
いつまでもドアの前から動かない母さんに毒づく。
こうなるといつもは長いのだけど、今日は1人で出かけるわけじゃないからすぐにドアを閉める音が聞こえた。
間も無く、父さんと母さんを乗せた車が走って行く音が聞こえ、そして聞こえなくなった。
さあ、母さんは居なくなった。
ここからは僕だけの時間だ!
惰眠を貪る、そしてゲームをする!
もうそれしか選択肢はないっ!
勉強?知らない子ですね。
母さんの言ったことを守らなくていいの?いつものことです。
さあ、1人を満喫しよう!
パッと立ち上がり、華麗にターン!
そして部屋へ直行!
走っても誰も咎めない!
寝てようがゲームしていようが誰も何も言わない!
最高だ!素晴らしい!!
そんな思いが心の中を駆け巡る。
そして部屋の前に着き、僕は扉を開ける!
「ワ”ン!」
「......そういえば、お前は居たんだったね」
扉を開けた先、そこには全力で尻尾を振っているゴンの姿があった。
その円らな瞳には、僕と遊んでよ!と言う思いが見てとれる。
「あー、ごめんよ、ゴン。お前と遊んでいられないんだ」
寝るからね。
「ヴヴぅ......」
断られたゴンは悲しそうに僕を見つめる。
き、気まずい。
きっと寝てるのバレたら叩き起こされるんだろうなぁ......
「ご、ごめんて、ほら、よーしよしよし」
耐えきれなくなった僕は屈むとゴンを抱きしめ、わしゃわしゃする。
昔から、これがゴンのお気に入りだ。
「グルルルルル」
わしゃわしゃとされたゴンは、気持ち良さ......ん?
「ね、ねえ、お前ってそんな声で鳴くっけ?」
まるで威嚇するような声でゴンが鳴く。
いや、威嚇する時もこんな恐ろしげな声は出してなかった。
初めて聞く声だ。
ふとそんな違和感を抱くと、また新たに違和感を覚えた。
というよりも、これは異変だ。
「ま、まって、お前、こんなにでかくなかったよね......?」
わしゃわしゃとしている手が、記憶よりも高い位置にある。
それだけじゃない。
それがどんどん高くなっていくのだ。
「ゴ、ゴン!?」
僕は慌ててゴンを見る。
「んなっ!?」
そしてそれを見て、僕は驚きを隠せずに尻餅をついた。
何が起こっているのか、理解が出来なかった。
だって柴犬ぐらいの大きさだったゴンが.......
ライオンサイズまで、大きくなっているのだから。
「な、なんだよこれ......」
頭の中が真っ白になる。
理解しようにも、理解が追いつかない。
夢でも見ているような気分になるけど、こんな質量感たっぷりの夢なんて、ないだろ。
『グルルルルルルルルルル』
ゴンは唸り声を上げる。
その姿は、もう原形をとどめていなかった。
ふわふわと茶色い毛並みは消え去り、黒光りする皮膚になっていた。
そこから見えるのは、異常と呼べるほどに隆起した筋肉。それが全身を覆っている。
もうこれは、ゴンじゃない。それどころか、現実の生き物とは思えない。
例えるならそう、地獄の番犬。
現実逃避を始めた僕の頭は、その結論を出す。
もちろん、体なんて動かない。
恐怖に、腰が抜けてしまった。
逃げることなど、できない。
元ゴンはその巨大な目を僕に向ける。
その目には、ゴンだった時と同じ、僕と遊んでよ!という思いが見てとれる。
だが、こんなゴンと遊んだら、僕は死んでしまう!
「ひ、ひいいいいいいい!!」
恐怖でガクつく体を無理矢理動かし、生まれたての子鹿のように逃げる僕。
『ガウウウウウウウウウウ!!』
追いかけっこだ!と言わんばかりに僕の背中を追いかけ始める元ゴン。
冗談じゃない、捕まったら洒落にならない!
僕は何とか体勢を整えて玄関に向け走る。
「っと!」
その途中で、僕は机の上に置いてあった鍵を手に取る。
戸締りなんか気にしている場合じゃないが、鍵を閉めずに出てもすぐに遊ばれてしまう。
元ゴンの方が足が圧倒的に早い。障害物がなければすぐに捕まってしまう。
そうなれば、僕の命はない。
少しだけ残っていた冷静な心が、その判断を下した。
だが、その結果ただでさえ少ない距離がさらに詰められてしまった。
元ゴンの鼻息が、僕の首筋を撫でる。
「うわあああ!!」
『グワアアアアアアウ!!』
そして、あとちょっとで追いつかれる、と言う時に、僕は玄関のドアに手をかけ、そして外へ出た。
「ああああ!!」
『ギャンッ!』
ガンッと全力でドアを閉め、すんでのところで元ゴンを家の中に閉じ込めることに成功。
そのまま鍵をかけ、力が抜けたのかへたっと座り込んでしまう。
「はぁ、はぁ」
息が苦しい。
やはり、これは夢じゃない。
夢ならこんな苦しくならない。
じゃあ、あれは一体なんだと言うんだ!?
夢じゃない現実なら、一体何が起こっている!?
怒りに似た疑問がふつふつと湧いてくる。
だが、答えが見つかるはずもなかった。
ガンッ!ガンッ!
「っ!?」
突然、ドアから何かがぶつかるような音と振動が伝わってきた。
元ゴンが、ドアをぶち抜こうとしているのか!?
体当たりする度に音と振動が大きくなり、ドアがだんだん歪み始めた。
犬にこんな力があるわけがない。
やはり、何かが起きている。
「わあああああ!!」
音と振動的に、そんなに保たなそうな感じを覚えて僕は裸足のまま急いで駆け出した。
周りからの視線と足の裏が痛いが、気にしていられない。
あの化け物から少しでも離れたい。
安全を確保したい。
僕はその思いで走った。
ただ、これは始まりに過ぎなかった。
絶望の種は、もう既に世界中にばら撒かれている。