第一章 それぞれの決意
夜の只中に島を出たテイルは、月と星の位置を頼りに船を進めた。あてがあるわけではないが、彼女を連れて行ったであろう船がどちらに向かったかだけは村人から聞き出していたので、そちらへ向かう事にしたのだ。
独りぼっちの船出は、覚悟していた筈の心に容赦なく孤独という名の刃を突き立ててくる。更には、見つけ出せず、自分は意味もなくどこかでのたれ死ぬだけの、救いようのない愚か者なのではないのかと責め立てる幻聴がグルグルと頭の中をかけ巡ってテイルを苦しめた。
「選んだのは、行動に移したのは、自分だ。迷うな! 恐れるな! 信じろ!」
幻聴に抗い、必死に自分に言い聞かせる。けれど島影一つ見えず、四方八方水平線だけが広がっている現状は、本当の孤独を知らない青年にとっては厳しすぎるものだった。
「後悔なんかしない! してない! 俺は、あいつらのようにはならない!」
誰かに、何かに反発出来るのは、相手が自分の心の中にいてこその事。テイルが自分で決めた未来には、彼らはいない。彼らを嫌って切り捨てたのだから。あるのは全てが白紙の未来地図。それを照らすのは今は弱々しい光を放つ数多の星々と大きな月。
父親や他の漁師たちから叩き込まれた潮流に関する知識と風を読む能力を発揮させ、テイルは舳先を南へずらし、櫂を操る手を止めて横になり蹲った。
《おーおー無茶な事を。ガキだな。後先考えずに突っ走るとは》
テイルが眠ったのを確認し、姿なき男の声が心底呆れたように言葉を放った。
⦅そういじめないで下さいな、風の神⦆
苦笑するように同じく姿を現さない女性の声が応じる。
《ふん、言いたくもなろうよ。計画なしの出たとこ勝負。愚か者の極みだろう、其方の息子は》
⦅許せなかったのでしょう、彼らの事が。そして何よりもテイル自身が。だからこその旅立ちなのです⦆
《甘いな、海の女神は。本気であの娘と再会出来ると思ってはいないだろう?》
⦅この子が心から諦めなければ、いずれ出会えるように計らおうかと思っています⦆
《ふむ。ならば私は女神の邪魔をしようか。あの娘、私が貰うぞ》
⦅お気に召しましたか? ですがあの子はあの場所にいるのですよね?⦆
訝るような女神の言葉に、風の神は忌々しそうに吐き捨てた。
《ああ。巫女を創る忌まわしき孤島にな》
⦅巫女になる? あの子が?⦆
《器じゃないな。あの娘は巫女の素質は皆無だ。だが、贖いが出来るなら可能》
⦅何を欲するというのです? あの子とて我が子。手荒な真似は許しませんよ?⦆
《ふふ。それは成長したあの娘次第。私と契約する事を選ぶなら、私はあの娘の生命を贖いとしよう》
⦅何ですってっ?⦆
《術を使う度にそのレベルに応じて生命力を奪う。対価としては妥当だと思うが? そしてやがて命尽きたら、我が花嫁として愛でようと思う》
⦅何という事を! そのような条件、いかにあの子でも飲みませんわ!⦆
《では賭けるか? 海の女神よ。人が本質として何を欲するか、知らないわけではないだろう? あの冷たき忌まわしき場所で、望み叶わないとしたら、その代替えは何であろうな?》
⦅卑怯です! そのようなものをちらつかせるなど!⦆
《まぁ、そう気色ばむな女神よ。あくまでもそれは彼女自身が契約を望んだ場合。決めるのは私ではなく彼女自身。ちらつかせたりはしない。ちゃんと条件の説明もするさ》
⦅本当ですね?⦆
《もちろんだとも。強制してもつまらないからな。
自分で決めた道がどんな道であれ人は後悔する。こうなると分かっていればこの道を選ばなかったのに、とな。
だが、稀にそうではない者もいる。見てみたいのだよ。この、テイルといったか? と仲違いしたまま別れる事になったあの娘の行く末をな》
⦅風の神? では⦆
《引き受けよう、二人の加護を》
⦅ありがとうございます⦆
《喜ぶのは早いぞ。もし彼女が本当に望んだら其方が何と言おうと怒ろうと、私は結果的に彼女の命を奪うぞ》
⦅その時々を選び生きるのが人間。何を選ぶかまで強制は出来ません。その時は、仕方ありません⦆
《そうか。ならばその時は遠慮はしない。
さて、それはそれとして、女神よ》
⦅はい?⦆
《この馬鹿なガキを少々懲らしめたいんだが良いか?》
⦅え?⦆
風の神がニヤリと笑ったように感じた。
《私と其方が揃って、この状況での懲らしめと言えば決まっていよう?》
⦅っ! 馬鹿な事を! そんな事をしたら死んでしまいますよ!⦆
《其方が抱きしめて守ってやればよかろう》
⦅しかし!⦆
《最後かもしれないからな。抱きしめて、最後の愛を注いでやりなさい。其方にはその権利がある》
⦅風の神……。余り酷くしないで下さい⦆
《無理な注文だな》
答えると同時に黒雲を呼び、風が強くなり、やがて波が荒れだした。
⦅テイル、目を覚ましなさい。テイルっ。大変な事になるわよ?⦆
聞こえない、無駄な事だと知りつつ、女神はテイルに目覚めを促す。
テイルは船の揺れの激しさに、ぎょっとして目を覚ました。
「嘘! 黒雲なんて欠片もなかったのに!」
毒づきつつ状況確認をしようとするが、揺れが酷いうえ、黒雲に遮られて遠くに見えていた島影も確認出来ない。
ちらりと遠方に何かを捉えた気がして、迂闊にも立ち上がりかけた。
⦅馬鹿! 何年船に乗ってたのよ!⦆
心配のあまり、思わず叫ぶ女神。
風の神が可笑しくてたまらないというように笑っているのが感じられて、キッと気配のする方を睨んだが、笑みを深くしただけのようだった。
文句を言おうと口を開きかけた時、テイルの短い悲鳴とドボン! という音がして、慌ててそちらを見ると、船から転落していた。
⦅恨みますよ⦆
思わずため息を吐くと、そう呟いた。
波間に辛うじて浮いているテイルが、襲ってきた高い波に飲み込まれて気を失った。抵抗がない為に急降下で沈んでゆく。女神はテイルを追いかけ、どうにか抱きしめ沈むのをとどめた。
(俺は、死ぬのかな)
⦅死なせない! 貴方は私を、海を捨てると決めたのでしょう? だから、海でなんて死なせてあげない。私に抱かれ眠りにつけると思わないで! 貴方はこれから陸で生きるのよ。精一杯、他の誰でもない、自分を信じて生き抜きなさい! 自分が信じる道を。貴方の心そのままに、まっすぐに!⦆
(温かい……。冷たい筈なのに。母、さ、ん)
テイルを気遣い、負担にならないように浮上し始めた。
⦅テイル、私の愛するたからもの。忘れないで。貴方は皆に沢山愛されて今の貴方になったの。貴方の内なる輝きを、どうか消してしまわないで。沢山の愛を受け取りなさい。沢山の愛を与えなさい。いつの日か、凍えて震えるあの娘の魂を温めてあげられるように⦆
テイルを抱きしめた女神は聞こえないと承知で語り掛け、そっと額にキスをした。水面に出た時には、嘘のように風は穏やかになっていた。
《終わったか?》
⦅ええ。やり方は気に入りませんけれど。でも、お気遣い、感謝いたします、風の神よ⦆
そう答え、女神は陸に近いのを確認して手を離した。
ゆっくりと波間を漂い、テイルの体は、目指していた島の方へ進んでゆく。
⦅さよなら。そして、行ってらっしゃい⦆
岸に流れ着いたテイルは、嵐の後の様子を見に来ていた老人によって発見され、保護された。テイルが乗っていた小舟は奇跡的に流れ着き、中の荷物は無事だった。流れ着いた青年の物かどうかは分からなかったが、両方引き上げられた。
パチパチと火がはぜる音が時折聞こえ、テイルはゆっくりと目を開けた。
「ここ、は」
「おう、気が付きなされたか。気分はどうじゃ?」
安堵の声を上げる老人が目に映り、咄嗟に起き上がろうとして失敗した。
「無理をするでない。お前さん嵐に巻き込まれたようじゃの。記憶はあるかね?」
「え、はい。でも、船から落ちて、気を失っていた筈なんですが。って、あぁっ! 俺の荷物!」
「荷物? あぁ、ほれ傍の袋はお前さんのではないかな? お前さんが流れ着いていたのを発見した後、漂って来おってなぁ。一緒に拾っておいたんじゃが」
言われて慌てて近くにあった袋を確め、ホッと息をつくテイル。
「ありがとうございました! 俺のです。奇跡です!」
「ほっほっほ。それは幸運じゃったのう。お前さんは海の神様に見初められたか」
「は?」
「海に生きる者達にとっての守護神がおるんじゃよ。そのお方はな、その者達をずっと見守っていて下されて、どうしても必要と思われる時には助けてくれるんじゃよ。お前さんは、その神様にまだ死んではいけないと思わせたんじゃろうな」
孫に語り聞かせる様に説明する老人。
「だとしたら、俺はその神の想いをふいにするのかも知れないです」
「うん?」
「俺は、貧しい漁村の出です。でも、父や母や、他の皆を嫌って飛び出したんです」
「ほう。そうかね」
「ある娘を探す為に島を捨て、島に住む皆を捨て、海を、捨てると決めたんです」
「……。子は、いつか親を超えようと巣立つもの。お前さんが島を飛び出したのは、今がその時だっただけの事じゃろう。
海を捨てるとお前さんは言うたが、この先魚も貝も口にせんこともなかろうて。その程度で海との縁を断ち切る事は出来ぬよ。
それにな、海を捨てると決めたなら、何故船で旅に出た?」
「こっちの方角に、彼女を乗せた船が向かって行ったと聞いたからです。陸路でこちらには来れないから」
渋々答えるテイル。
「ほれ、きっちり海と関わっておるし、これからも船で移動せねばならぬ事もありそうではないか。言葉を扱う人間が、いい加減な言葉を口にするものではない」
テイルの答えを聞き、笑みを含んだ声音でたしなめた。
反論しようと口を開きかけたテイルを老人は視線で制し、続ける。
「そういう時は、海を捨てる、ではなく故郷を捨てる、じゃろうな。本気でそうする必要があると思っているなら、一度騙されたと思って、心の中で良い、言ってみよ」
テイルは素直に老人の言葉に従って胸中で呟いてみた。ふと、自然と背筋が伸び、心もち顎を引いて、呼吸が深くなった気がした。
「どうやら、覚悟が定まったようじゃな」
自分の変化に気付いて驚いているテイルに向かって、老人は厳かに告げた。
「えっ?」
「上っ面の感情や心ではなく、意志を定めると、そうなる」
「意志、ですか?」
「そうじゃ。今お前さんは、その心の裡に、『したい』や、『しようと思う』ではなく、『する』と定めたんじゃよ。肚に収める、とも言うな。どうじゃ? 今までと違って、気持ちが揺らいだとしてもごく小さくなったのではないか?」
ハッとするテイル。本当にその通りであった。後悔や幻聴は少しも襲って来なかった。
「教えて下さって、有難うございます!」
思わず居住まいを正し、頭を下げ礼を言うテイル。
「ほっほっほっ。実に素直で気持ちのいい若者じゃなぁ。親御さんの躾が良かったのか、あるいはお前さんの生来の魂の美しさ故か。いや、両方であろうな。長生きはしてみるものじゃのう。いやいや、こちらこそ貴重な体験をさせてもらった。お前さんと出会えた事に感謝しておるよ」
老人に礼を言われて慌てるテイル。
「いえ、そんな。あ、でも父はいろんな意味で礼儀にはとても厳しかったです。その分、母がかみ砕いて沁み込ませてくれたような気がします」
「理想的じゃな。故郷を捨てようと、それまでの経験や考え方が今のお前さんを育んだのは間違いないし、これからの人生において間違いなくそれは宝じゃ。関わって来たすべての人も、己も、粗末に扱ってはいかんぞ?」
「はい。肝に銘じます」
神妙に頷き、再び頭を下げた。顔を上げたその時、テイルのお腹が可愛い音を立てた。
一瞬固まる二人。テイルは顔を真っ赤にして両手で顔を隠し、老人は堪えきれず噴き出した。
「すまんすまん。忘れておったわ」
「すみません」
小さくなるテイルを笑い飛ばす老人。
「生きてる証拠じゃて。どれ、珍しい客人に振舞えるような御馳走はないが、何か作ろうかの」
楽しそうに食事の準備を始める老人に、気を取り直して手伝いに入るテイル。
豪勢とはお世辞にも言えない粗末な食事ではあったが、本当の祖父と孫のような和やかな食の場は、テイルのわだかまりにより冷えていた心を温め、知らず硬くなっていた身体から適度に力を抜かせた。
一晩泊まらせてもらい、テイルは老人の元を離れた。
「色々と有難うございました」
「気を付けて行きなさい。探しているその娘に出会えると良いな。だが時間が経ちすぎているようじゃから、あまり根詰めないようにな?」
「お気遣い、有難うございます。では」
背を向け、歩き出すテイル。
立ち去り、姿が見えなくなると、老人の雰囲気がガラリと一変した。
「やれやれ、全く世話の焼けるガキだ」
うんざりしたように呟くと、姿が掻き消えた。
《これからの厳しい現実を少しも理解していないのだから》
⦅風の神も優しいところがおありだったのですね。テイルに教えを説くなど⦆
《馬鹿を言え。単なる説教だ。行動に移したまでは構わないが、あれは魂が純粋すぎる。恐らくはだからこそ中途半端になってしまうのであろうな》
⦅はい。霊世であの娘とどういう話し合いをしたのやら。両極端なのです。二人とも⦆
《だからと言ってあのままでは単なる馬鹿の死に損だ。弱々しくても芯があれば良いが、それもないのでは話にならん。加護を与えるものとしてはつまらなさすぎるのでな。サービスだ。二度はない》
⦅十分だと思います。では、私はこれで。二人の事、よろしくお願い致します⦆
そう言って気配を消す海の女神。
《さて、私も今度は本当に見守るだけにしようか。まぁせいぜい楽しませてくれ》
フィリアの様子を見に気配を消した風の神は、言葉とは裏腹に、とても愛おし気であった。その証拠に、テイルの背に向かって吹いた一陣の風は、気付かれない程度に優しく温かかった。
一年後、風の神は意図せず海の女神と彼が言う所の『忌まわしき孤島』で鉢合わせする事になる。それは、成長したフィリアの処刑が執り行われようとしている場面であった。
「イア、今なら間に合うわ。私の元で手伝いをしてくれるのなら、マザーに掛け合って、こんな事執り止めにして頂くわ。だからお願い、これ以上意地を張らないで」
切り立った崖の上、マザーや多くのシスター、そして大地の巫女となっていたセシリアが見つめる中、美しく成長したフィリアは微笑んで両手両足を縄で括られた状態で立っていた。
説得しようとするのはセシリアのみ。他の者達は全員冷たい眼差しでフィリアを見ており、セシリアの訴えを聞いていなかった。
「ごめんなさい、セーラ。でもダメなの。もう自分の心を偽ることは出来ないの。やっと殺して貰える。私は嬉しいのよ」
「一緒に頑張ろうって誓ったじゃないの。一人で逃げるつもり?」
「セーラ、いいえ、大地の巫女セシリア様。どうか私の事はお忘れ下さい。いつまでも罪人の私に関わってはご自身の穢れとなりましょう。
私は海に生きる漁師の娘。ここから突き落とされて殺されれば、魂は故郷へ帰れます。そして私は晴れて自由に、私を酒代にするために売ったあの人達に復讐出来る」
「無意味よ。貴女が一番良く解っている事でしょう?」
「ええ、そうね。解っているわ。でも止まれないの。
ねぇセーラ、こんな私を親友だと言ってくれてありがとう。こんなギリギリまで気に掛けてくれてありがとう。友として、姉妹として、沢山の愛をありがとう。そして、ごめんなさい。永遠にさようなら」
フィリアの頬を一粒の涙が伝い落ちた。
「馬鹿! 絶対に忘れてあげない! 絶対に永遠のさよならなんてさせてあげない! 私を甘く見ないでよね!」
ぽろぽろと涙を零しながら怒るセシリア。
フィリアは悲し気な目をして、ゆっくりと頭を下げた。
体全体で海に向かうと、シスターナディアが身長の半分位の長さの棒をもって後ろに立った。
「さぁ、茶番はもう結構よ。シスターナディア、貴女が連れて来た子の始末はご自分でなさい」
マザーが冷酷に告げると、シスターナディアは青ざめながらも返事をし、棒を構えた。
瞬間、憎悪の眼差しをマザーに向けるセシリア。無視するマザー。
小刻みに震える手が棒を持ち上げるのを察すると、フィリアはちらりとシスターナディアを見、優しい微笑みを向けた。
目を瞠るシスターナディアは、ギュッと目を瞑ると、一気に振り下ろした。
衝撃と共に傾ぎ、落ちてゆくフィリアの体が崖の下に消えようとするのを追いかけ、セシリアが駆け寄ろうとするのを、周囲のシスター達が止めようとする。だがセシリアは持たされていた短剣を抜き放ち、牽制した。一瞬怯んだ隙に自分を手首を切り裂いて流れ出る血を海に捧げた。
ぎょっとするマザー。
「何を!」
セシリアは答えず、小さく呪文を唱えた。
応えるように波が高くなり、まるで受け止めようとするかのように見えた。更には下から猛烈な風が吹きあがり、辛うじてそのまま海面に激突するのを避けられた。
呆然としている大人達をしり目に、風はそのままフィリアの拘束を引き千切り、あろうことか彼女を崖の上まで押し上げた。
これにはセシリア自身も驚いて、成り行きを見守った。
ぐったりとしているフィリアがおもむろに顔を上げて、違う男性の声を発した。
《友の為に血を捧げるか、大地の巫女よ》
全員がハッとする。風の神の声が聞こえたからである。もっとも、見聞きした事が初めてな彼女達は推測したに過ぎないが。
「風の神様とお見受けいたします」
《いかにも。この娘を見守ってきた神々の一人。其方に応えた海の女神はここまで来れぬのでな、私が代理も兼ねて来た》
「我が血の贖いに応え、友をお助け下さり、真に有難うございます」
《喜ぶのはまだ早い。この娘は、自ら死を望んだ者。本来であれば助ける義理もない。だがこの娘にも僅かだが生に惹かれる心もあると先程の涙で感じた故に我らは応えた》
「はい」
《一つ尋ねる。この娘が巫女となれば生きていても良いのか?》
セシリアがマザーを見る。
「勿論でございますわ、風の神様。私は」
《知っている。名乗るな。お前に名を名乗る気は現在過去未来において一切ない。質問にだけ答えろ》
挨拶をしようとしたマザーを遮り、氷のような冷気が吹き付けた。
怯えて縮こまるマザー。
「申し訳ございません」
《大地の巫女よ、この娘に巫女たる資格が、魂の器がないとしたならどうする?》
「えっ」
《そこの女達を納得させるには巫女になる必要があるだろうが、彼女にその器がないとなれば、方法はただ一つ》
「贖い」
《その通りだ。私と契約し、巫女となったとしても、彼女は死して尚贖いと契約に縛られ続ける事になる。それでも友の生を望むというのか?》
突き付けられた重さに、僅かに躊躇するセシリア。
「その贖いを、私にさせて頂く事は出来ませんか?」
《そう来たか。だがそれは出来ない》
「そう、ですか。では、私がその分を補う事は出来ますか?」
《補う事は出来ない。だが、補ったところで一時だけに過ぎないと思うが?》
「それでも、少しは楽になれますか?」
《そうだな。少なくとも心は》
「ならば私は彼女がこの世で生きていく事を望みます。彼女が恨み呪うなら、その全てを受け止めます。ですから、どうか」
《皆まで言わなくて良い。良いだろう。その覚悟に免じてこの娘に契約を持ち掛けてみよう。だがな、大地の巫女よ、この娘が契約を拒む事も有りうる。その時は、死を受け入れなければならない。出来ようと、出来まいとな。その覚悟もしておきなさい》
「はい」
神妙に頷くセフィリア。
《うむ。良いカオをしている。大地の女神が気に掛けるのも頷ける》
優しい微笑を浮かべ、ゆっくりと頷いた。一瞬で表情を引き締め告げる。
《この娘を静かで安全な場所へ。大地の巫女のみ見届ける事を許す。但し、口出しは許さない》
「はい。有難うございます、風の神よ」
《其方が来るまで待つから、その傷の治療と身体の清めをきちんとしてから来なさい。慌てないで良い》
セシリアは何も言わず、深々と頭を下げた。
風の神の気配が消え、再びフィリアはぐったりすると、ゆっくりと地面に横たわった。
緊張の糸が途切れ、一斉に頽れるシスター達。マザーでさえよろめいている。
セシリアは衣服の袖を破って割き、それを包帯代わりに傷口に巻き、仮の治療を済ませると立ち上がって凛とした声でシスターに命令した。
「誰か担架を持って来なさい。フィリアを私の寝室へ」
「は、はい、セシリア様」
シスターの一人がよろよろと立ち上がりながら返事をした。
かつては教育と称して高圧的だったシスターも、巫女からの言葉となれば従わないわけにはいかなかった。まして巫女の名を呼び捨てになど許されない。
巫女になったばかりの頃は、セシリアはその事に暗い喜びを見出していたが、見かねたフィリアに一度厳しく叱られて考えを改めていた。今では何の感慨もなく、淡々と巫女としての立場からの命令を下す事が出来ている。
フィリアの頬に触れる。
(貴女は私の大切な人よ、イア。その貴女を失わなくて済む可能性がほんの少しでもあるなら、私は諦めないわ)
フィリアを抱きしめながら決意を新たにするセシリア。
「随分と立派になったものね、セシリア」
マザーの皮肉はまともに聞かない事にしていた。
「それにしても、フィリアが風の巫女になるとはとても思えないけれど。あの子はせいぜい小間使いとしてこき使われるのがお似合いでしょうに」
自分の思うようにならない子供達の事を、マザーは聞こえよがしに酷い評価をする。マザーに逆らえないシスター達はその言を聞いていじめの標的とするのが、いわゆるはみ出し者に対しての一連の流れであった。そしてその最終最悪な到達点が、先程フィリアに対して行われた処刑、である。
「貴女も馬鹿な子ね。貴女の言葉にさえ聞く耳持たないあの子に、まだ手を差し伸べようだなんて。このまま消えてくれた方がこの島に住む全てにとって有益なのに」
「あぁ、耳鳴りが五月蝿いわ。まるで壊れた風車みたいにギーギーと不快な音を立てるだけで何の役にも立たないなら、いっそ跡形もなくなってしまえばいいのに」
無視を決め込んでいたが、耐えられず静かに猛毒を吐いて応じた。
(あぁ、やっちゃった。フィリアに叱られちゃうかしら)
「セシリア様! マザーに対して何という事を! お謝りください!」
マザーのお気に入りシスターがセシリアに意見した。
「あら、独り言を言ってはいけないの? 私はマザーを名指ししてなんかいないのにそんな事を言うって事は、あなたがマザーをそのように思っているって事ね。処刑されないように気を付けた方が良いわよ」
しれっと言ってのける。
真っ青になる意見したシスター。顔を真っ赤にしてシスターを睨むマザー。
視界の端に二人を納め、溜飲を下げた。
(本当にくだらない。これであのシスターはオワリね。ご愁傷様)
持ってこられた担架にフィリアを乗せ、セシリアを先頭に岩山を下りた。マザーはシスター一人に付き添われ、ゆっくりと下山している。
大地の神殿の奥に、巫女の部屋が用意されている。当然大地の巫女はセシリアだけではないが、巫女は居室に独自の結界を張る事が出来るので、一度結界を張ってしまえば誰も結界を破る事は出来ないようになっていた。
寝台に横たえ、シスター達を追い出し、代わりに巫女見習いとして世話をしてくれる少女を呼んで、禊の準備と治療道具を持ってくるように頼んだ。
少女が道具を持ってくると、止血と消毒だけして下がらせた。服の破れと傷の深さ、そして何よりも異端と聞かされているフィリアが大地の巫女の寝台を占拠している事に、何か言いたそうにしていたが、禊の準備がある為大人しく寝室を出て行った。
「風の神様、いらっしゃいますか?」
《何だ? まだ清めていないようだが?》
「はい。これからですわ。ですが、結界を張りますのでその前に、準備すべきものがあるかどうか確認をと思いまして」
《いや。どうなるかはわからぬからな。契約を受け入れたらこの娘の寝室で続きをするから、今のところは必要な物はない》
「承知致しました。ですが、巫女でない者に個室はありません。差し出がましいようですが、そのまま続きをされては? 勿論、その際は私も外に出ます」
セシリアの申し出に考え込む風の神。
《ふむ。そうだな。ではその際はこの寝台を我が結界に取り込むとしようか。多重結界は誰の得にもならないからな、その時は結界を解きなさい》
「では、そのように」
「セシリア様、禊の準備が整いました」
「ありがとう。今行くわ。
では、私は清めに行ってまいります。いま暫くお待ち下さい」
《心も清めておいで、大地の巫女》
風の神のからかうような言葉に、思わず竦んで顔を赤らめるセシリア。
《ふふ。神に隠し事など無理というものだ》
「覗かないで頂きたいですわ」
《特に覗いたつもりはないがな。巫女としてこの先も生きたいのなら、そのこびりついた闇も祓わねば辛くなるだけだぞ。これは、この娘の友に対する忠告だ。
ゆっくり浸かっておいで。海水をろ過して清めの水としているなら、海の女神が助けとなろうよ》
「お言葉に沿うようにいたします」
セシリアは真摯に受け止め、一礼して踵を返した。
《ふふ。賢い子だ。良い友を得たな、なぁフィリア》
殴られた事と落下による衝撃で気を失ったままのフィリアの髪が微かに動いた。まるで頭を撫でられたかのように。
暫くして禊を終えたセシリアが身支度を整えて現れた。それは、巫女が信託を受けるなど、神の前に出る時の正装とされる衣服であった。改めて髪を結いあげ、顔は薄く化粧を施し、華美にならない程度の装飾品を身に着けている。
「遅くなりました」
《いや。良いタイミングだ。そろそろ目覚める》
セシリアの纏う真氣に驚きつつ、それをおくびにも出さずに応える風の神。
フィリアの頭部のあたりに氣が凝るのがセシリアにもわかる。やがて凝った氣は人の形をした碧色の光となった。
《さぁ、目覚めよフィリア。聞こえているのだろう?》
セシリアが見守る中、うめき声を漏らしつつ、ゆっくりと目を開けるフィリア。
「碧色の光? 私は、死んだ筈では?」
誰に問うともなく呟くフィリア。
フィリアの目覚めに歓喜の声を上げそうになるのをぐっと堪えるセシリア。
《私は風の神と呼ばれている存在。其方の友の願いを聞き届けてここにいる》
「神様っ? うッ!」
慌てて起き上がろうとして後部の痛みに声を詰まらせる。
《無理をするな。セシリア、ここに来て助けてやりなさい》
「はい、仰せの通りに」
静かに答え、コツコツと床を鳴らし、ゆっくりとフィリアの視界に現れた。
「セシリア様! そのお姿は、いえ、それよりここは? どうして?」
パニックを起こして矢継ぎ早に問う。
「くすっ 落ち着いて、イア。ここは大地の神殿の私の寝所。風と海の神様方が貴女を助けて下さったのよ。一度だけ、チャンスを下さったの」
「チャンス? っ! その傷、まさか血をもって神様に願ったのですかっ?」
「言ったでしょう? 私を甘く見ないでと」
いたずらが成功したように笑うセシリア。
「何て無茶な事を! 下手をしたら止血できなくて死んでしまうのに!」
「でも生きているわ。結果オーライよ」
パン! と乾いた音が鳴った。
「巫女がそんな軽はずみな事しちゃ駄目でしょう! 罪人の私なんか、っ!」
大人しく頬を叩かれたセシリアが、彼女の言葉を遮って叩いた為、フィリアは続きが言えなくなった。
「確かに後先考えずに血の贖いで助けを請うたわ。我が神にも失礼だったかもしれないと反省もしてる。だから貴女の平手を避けなかった。でもね。自分なんかとか、罪人だとかの発言は許せない!
貴女からしたら、先に巫女になった私はもう友達じゃないのかもしれないけど、私には貴女はかけがえのない友達だし姉妹よ。巫女になる器じゃないから私なんか? この島のルールに染まれず、マザー達に嫌われているから罪人? 馬鹿も大概にしなさいよッ!」
「セシリア、様」
「違うッ!」
「……セー、ラ……?」
「何よ。文句あるの?」
「私は、異端なのよ」
「だから?」
「異端は世界の穢れでしょう?」
「だったら何よ」
「存在しちゃダメでしょう?」
「へぇ。知らなかったな。貴女一人が世界の穢れなの。貴女が消えたら世界はキレイになるの。たった一人のせいで穢されきってしまう程、世界は軟弱なの。戦争がなくならないのは貴女が生きてるから? この世から貴女が消えれば、女性蔑視は無くなるの?」
フィリアはゾクリと身を震わせた。セシリアの心が凍っていくような気がして、怖くなった。ただただセシリアから目が離せない。
「答えてよイア。教えてよ。世界にとって貴女が消えるべき存在なら、どうして貴女は生まれたの? どうしてここへ来たの? そんな貴女を思って涙を流す私がいるの? そんなに死にたいのなら、私を納得させてみなさいよフィリア!」
「知らないわよ、そんなの。私は戦争とは何も関係ないわ。女性蔑視だって私もされる一人なだけで、私が死んだって生きたって何も変わらないわ」
怖いながらも理不尽な問いに反論するフィリア。途端ににっこりと笑うセシリア。
「な、何?」
「解ってるじゃない。貴女が死んでも世界には何の影響もないわ。でも貴女が定められた命の終わりまで生き抜いたら、何かが変わるかもしれない。一滴の水が波紋を幾重にも広げるように、貴女の存在が、出会う誰かの救いとなって、それが戦争をなくすきっかけになるかもしれない。貴女が紡いだ生きた言葉が、誰かの心を温め、人としての心を取り戻すきっかけになるかもしれない。
ねぇイア。虚しいだけかもしれない復讐をするために命を捨てるより、例えクモの糸のように頼りなくてもその可能性に手を伸ばして生きる方が素敵じゃないかしら?」
ふと気が付くと、フィリアはセシリアに抱きしめられていた。
「……それが、許されるなら。私も、生きて誰かの役に立ちたい。でも、私は」
生を望み、現実を思って流す涙を、セシリアは優しいキスで受け止めた。
「でも、は無しよ。言ったでしょう。風の神がチャンスを下さったと」
「チャンスって、どういう事?」
《フィリアよ、私と契約をせよ》
「風の神様と? 契約? 何の契約ですか?」
《其方に巫女たる器はない。だが、贖いをもってすれば可能となる》
「血を捧げよ、と?」
《いいや。命だ》
「ッ!」
セシリアが鋭く息を呑むのが聞こえた。
「どういう意味ですか? 生きるチャンスが命を捧げる事とは、矛盾するのでは?」
《何も死ねと言っているわけではない。其方が術を使う度に、そのレベルに応じて寿命を削る、という事だ。
其方は結界を張って私を呼び出し、私を取り込む。私は其方の身体を借りて回答する》
「私を媒体に……。そういう事ですか」
《妥当であろう? 寿命が尽きたら、其方を我が妻として傍に置く》
「生きている間も死んだ後も、私は貴方様のもの、という事ですね」
《契約をするなら、だ。どうする? このままここの女達に殺されるか、寿命を削ってでも生きてこの島を出るか。選ぶのは其方だ》
考え込むフィリア。
《大地の巫女にも文句は言わせない。迷いは当然だ。いくらでも待つ。だがいずれは己の心の裡にある答えを口にしなさい》
「……私、は。この島を出たい。生きて出られるのなら、貴方様と契約をさせて下さい」
《良いのか? それは人としての自由を奪われる事だぞ?》
「男尊女卑のこの世で、女の私に人の自由など初めからありません。それに、死した後、妻にと仰ってくださいましたよね?」
《ああ。それが?》
「ならば器ではなくても、私の魂も含めてこの存在を見て下さるという事ですよね?」
《その通りだが?》
「道具やモノとしてではなく、一個の存在として扱って下さるお方にお仕え出来るなら、こんなうれしい事はありません。それに、かけがえのない友だと言って、真剣に向き合い叱ってくれるセシリアもいます。セシリアの血を、想いを無駄にはしたくありません」
《人として外に出れば、恋をするかもしれぬのに、捨てても良いのか?》
「恋、ですか? 巫女となれば、不必要なものと聞いていますが?」
《たとえ女が蔑まれる立場だとしても、誰かを想う心は誰にも否定されるべき事ではないよ。……器たる資格を持つセシリアはともかく、其方は知っておくべき感情のように思えるのだがな》
「仕事に影響がありますか?」
《いや。……ふむ。妻となる者の教育もまた夫たる者の責務。そう捉えるのも良いかもしれぬな》
ぶつぶつと独り言を言う風の神に、二人は顔を見合わせて首を傾げていた。
《よし、条件を変更する》
「? どのように、ですか?」
《其方が真実誰かを愛するようになったら術に応じて削るとしよう。
心の底から誰かを愛し、慈しみ、己の事を顧みず必要なら救いの手を差し伸べようとする、そこにいる大地の巫女のような行い、心が育ったら、命のカウントダウンを始める》
「一生ないかも知れないのに、宜しいのですか、そんなに甘くて」
《甘い? そんなわけがないだろう? 人としての幸せを自覚した時から、死を、別れを見つめなければならなくなるのだから。
大地の巫女の真氣に触れていたら、手に入れたくなった。そのような高貴な魂に育てあげ、妻として傍に置く事が出来たらどれ程の至福か》
「真氣?」
《禊を終えた大地の巫女は、我が忠告に素直に従ったようだ。禊をするまでは感じなかったのだがな。
心の闇をも払い清めた、本来の魂が放つ氣の事だ》
「フィリアのチャンスを、私が潰しちゃいけないと思ったから」
困惑して呟くセシリアを宥めるように、
《ふふ。理由などどうでも良いのだよ。其方が我が忠告を素直に受け入れた結果が、私に良い影響を与えただけの事。
フィリアよ、この条件でも、私との契約を欲するか?》
セシリアを宥めると、一転して厳かにフィリアに問いかけた。
フィリアはセシリアに手伝ってもらいながら寝台を降り、その場に両膝を付き、頭を垂れてクロスさせた両手を胸のあたりに当てた状態で凛として応えた。
「我が身命は貴方様のもの。いかようにもお遣い下さい」
《其方の願い聞き届けよう。その魂、この風の神が確かに貰い受ける》
「誠心誠意、お仕えいたします」
人の形をした碧色の光が、そっとフィリアを抱きしめるように包み込んだ。契約の成立した瞬間であった。
《さぁ、立ちなさい》
セシリアは黙って一礼してそっと部屋を出た。
出入り口で振り返り、手を伸ばして空間を撫でると結界が解けた。カーテンを閉めて正面をキッと睨んだ。
「これから風の神とその巫女が儀式を行います。神聖な儀式を邪魔する者は私が許しません! 早々に立ち去りなさい!」
いつの間にか手にしていた黄金の杖で床を叩き、門番よろしく立ちはだかった。
こそこそと部屋の外で様子を窺っていたシスター達が、気圧されて蜘蛛の子を散らすように去っていく中、一人残ったシスターがいた。
「シスターナディア。顔色がまだ悪いようですね。温かい飲み物でも飲んで、早くお休みになられては?」
セシリアが静かに退出を促す。
「自分の意志で、巫女になったのですか?」
「導いてしまった観はあります。でも、選んだのは彼女自身。仕方なく選んだ道なら、神の方が拒否していたと思います」
シスターナディアは項垂れると、それ以上何も言わずに、大地の神殿を去った。
セシリアは悲し気に彼女を見送った。
部屋の中からは、微かに喘ぎ声が届く。かつては自分も経験した、なんとも形容しがたい感覚を思い出し、眉を顰めた。
(フィリア。私の大切な子。姉妹のように、親友のように生きてきた。ごめんね。どうしても、貴女に死を選んでほしくなかった。ごめんね。ごめんね。私の我儘を許して)