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風の記憶  作者: 望月桔梗
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第二章 絡み合う縁の糸

 豊かな草花が競い合う平原を、馬に乗る若い男とその手綱を引く少年が進んでいた。

「バシリオス様。あの先の川岸で馬を休ませますか?」

 手綱を引いていた少年が、少し先に見える川を指さして振り返り尋ねた。

「そうだな。少し休むか。お前も疲れただろう? レヴァント」

「僕は平気です。若いですから」

 にっこりと返す顔に、疲れが見て取れる。

「ふふん。強がってもそんな風に足を引きずっていてはバレバレだぞ」

 その事には触れず、おくびにも出さず、気付いた別の理由を口にしてからかう振りでレヴァントと呼んだ少年を気遣う。

「えっ?」

 自覚がなかったのか、驚いて足を止めるレヴァント。

「ほらどうした。痛い時は一度歩みを止めてしまった方が辛いぞ。もうちょっとの辛抱だから頑張れ」

 バシリオスに促され、わたわたと歩き出すレヴァント。痛みに顔を歪ませる。

「で、あの川で何かあるのか?」

「……。わかりません。ただ、川岸と、バシリオス様位の年齢の男の人が、以前視えました。あそこの事かまでは、はっきりとは。申し訳ありません」

「いいさ。気にするな。お前が視て教えてくれなければ、知る事すらなくすれ違うだけかもしれないのだから。情報があるだけ良い」

 申し訳なさげに答えるレヴァントに、バシリオスは何でもないように応じた。

「ほら、もうすぐそこだぞ」

 レヴァントを励ますバシリオス。レヴァントを気にするあまり、周囲に目がいかなかった。川向うに一本だけ木があり、そこに馬を繋ごうと、深くない川を渡り始めた。

「おい! 上流を渡るんじゃねぇよ! 洗濯してる人が見えないのかよ!」

 若い男が川向うから怒鳴った。ハッとして下流を見やれば、こちら岸にしゃがんでいる女性が慌てて洗濯物を引っ込める様子が見えた。余計に川が汚れるとは思ったが、岸に戻らせ、レヴァントに馬を任せて女性の方に急ぎ足で近づいた。

 びくびくしている女性を意に介さず、声をかけた。

「すまない。気付かなかった。汚れてしまったか?」

「あ、え、いえ。また洗いなおしますから」

「いや。汚させてしまったのはこちらだ。それを貸してくれないか」

「へっ? なっ何をおっしゃるんですか。そんな、滅相もない!」

「遠慮しないでいい。ほら」

 半ば強引に洗濯籠を手にすると、すたすたと馬の方へ歩いて行った。慌てる女性にそこにいるようにジェスチャー付きで言い、レヴァントが、自分が洗うからと手を伸ばしたのを遮り、馬より少し上流でごしごしと洗い始めた。

 若い男がぽかんとして見ている。

「うーん、こんなものかな?」

 一通り洗い、絞って籠に入れて女性の元まで戻った。

「これで大丈夫か?」

 心配そうに籠を渡すバシリオス。

「申し訳ありません。洗剤を使いますから大丈夫でしたのに」

「やはり綺麗に出来なかったか? 済まない」

「いいえ。助かりましたわ。ありがとうございます」

 女性は丁寧にお礼を言い、帰っていった。

 改めて川を渡り、木に繋ぐと、今度は男の方に歩いて行った。

「さっきは教えてくれてありがとう」

「えっ、い、いや。きつい言い方をしてしまって済まなかった」

「いや。俺の不注意だから良いんだ。俺はバシリオス。あんたは?」

「あっ、え、と。テイルと言います。し、失礼しました」

「何をそんなにびくついているんですか? 俺はただの旅人ですよ」

「いや、あの子がさっきから怖い顔しているから。どこかの王子様かと」

「ん?」

 バシリオスが振り返るとレヴァントが複雑な顔をしていた。

「なんだ、レヴァント? 何か言いたいことでもあるのか?」

「……。何がただの旅人ですか。何であんな下々の者がする事をするんですか。貴方は」

「レヴァント! お前は何を勘違いしているのだ? お前が視たのは先の未来。今は只、野望を抱く一人の旅人に過ぎない。何の為にその野望を実現しようとしているのか話して聞かせた筈だぞ。立場をわきまえろ! 何が下々の者、だ。お前も俺も、誰かを見下す立場になどない!」

 レヴァントに向き合い、厳しく叱責したバシリオス。

「ですが、貴方も僕も男です。あんな仕事は女がすべき」

「もう良い! これ以上は無駄だ! お前は痛めた足を休ませていろ」

 レヴァントが言い募ると、バシリオスは途中でぴしゃりと遮り、強制的に話を終わらせてしまった。

「お、おい、いくら何でも酷すぎないか?」

「あぁ、済まない、驚かせてしまったな。あいつはちょっと事情が複雑でな。気にしないでくれ。心配しなくても後でフォローしておくよ」

「はぁ」

「それより、見たところ旅の途中のようだがもう発つか?」

「いや、もう少し休もうかと思っていたところだが」

「良かった! もし迷惑でなければ旅の情報交換しないか?」

「情報らしい情報なんて、俺は、持ってないと思うけど」

「いいさ、もしそうならそうで。逆に俺の得た情報があんたの役に立つなら、さっきの礼という事で。な? 悪い話じゃないだろ?」

「そうだな……。でも礼というなら、一つあの子に頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」

「何だ?」

「あんたさっき言ってたよな、あの子が未来を視てどうとか。俺はある人を探して旅をしているんだが、その事に関して視てもらいたいんだ。あの子に頼んでもいいか?」

「なるほど。うーん。問題はないと思う。確認してみるからちょっと待ってくれ」

 そう言って、確認しに踵を返した。

「レヴァント」

 バシリオスの声掛けにビクッと反応するレヴァント。恐る恐る顔色を窺う。

「はい」

「……。何で怒ったのか、わかったか?」

「……。わかりません」

「そうか。ならよく思い出すことだな。

 あいつがお前に視てもらいたいそうだ。出来そうか?」

 少し冷たく問いかけるバシリオスに対し、レヴァントは苦しそうに首を横に振った。更に怒られるかと思ったが、バシリオスはそれ以上怒る事はなかった。それから唐突に話題を変えた。

「出来ます」

「わかった。準備をして来い」

 用件だけを言ってテイルの元に戻る背中を悲し気に見つめ、次いで自分の心に気づいたのか、きつく唇を噛みしめ顔をそむけた。

 痛みに足を揉み解していたが、砂利の角が鋭利なのか、敏感になっているのか、じくじくと痛んだ。

 馬に負わせていた荷物から小ぶりの水盤を取り出し、水筒に水を汲んで二人の元へ歩いて行った。

「水盤? あ、占いなのか?」

「いいえ。水盤に張られた水鏡を通して未来が視えるのです。貴方の未来を視れば良いのでしょうか?」

「いや、正確には、今探している人と俺が出会えるか、なんだが出来るかい?」

「貴方とその方を繋ぐもので、濡れても構わないものはありますか?」

「これで良いか?」

テイルは白サンゴのペンダントを出した。

「はい。では水盤においてもらえますか?」

「わかった。これでいいか?」

 そう言って、テイルは大切そうに水盤の底に置いた。

「ありがとうございます。では水盤を水で満たします」

 とくとくと注がれ、満ちる水盤。

 程なく淡い光に包まれる水盤の表に像が結ばれ、流れていく。が、テイルにもバシリオスにも見えない。

「貴方と巫女の姿をした女性が視えます。誰かを前にかしずいています。このペンダントは彼女に送られるようですね」

 バシリオスが口をはさんだ。

「かしずいているというのは、室内か?」

「はい。多くの臣下が脇に控えています。巫女の着任の挨拶かも知れません」

「ではその時、どこかの王に、テイルさんは仕えているという事か」

「そのようです。帯刀のまま謁見を許される身分のようです」

「王の顔は分かるか?」

「……。はい。え」

「レヴァント?」

「し、失礼しました。王は、貴方です、バシリオス様。僕もまだお傍にいます。神官の姿をしています」

「神官がいるのに、巫女が着任するっておかしくはないか?」

 テイルが疑いを口にする。

「滅多にはないけれど、ありえなくはありません。例えば能力のない名ばかりの神官を何らかの理由で現状維持させる場合。もしくは民に関心を惹かせる為のお飾りとしての巫女を必要とされる場合とか、ですね」

「その未来はどちらなんだ?」

「そこまでは分かりません」

「控えている二人の位置関係は?」

「巫女が前でその右斜め少し後ろにテイルさんです」

「わかった」

「巫女の特徴を教えてくれないか?」

「特徴らしい特徴はありません。ただ、左腕上部にしている腕輪が随分と凝った意匠ですね。この模様が、彼女が仕えている神を象徴しているなら、風の神、ですね。碧の宝石がはめ込まれています」

「ありがとう」

「先も視ますか?」

「いや、いい。疲れているのにありがとう。出会える事が分かっただけでもありがたいのに、彼女の立場までわかったんだ、もう十分だよ」

 テイルは視てくれたレヴァントにねぎらいと礼を言って終了させた。

「しかし、偶然とは凄いものだな」

 バシリオスが呆れたような感心したような声音で言った。

「本当ですね。貴方達がここに休憩に来なければ、俺が怒鳴っても気にせず行ってしまえば、貴方達がここで言い争いをしなければ、俺が彼に頼みたいと思わなければ。過去にたらればはないけれど、どれか一つでも選択肢が違ったら、ここにいる全員の未来が重なっているとはわからなかったのですからね」

「いや、実は、川岸と男の姿が未来の何処かで俺と関りがあると先だってこいつが視ていたんだ。ただ、何処の川かもどんな男かも明確には視えなくて、あんたに声を掛けたのはそれを確認したい意味もあったんだ」

 申し訳なさそうにバシリオスが言う。

「そうなんですか?」

「あー、その、なんだ。俺が未来の王だからやっぱり王子か何かで、だから年下だけど敬語使わなきゃ、なんて思ってる? あんた」

「えぇ、まぁ」

「俺は王子じゃない。だから敬語やめてくれないか。でないと俺が敬語使うべきになる。

 俺は身分とか年齢とか関係なく、尊敬出来るなら例え5歳の子供でも敬う。お互いろくに知らない段階で下手な壁を作りたくないんだ。妙なやつだと思うかもしれないが」

 思い切ったように持論を展開するバシリオスを、驚いたように見つめるテイル。

「今、はっきりわかった事がある」

「?」

「年齢も立場も関係なく、今の貴方になら、臣下の礼を取る事に疑問を抱かない。自然と出来ると思う。でも、本音の部分は、隣を歩みたい」

「それは、感で?」

「違う。さっき貴方が言った持論が尊敬に値するから。

 この世で、それは異端な考えな筈なのに、初対面の俺にどう思われるかも、何をされるかもわからないのに曝け出した。俺を無意識に対立しないと判断して心を開いたからでしょう? 信じて開いてくれた人には、信じた事を後悔して欲しくない。だからそうならないように努力する。俺の勝手な考えだけど」

 バシリオスの顔が微かに赤い。

「よくそんな恥ずかしい事を大真面目に言えるなぁ。人たらしって言われた事ないか?」

「ないですよ」

「俺の持論よりずっと凄い事言ってるという自覚はないのか?」

「先に言った貴方の方が余程凄い。言っておくけど、誰にでも言ってるわけじゃないぞ。貴方が先に言ったから素直に言っただけだ」

「あーもーっ天然かっ? それが恥ずかしいんだって! そんな事、大真面目に言われたら照れくさいったら」

「王になる男が何をこの程度で照れているんだ? 王様っていうのは、歯が浮くような世辞とかを聞かせれまくっても流すものなんじゃないのか?」

「極端すぎだろ!」

「そうか? 貴方が言うならそうなんだろうな。嫌でした?」

「嫌だったら嫌だと言ってる。けど、言われた事がないから気恥ずかしくてどうしたらいいかわからない。

 でも、変なのかもしれないけど、気恥ずかしい反面、身が引き締まる思いがする。そんな風に思って言ってくれる人に、思いを掛けて損したと思われたくない」

 驚くテイル。

「今日出会えたのが偶然だとしても、お二人は出会うべくして出会った方達なのですね」

 少し羨ましそうにレヴァントが呟いた。

「だと、いい。いや、きっとそうだ。だから俺は今ここで、この繋がった縁の糸を切らないと宣言する!」

 眩しそうに見やるテイル。

「貴方がそう思ってくれるなら、俺はそう思われる自分を誇りに思う。維持してもらえるように頑張ろうと思う」

 穏やかにそう告げる。

 まだ照れくさそうにバシリオスが応える。

「お互いの事ろくに知らないのにこういう雰囲気になってしまうのって、やっぱりそういう事なんだろうな」

「そうですね」

 苦笑するテイル。

「ほらまた敬語。やめる気ないだろ?」

「ど、努力はしますが、じゃなかった努力はするけど、難しい」

「仕方ないな。あんた芯が強そうだし、そうそう変えられないんだろうな」

「う、済まない」

「いいさ。でも逆に俺がこういう口利くの、嫌じゃないのか?」

「別に気にしないな。拘らない。ただ、見下す奴は御免だな」

「いや、普通に無理だろう、そんな奴。避けて通るのが一番だ」

「そういう奴に限って避けられないんだけどな。どういうわけか」

「あぁそれは試練ってやつだな。対処法を学べってサインだ。どうしているんだ?」

「ひたすら我慢か、途中で怒ってぶち壊すかのどちらか、だな」

「それは続くな。我慢じゃなくて受け入れるっていうのはどうなんだ?」

「自分に非がなくても、相手がそう思ったんだから自分が悪いと謝罪でもするのか? それは何が何でも拒否したいのだがなぁ」

「違う違う。そうじゃなくて、そういう意見や考え方もあるんだって認めるんだ。成程なって言うなりなんなりしてから、でも自分はこうだと伝える。頭ごなしに否定されるよりも、正しいか否かは別として一度認められたら落ち着くだろ、相手だって」

「うーん。まぁ、そうだな」

「やってみる価値はあるんじゃないか?」

「まぁ、今までその発想はなかったからな。次そういう場に居合わせたらやってみるよ」

「そこまでしてもその相手が調子に乗って、あんたを一方的に非難するようなら、もう相手にしなければいい。相手のレベルが低すぎるのに付き合って自分を下げる必要なんてないんだから」

「ありがとう」

「いや、勝手に口出ししたのに、聞いてくれてこちらこそありがとう」

「ふふ。何だか会話が終わらなくなりそうだな。そろそろ混ぜてやらないと本格的にイジケるんじゃないか? レヴァントが」

 困ったように笑い、テイルは少し離れた位置に行ってしまったレヴァントを指さした。

「ん? あぁ、そうだな。太陽の高さから見てそろそろ昼時か。よし! テイルの貴重な時間を余計に使わせてしまった詫びも兼ねて三人で食事にするか。情報交換したいのも本当だしな。ここでいいなら食料が少し手持ち分あるが、町まで行くか?」

「彼の足の具合次第だな」

「ふむ。ここにしよう」

「賢明だな」

「試すなよ」

「はは。バレたか」

 じゃれる二人を、少し離れた位置からレヴァントがまた悲しそうに見ていた。


 簡単な食事だが、三人は有意義な楽しい食事をする事が出来て満足した。

「なぁ、バシリオス」

「何だ? というか、俺の名前、長くて言い難くないか? 縮めてもいいぞ?」

「そういう問題ではない気がするが。縮めていいなら。なんて呼ばれてるんだ?」

「バースとかバルスとかだな」

「ふうん。どちらでも良いのか?」

「いいぞ、好きに呼んでくれて」

「じゃあ、バルスで」

「おう。で、何を言いかけた?」

「巫女の事なんだが、巫女っていうのはどこかから派遣されるものなのか?」

「国が代々巫女を抱えていて、巫女の娘が引き継ぐ場合がほとんどだな。ただ、俺のように新しく国を作ろうとすると、当然アテがないから、どこかで見つけなきゃならない。例えばどこかの国を滅ぼして国主に収まればそのまま巫女を抱えられるかもしれない。自害していなければ、だがな。そしてもう一つの可能性が派遣だ。というより、本当のところは売買だな」

「巫女を買うって事か?」

 ぎょっとして問い返すテイル。

「この国はギリシャ領だ。奴らの考え方がしみ込んでいる。女は奴隷と大して変わらない扱いだ。学問の必要もなければ、暴力非暴力かかわらず戦うすべも必要ない。ただ、男に仕え、喜ばせ、子を産み育てる事が出来るならそれでいい。男に支配されるまま、大人しく従順に従っていればいい、とな。

 巫女の役割、テイルは知っているか?」

「え? 神様のお告げを聞いて伝える仕事だろう? 他は何かの儀式を行う事。そう教えられたが?」

 不思議そうに返答するテイルに頷き、

「他にもある。占いやら予言を求めて、対価として男共が金品を神殿に寄進する。巫女はその要望に応え、尚且つ寄進の額や価値にもよるのだろうが、男女の交わりをもって神の叡智授ける」

 淡々と紡がれるバシリオスの言葉に、テイルは絶句する。

「それ、は。つまり」

「今お前が思い浮かべた通りだよ」

「そん、な」

「お前が探している女は、対価を貰い、不特定多数の男と交わる娼婦になる、という事だよ。嘘か本当か知らないが、最初の相手は神様なんだとか。それ故にか、高級娼婦ともよばれているな」

 バシリオスは無情にもテイルにとどめを刺した。

 青くなるテイル。

「そう悲観することもないだろう? 裏を返せば国主はじめ男達を手玉に取って成り上がる事も出来るんだぞ? 自分達を酷い目に合わせてきた者達が、こぞって掌を返して縋ってくる。さぞかしそうなった巫女は気持ちいいだろうよ」

「……ろ」

「何だ?」

「やめ、ろ。そんな事、聞きたくない」

「事実だ。汚らわしいと思うか? 女が認められ生きていくには最高の道だと」

「やめろって言ってるっ!」

 声を荒げるテイルを憐れむように見、望み通り黙った。

「怒鳴って、悪い」

 顔を俯けたまま力なく謝罪するテイル。

「いや。少し厳しすぎたな。どうやら俺は思いやりに欠けるようだ。お前は悪くないよ」

 バシリオスはそう言って、そっとその場を離れた。川面に手を差し入れ、顔を洗う。

「愚か者めがっ」

 顔を拭き、苦々しく吐き捨てる。それが自身に向けられたものなのか、テイルに向けられたものなのか。その苦い思いを受け止めたのは、さらさらと流れる川だけであった。

 暫く思い思いの時間を過ごした三人。

「レヴァント。足の具合はどうだ?」

「大丈夫です。出発されますか?」

「ああ。準備しておけ。ちょっとテイルと話してくる」

「分かりました」

 まだ少し硬い表情でテイルに近づくバシリオス。

「俺達はそろそろ行く。

 探していた人と会えるのは、レヴァントの先視の力を信じるなら俺が一国の城主となってからだ。もしもあんたが望むなら、だが一緒に来るか?」

「巫女を売る組織はどこにある?」

 バシリオスを見ようとせず、問いに答える事なく何かを決意したような固い声で問うテイル。

「聞いた事はあるが、あそこに入り込むのは不可能だ」

「場所を教えてくれればいい」

「西の海、断崖絶壁に四方を囲まれた、無人島と思われている孤島だ。嵐などで間違って入る漁船もあると聞いているが、そこから生還した船は一艘もないそうだ。皆殺されているというまことしやかな噂が後を絶たない」

「上等だ」

 ニタリと笑うテイル。

「馬鹿な。のこのこと乗り込むつもりか」

 必要な情報以外は無視しているテイル。

「女しかいないのか」

「そう聞いている。シスターと呼ばれる女達が幼い少女を買って連れ帰っているそうだ」

 一瞬苦い顔をするテイル。嫌悪感を隠さずに言う。

「そして巫女に育てて売るのか。奴隷商人と大して変わらないんだな」

「マシだろう。子供を対象とした奴隷商人は育てるという概念はない。餌を与えて殺さないように痛めつけて大人しくさせてから言い値で売り払う。それだけだ。彼女らは少なくとも教育が施される。大事な商品だからな」

「同じ人間なのに!」

 憎悪も露わに吐き捨てた。

「それ、二度と口にするなよ。生きていたいなら、な」

「え?」

「異端中の異端だそれは。女の地位を低くしている男社会の一人でありながら、そんな事公言してみろ、袋叩きじゃ済まないぞ」

「ふん。異端上等。戦ってやる」

「ガキだな、あんた」

 冷めた目で言い放つバシリオス。

 ジロリと無言で睨みつけるテイル。

「俺はこの国の歪んだ考えを改革する為に王になるべく動いている。それは女の扱いに関してもそうだ。

 世の中、いや、この国の仕組みを変えたければ、自分が這い上がって上に立ち、変革を起こすしかない。少なくとも俺はそう思っている。小国とは言え一国の城主となれば、奴隷商人のような奴らを俺の国からは一掃出来る。俺が法だからな。そこから始めて、噂を広め、大きな改革の一歩を踏み出す」

「何が言いたい」

「分からないか?」

「知るかよ」

「じゃあ決まりだな。一緒に来い。背中で教えてやる」

「何様だ」

 鼻白むテイルに対し、バシリオスは薄ら笑いを浮かべ、ひょうひょうと言ってのける。

「俺か? 歴史に名を遺す王になる男だ」

「付き合いきれない。せいぜい大きな夢を吹聴していればいいさ」

 うんざりしたように立ち上がり、バシリオスに背を向けた。

「生きていてこその物種だ。死なない程度に頑張れ。お前が生きている間に王としての名を轟かせたいからな」

 小馬鹿にされた事を気にした様子もなく、テイルの背中に話しかけた。

 テイルは面倒そうに、振り返る事もなく軽く手を振って立ち去る。

「一緒に旅をするのかと思っていました」

 いつの間にか傍に来たレヴァントが呟くように言う。

「俺がしくじった。焦りが出たんだ。追いつめて他人を支配しようとは思っていなかったが、結果的にそうなってしまったようだ。

 まだまだ望む王に成る器ではないな。人生修業が足りない。氣を改めなければ」

「そうご自身の中で気付かれたのなら、この時のこの出会いは決して無駄なものではありませんね。

大丈夫です。一度結ばれた縁は消えたりはしません。互いが必要となれば、再びお二人は巡り合えます」

 微笑み、励ますレヴァント。

 レヴァントを見ようとしないバシリオス。

「ああ。そうだな」

 半ば上の空でそう答え、やがてバシリオスもテイルが去っていった方とは逆の方向に歩き出した。


 その後、テイルは聞き出した島に向かおうとしたが、その為の手段がことごとく失敗に終わり、辿り着くことはなかった。意気消沈するテイルが立ち寄った国に、新たに巫女がやってくるという噂を耳にし、待ってみることにした。

 数日後、好奇な目に晒されつつ、群衆の中を先導者の後ろから歩いている、美しい飾りを付けた、凛とした雰囲気の巫女を少し遠くから見つめた。

(あんな風に、フィリアも嫌な視線に晒されるのか? あいつを救い出してやりたいだけなのに、何故俺はあの島に辿り着けない?)

 悔しさに知らず拳を固め、奥歯を噛みしめているテイルの目の前で、遂に群衆の一人が均衡を破った。

「今度の神の奴隷女は、随分とお高くとまってるじゃないか。俺が身の程を教えてやろうか」

 下卑た野次が飛ぶ。それを機に、どっと笑いが起きる。

「来た早々に潰されたんじゃ気の毒だ。俺が優しーく教えてやるぜ?」

「何だとこの野郎!」

「やるか?」

 先導役の男は注意するでも押しのけて道を開けさせるでもなく、勝手に進んでしまう。

 たちまち取り囲まれて身動きが取れなくなる巫女。

 ここぞとばかりに無遠慮に伸ばされる手、手、手。

 テイルは、自分はよそ者だからと我慢してきたが、限界だった。

 おぞましい光景に吐き気と憎悪と嫌悪がないまぜになり、気が付くと飛び出し、巫女を庇う様にして殴っていた。

「いい加減にしろよ! 通してやればいいだろう!」

 その暴力に鎮まったのは一瞬で、直後からは血の気の多い男達の乱闘騒ぎが始まった。

 守ろうとする者も他にいない巫女は黙って乱闘を眺めていたが、やがて何もない空間から錫杖に似た黄金の杖を出すと、力強く地面を打った。

 その凛とした響きは、彼らの馬鹿騒ぎを一瞬で止めた。

「道をお開け下さい」

 気圧されたように、すっと道が開く。

「ありがとうございます。余計な事でないならば、お礼に、乱れた貴方様の氣を整えさせては頂けませんか?」

 柔らかく微笑む巫女。その表情や雰囲気からは、バシリオスが言っていた事から浮かべた印象はなかった。

「え? で、でも俺は」

「では、この場でその傷を癒してもよろしいですか?」

「この場で?」

「お許し頂けますか?」

 柔らかだが、否を言わせない強さを感じ、何かに操られるかのように頷いていた。

「あ、ああ。頼む」

「承知致しましたわ。では」

 巫女は口の中で短い呪文を呟き、殴られたらしい頬と口端の傷にそっと手を当てた。ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐる。

 テイルには巫女がただ傷に触れているだけだと思っていたが、周囲が一斉に驚愕にどよめいた。

「っ」

 ほんの一瞬、チリとした痛みが走り、その後は触れられた手の温もり以外何も感じなかった。

 触れた時と同じ柔らかさで巫女の手が外されると、テイルから傷も腫れも消えていた。

「奇跡だ! 奇跡の巫女を我々は手に入れたぞ!」

 巫女の力に固まっていた男達の一人がそう叫ぶと、周囲の数人が歓喜の雄たけびを上げた。

 テイルは呆然と頬と口の端に手をやって痛みが全くない事を確かめた。

「凄いな」

「気味が悪いですか?」

「そんな事! あの、失礼ですが、巫女というのは、皆そのような能力を授かるものなのですか?」

「いいえ。全員ではありませんわ。得手不得手もありますし」

「そう、ですか」

 少し考え込むテイルに巫女が口を開きかけると、にやにやと騒ぎを見ていた先導役の男が早くしろと怒鳴った。

「先導の役目を放棄していたやつが良く言うぜ! これだから貴族のイヌは!」

 傍にいた若い男が小さく吐き捨てた。

「傷を癒した程度では対価になりませんわ。今夜、神殿にいらして下さい。相応のお礼をさせていただきます」

「気にしないで下さい。俺が我慢ならなかっただけですから」

 またしても先導役の男が邪魔をする。

「貴様は騒ぎを起こした張本人として牢にぶち込む。余計な傷を増やしたくなかったら大人しく来い。

 おい! 衛兵、こいつを牢にぶち込め!

 よそ者が巫女の進行を妨げ騒ぎを起こしたとなれば、さて待っているのはなんだろうなぁ?」

 狂ったような笑みで舌なめずりする先導役の男。

「私が王に真実を訴えます。そうしたら、今あなたが想像した事は自分に返ってくるわ」

「はん! 今来たばかりの奴隷女の言葉と、長年仕えてる俺の言葉と、どっちを信用するかなんて考えなくてもわかるだろう。お前の言葉など本気になどするわけがない!」

「あらそう。ならば試してみるまでよ。

さぁ行きましょう。今度はきちんと先導のお仕事をしてくださいね」

「ふん! 奴隷女が偉そうに。ついて来い。今度は離れるなよ!」

「……。助けて下さった貴方に、我が神、大地の祝福と加護を」

 巫女は素早くテイルに向き直り、そう言って彼の額に指を当てた。

「必ずお助け致します。頑張って下さい」

「巫女の方こそ。辛いでしょうが、頑張って下さい」

 引き離されるまでの僅かな時間に、二人はそんな会話を交わした。


 その夜、城の奥深くから、凄絶な悲鳴が聞こえたという。

 一方、牢に入れられていたテイルはその日の内に釈放され、城へ連れていかれた。

「お前か、巫女を助けたというのは」

「はい」

「面をあげろ。構わない」

 テイルは逡巡すると、ゆっくりと顔を上げて王と対面した。

「我が民ではないそうだな」

「人探しの旅の途中で寄らせていただきました」

「ほう? 偶々ここへ寄ったと? 信じられると思うか?」

「……。事実は事実です」

 じっと見返し、落ち着いた声で答えた。

 そのまま視線を絡ませ、数秒後。

「珍しい程気持ちのいい目をしておるな、お前。名を聞いておこう」

「テイルと申します」

「一応聞くが、旅をやめて、我が下で働かぬか?」

「まだ旅の途中ですので、王様のお役には立てません」

「今のお前にはその答えしかあるまいな。だがこれならどうだ? 

 旅費も出す、何処へなり自由に旅をして良い。ただ時々その国の内情を噂程度で構わんから報告する。伝書鳩を使えばお前にここへ戻る手間はない。

揺らがぬか?」

 王は試すようにそう言って返答を待った。

「私がどなたかに仕えることがあるとするなら、それは只一人、先に出会っているある人物と決めております」

「ほう。先約があったか。惜しいな。だが今日、お前には借りが出来た。我が民でないお前が、我が国の巫女を助けた。その恩義には義で返さねばならん。我が下でという話は忘れてよい。まずは一つ。巫女を助けてくれた礼に、巫女からの予言を授ける」

「えっ」

「二つ目。腐った臣下をあぶりだしてもらった礼だ。一度だけ、もし先約の男に仕えて後に我が力が必要と思う時は何時でも呼べ。お前の為に尽力しよう。ただし、その時はお前の主と直接対談する機会がある事が条件だ。もしお前が主と仰ぐ価値もないと判断したその時は、協力した後、お前を引き抜く。どのような姑息な手を使ったとしても、な」

「何故、私などに、そのような……」

「義には義をもって返す。それが我が信念。それだけの事だ。故に、欲しいと思った男が捧げる義にその主が値しないなら俺が貰う。その時はお前に義を掛けよとは言わん。俺がお前から主を奪うのだから」

 テイルはただただ困惑する。

「お前は理解していない。お前自身の価値をな。自信過剰は身を滅ぼすが、お前はもっとうぬぼれても良いと思うぞ」

「身に余るお言葉です」

「巫女!」

 突然大声で呼ばわる王に驚くでもなく、静かに現れた昼間助けた巫女。

「こちらに」

「ここにいる客人に其方から預言を授けよ。大地の巫女としても、助けて貰った礼はして然るべきであろう?」

「乱闘の際の傷を癒していただきました。それだけで十分でございます」

「お前は欲というものがないのか? 良いと言っているのだから受ければ良いものを」

 王は面白そうな、呆れたような声で言う。

 巫女がかしこまって口をはさむ。

「王よ、恐れながら申し上げます」

「何だ?」

「この方は恐れておいでなのです」

「俺をか?」

「いいえ。恐らくは探し人と私が同じ立場なのでしょう。私にその探し人を重ねてみてしまう故に、預言を授かるという事が私に負担を強いるものなのではないかと。そうお考えなのでは?」

 びくっと反応するテイルに気付いたが、王はそれを指摘せず、そうか、とだけ答えた。

「ならば無理にとは言わん。が、礼はせねばならんからなぁ。……。よし。では巫女よ。この客人と一晩すきに語らえ。語るだけならば負担にはなるまい。客人の聞きたい情報を巫女が持っていることもあろう。それで良いな? テイル」

 これ以上譲歩はしないといった雰囲気に、テイルは諦めるしかなかった。

「有難くお受けいたします」

 満足そうに頷いた王は側近を呼び、巫女とテイルを神殿に送るよう命じた。


 城の北にある丘の上に神殿は建てられていた。周囲には何もない寂しい所であった。

 テイルは、いつかフィリアもこんな寂しい所に閉じ込められ、残りの生を生きなければならなくなるのかと思うとたまらない気持ちになった。

 神殿に着くと、側近は明日の朝迎えに来ると告げて城に戻っていった。

 二人きりになると、どちらともなくため息をついた。二人は顔を見合わせて笑った。

「そういえば、まだ名を名乗っていませんでしたわ。気付かず申し訳ありません」

「いえ。俺の方こそ、巫女には名乗っていませんから」

「では改めまして。大地の巫女を務めております、セシリアと申します」

 礼儀正しく、優雅に挨拶をするセシリア。

「俺はテイルと申します。小さな漁村の、漁師の倅です。敬語を使っていただくような身分ではありません。どうかお気遣いなく」

「ふふ。では『神の奴隷女』たる私にも敬語を使うべきではありませんね?」

「巫女」

 困り果てたように言うテイルを穏やかに笑うセシリア。

「聞きたいことがおありなのでしょう?」

「……。その、巫女は、どちらからいらっしゃいましたか?」

「海の向こう、絶海の孤島とだけ申し上げておきますわ」

「そこには、どのくらい前から?」

「はっきりおっしゃってください。貴方は私や共に育った皆を軽蔑しているわけではなさそうですが、そのように本題に入らず根掘り葉掘り聞かれるのはいささか不愉快ですわ」

「すみませんっその、妹同然に育った子が、両親に、その、売られて。貴女がいたそこに連れて行かれたかもしれないのです。

 友人から聞いて、どういう者達が集められるのか知っています。だから、その……」

 言いにくそうにしながらも、言葉を選んで確認するように答えるテイル。

「お気遣いは感謝いたしますわ。ですが、あまり考えすぎるとかえって相手に誤解を与えますわ。少しは冷静に事を運ぶ訓練をなさった方が良いと思うのですが」

「すみません」

 シュンとするテイルにため息をつくと、フィリアは水を向けた。

「その子の名前は?」

「フィリアと言います」

 テイルが名を口にした瞬間、ヒュッと喉笛を鳴らし、目を見開いたセシリア。

「ご存じなのですか?」

「あぁ、あぁ、何という巡りあわせ! こんな、こんな事が……」

「巫女? 大丈夫ですか?」

「フィリアは、私の親友であり姉妹の様なものです。同じ日に連れてこられ、以来ずっと互いに励まし合い、時には叱り合って色々な事を乗り越えてきた。そして、私があの子に巫女の道を選ばせてしまった」

 最後は涙で聞き取りずらかったが、セシリアはそう言って顔を覆って泣き出してしまった。

「彼女は、巫女になっているのですか?」

「ええ。ひと月程前に」

 セシリアは涙をこらえようと努めながらどうにか答えた。

「巫女、いえ、セシリアさん。どうか自分を責めないで。貴女はさっきフィリアを親友であり姉妹の様なものと仰った。ならそれはフィリアの為を思っての事でしょう? フィリアだってその事は分かっていると思います」

「有難うございます、イアのお兄様」

「イア……? そうですか。彼女をそのように愛称で呼んで下さっていたのですね。彼女は両親のもとから去り、かえって幸せだったのですね。救い出そうと躍起になって飛び出す必要もなかったかもしれませんね」

「いいえ。貴方が探してくれていたと知ったら、彼女どれだけ喜ぶことか」

「だと良いのですが。彼女と別れる少し前、俺は彼女の心を傷つけてしまった。それからきちんと謝れないまま、他人として扱われるのがイタくてどうにか出来るかもしれないとなったその日が、彼女との別れの日になりました。

 欲しがっていた首飾りを作って渡しに行ったら、もう売られた後で。他の大人全員が、わざと当日すれ違う様に仕組んでいたのだと後から知りました。情けない話です。初めて漁に連れて行ってもらえて、ペンダントに出来そうなものも手に入れて、俺は有頂天になってた。何にも気付かずに」

 自虐に笑うテイル。

「あの子に会って、貴方はどうしたいのですか?」

 何とか落ち着いたセシリアが、冷静さを取り戻し、テイルに尋ねた。その声は冷たさを孕んでいるようにテイルには感じられた。

「島を飛び出した当時は彼女を救いたい一心でしたが、今は、正直迷っています」

「迷う?」

「先に貴女に叱られた通りです。あれこれ考えすぎて身動きが取れなくなるのです。

 俺を覚えている可能性の方がはるかに低いのに、名乗って混乱させて良いのか、彼女にとって俺や島の事を思い出させてしまう事がかえって苦しめる結果になりはしないか、未練がましく持ち歩いている首飾りも、今の彼女にとって何の価値もないものかもしれない」

「思考の先にある貴方の思いは? あるいは願いは、何ですか?」

 セシリアは感情をあえて込めずにテイルの心の内を問う。

「……。他人としてでもいい、傍にいて見守っていてやりたい。もしも俺に出来る事があるのなら、それが本当にフィリアの為に、フィリアを助ける事になるのなら、何でもしてやりたい。……。これが、俺の中の真実の心です」

 口にする事を躊躇っていたが、テイルは意を決したようにセシリアの目を見て答えた。

 小さく微笑むセシリア。

「その真実の心が胸の内にあり続ける限り、きっとうまくいきますわ」

「そうでしょうか?」

「もちろんですわ。だってそれは、言い換えれば魂からの願い。

 テイル様、この世界に偶然というものは一つもないのです」

「偶然がない? 仕組まれていると?」

「はい。こんな経験はございませんか? あの時のあの経験は、きっと今この時の為だったと。そう思われた事はございませんか?」

「……。あります」

「私たちは一人ひとり、大いなる神の御手にある、さながらタペストリーの内の一本の糸なのです。いえ、もしかしたらその糸の一部かもしれないのです。

 経験という、大きさも長さも形もバラバラな繊維を、時には千切り、より合わせ、宿命という教本に従い一本の糸にする。綺麗に真っ直ぐに伸びた糸もあれば、あっちこっちボコボコと歪に、でも硬くて周囲の糸を傷つけてしまうような糸もある。神はそれをご覧になって面白がるのですよ。歪なのもまた良しと。

 すみません、話がそれてしまいましたね」

 気付いて苦笑するセシリア。

 テイルは呆然としていたが、ぶるっと一つ身震いをすると自分の腕をさすり、抱きしめるようなしぐさをした。

「俺には、壮大すぎて。その、怖くなりました」

「私も初めて神に導かれて理を知った時には7日間寝込みましたわ」

「フィリアも?」

「ええ。あの子もそれ位は。もっとも、巫女たる器ではないあの子にしてみれば奇跡のような日数で持ち直した事になりますわ」

「そうですか」

 少しめまいを覚え、ふらりと椅子に倒れるように腰かけたため、テイルは大事な言葉を聞き流していた。

「大丈夫ですか?」

「すみません」

「どうかそのまま。楽にしてください。昼間の戦いで乱れた氣のまま私がこんな事をお話ししてしまったからですわ。申し訳ありません」

「昼間も俺の氣が乱れたと仰っていました。一体どういう事なのです?」

「……。氣を悪くなさらないで下さいね? 申し上げにくいのですが、貴方は戦いには向かない魂をお持ちの様です。普段は折り合いをつけていらっしゃる様ですが、いざ争い事になると途端に他者の氣に呑まれて己を見失ってしまうのです」

「昔、父にも言われました。『お前は学者にでもなった方が良い』と。まだその頃は父が大好きで、尊敬していたから意地になって反論したものです」

 テイルはどこか懐かしむような眼差しで言う。

「賢いお父様なのですね」

「……。もう関係ありません。俺は故郷を捨てましたから」

「そうでしたか。テイル様。戦いに向かないと知っても尚、戦われるのですか?」

「例え命懸けでも無様でも、思う誰かを守れるだけの力が欲しくて、俺は男に生まれた気がします。だから、必要とあらば、そうします。止めても無駄ですよ?」

「貴方自身がそうお決めになっているのなら止められませんわ。

 本当は交わりをもって叡智を授けるつもりでしたけれど、それは貴方が選ぶ未来の邪魔になってしまうでしょう。質問がまだあるならお答えしますが、私からはもう何もしません。どうぞあちらの寝所でお休み下さい」

「ここで十分です。それより、彼女の事が知りたい。話して頂けませんか?」

「喜んで。私も、出会う前の彼女の事が聞きたいわ」

「分かりました。と言っても、ほんの僅かな期間でしかありませんよ」

「構いませんわ」

「本人に知られたら、二人とも彼女にきつく叱られそうですね」

「ふふふ。確かにそうですわね。では絶交されたくないので二人だけの秘密に」

「ええ。墓場まで」

 二人はまた顔を見合わせ、楽しそうにくすくす笑い、疲れも忘れ、長い一夜をフィリアの話で過ごした。


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