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夫と妻と一人息子の駆け引き  作者: ブラックワン
2/6

アミダで勝負

 俺のダイエットの日々は唐突に終わりを告げた。

「もうやめましょう」

と、いきなり妻の方から言ってきたのだ。


 これはどういうことだろう。俺はまだ充分に痩せきってもいないのに。是非とも理由を説明してもらいたいものだ。――貴公、わけを聞こう、なんちゃって。


 運動しなくてもよくなったっていうのは、確かに嬉しい。俺は元々身体を動かすことが大嫌いなのだ。中学時代からずっと「嫌動部」だった。だけど、中途半端はあんまり好きじゃない。このままじゃ不完全燃焼だ。――主に脂肪の面で。そして、引っ込みがつかない。――当然、腹的な意味で。


「今気付いたのですが、太っていたあなたの方が貫祿があって魅力的でしたわ」

 嘘付け、と思いつつ、そんな見え透いた嘘をついてまで妻が一方的にダイエットの幕引きを図る事情を考えてみる。


 まず、運動と食事制限によって俺に昔のスタイルを取り戻させ、そのおこぼれで自分も甘い汁を吸うという妻の作戦は実によくできていたのだが、一つだけ誤算があったようだ。

 それは、当初の目論見以上に妻が美味いランチを食べ過ぎてしまったこと。その結果、少しだけ体型がふっくらしてしまったのである。まあこれは、運動のノルマを達成できない俺にも責任の一端はあるかもしれない。しかし、幾ら妻自らが宣言したことにしろ、俺の食事抜きで浮いたお金を全額、自分の食事に費やす必要はなかったのではないかとも思う。

 ええと、これは律儀過ぎるってことなのか? 融通が利かないのか? あるいは単に食い意地が張っていただけなのだろうか?


 まあ、それはともかくとして、この僅かな体型の変化が、彼女の心境の変化の大きな鍵になっていることは間違いないだろう。

 となると、やっぱり息子絡みかな。


 我が家には中学一年生の男の子がいる。妻が目の中に入れても痛くないほど可愛がっている一人息子だ。

 妻は息子のことを「マイサン」と呼んでいる。「私の息子」と「私の太陽」の二つの意味を掛けているんだそうだ。既に「俺達夫婦二人の」という視点が全く欠けている。何たる独占欲。何という「溺愛」。

 ちなみに俺と二人きりの時の食事は、「今日、気が乗らないから冷凍のコロッケでいい?」。何という「出来合い」。


 なのにあいつがいる時の食事は「マイサン、今日はあなたの大好物――フランス料理のフルコースよ。この味を覚えるためにお母さん、三つ星レストランのランチをいっぱい食べ歩いたんだから」。

 ああ、そういうことか。全部、愛する息子のためだったってことね。俺のダイエットでさえも。策士め、今やっと理解したよ。


 ならば。

 俺の脳裏に一つ閃いたことがあった。

 妻がそこまで尽くしているにも関わらず、息子から返ってきた言葉が「ママン、最近太ったんじゃない?」という素っ気ないものだったとしたらどうだろう。あいつだったら言いかねない。そういう無頓着なやつなのだ。

 もしそうなら、情緒が極めて安定している妻といえども、かなりがっかりしただろうなと思う。それこそ順調に進んでいる計画を全て投げ出したくなるほどに。


 一応確認してみるかな。

 俺は、さりげない会話をしつつ、妻の表情の変化から色々と読み取ることにした。

「うーん。運動しなくて済むようになるのはありがたいんだけど、今急にやめたら絶対リバウンドするしなあ。本音を言えば、もうちょっと続けたいんだが……」

 無論、本当の本音は「直ちにやめたい」である。


「リバウンドしないような食事を作りますわ。私、あなたに運動を無理強いしているみたいで、ずっと心苦しかったんですの」

 「みたい」じゃなくて、実際に無理強いしてたんだが。


「そうか。君の心に負担がかかるっていうのなら仕方がないな」

「ごめんなさいね。せっかく調子が出てきたところだったのに」

「まあ、いいさ。じゃ、ダイエット終了ってことで、久しぶりに晩酌といこうかな」

「お銚子は出ませんわ。リバウンドさせないためにも」

「厳しいなあ。ほろ酔い程度でいいんだが。一生のお願いだから許して」

「許した途端に一升瓶を空にするつもりですわね」

「頼むよ。 後生だから」

「五升だなんてとんでもないですわ」

「じゃ、せめて水割り一杯だけでも」

「水割りいっぱいなんて許せるわけがないでしょう」

「要するに酒は全部ダメってことか」

「この際お酒はサケましょう」

「そこを何とか! おなサケを! サケナベイベー!」

「サケんでも無駄やサケぇ!」

シューン」



 うーん。収拾がつかなくなってきた。やはり説得は「無リカー」。

 ただ、こうやってしっかりと妻の顔を見ながら喋っていると、どことなく気落ちしている様子が見て取れる。 珍しい。基本的に妻は息子以外のことじゃ、落ち込んだり動揺したりなんてことはほとんどないからな。これは、俺の推測が当たってるってことか。道理で今の会話も妙にギクシャクしていたなあ。


 なので、こう言ってみる。

「なあ、話は変わるけど、君は気分が悪いのか? 顔色がすぐれないように見えるんだが……」

「そ、そんなことはないですわよ。健康そのものですわ。――あ、そうそう。もっと健康になるために今日からダイエットを始めようと思いますの。最近食べ過ぎでお腹の皮下脂肪が気になってきましたので。勿論、あなたは気にしないで沢山食べてくださいね」

 マズい――このママではマズい、と俺は直感した。


 俺のダイエットが終わるのはまだいい。真にマズいのは、これから始まるであろう妻のダイエットに、俺が確実に巻き込まれてしまうということだ。

 妻がダイエットを始めると、自動的に我が家の献立もローカロリーモードになる。妻は俺に「食べ過ぎを気にせず沢山食べろ」と言っているが、あれはまともに食べられたものではない。何しろ妻が作るダイエットメニューにはほとんど味がないのだ。これでは幾ら食べたいと願っても箸が勝手に進まなくなる。別に妻が味覚音痴というわけではない。妻の料理の腕はプロ級だ。しかし、食欲を抑えるという目的のため、あえて味付けを少なくしているのである。


 マズい――あのマンマはマズい。妻は俺のことを味に無頓着なやつだと決めつけてしまっているので、あんなのでも喜んで食べまくると信じて疑わないようだ。


 しかし、実際に味に無頓着なのは息子の方である。あいつがなんでもかんでも「うまいうまい」と言って食べやがるから、俺の方にもバッチリとばっちりが来るのだ。前回の悪夢においては、マズいと思っているのを覚られないように、必死の演技で平らげてどうにか妻の機嫌を損ねずに済んだものの、もう一度それをやり遂げる自信はない。かといって、初めから本当のことを馬鹿正直に告げて、「あ、そう。じゃ無理に召し上がっていただかなくても結構ですのよ」と飯抜きの刑に処せられるのも嫌だ。「俺に太っていた方がいいと言ったのは君だろ。食べないと太れないじゃないか」と反論したところで無駄だろう。妻の本音は見え見えである。俺が絶食してスリムになるなら、まさしく願ったり叶ったりというわけだ。

 仕方がない。ここは妻に対して最も影響力のあるあいつに一肌脱いでもらうしかないか。


 てなわけで、息子の登場である。妻の顔に瓜二つのイケメンで、俺と違ってデブ要素は皆無。妻が自分の分身として溺愛するのもわからないでもない。ただし、性格を一言で言い表すならば「コウモリ」。甘えん坊の皮をかぶって俺と妻との間でうまく立ち回り、どちらからも利を得ようとするズルイやつだ。

 まあ、所詮は子供なので、俺を利用したつもりが逆に利用されている、なんてこともよくあるわけだが。まだまだ可愛いもんである。


「――で、オヤジ。一万円くれるって本当か」

 息子が興奮気味に訊ねてきた。これが息子の素の口調だ。至って普通である。それが、おねだりの時になると「父さん、折り入ってお願いがあるんだけど、今、ちょっといいかなぁ? ダメなら出直すけど(上目遣い)」みたいないじらしさ全開の口調になるわけだ。


「ああ」

と、俺は頷いて、息子に頭を下げた。


「お前じゃないとできない仕事だからな。母さんに一言言ってやってほしいんだ」

「また母ちゃん関連か。オヤジも相変わらず情けないなあ。――そんで、何を言えばいいんだ?」

「『ちょっとぽっちゃりしてるぐらいが魅力的だよ』ってな」

「あのなあ、そんなキモい台詞を俺に言わせる気かよ。だいたい、それを言ったからって何がどうなるってんだ?」

「俺が物凄く助かる。だが、お前が言ってくれた言葉じゃないと意味がないんだ」

「ふうん。そっか。よくわからんけど、俺が言わないとダメなのか。そっかそっか」

 息子が突如邪悪な笑みを浮かべた。


「――だったら、もう少し余計にもらわないとな。オヤジは気軽に俺に頼るけど、こっちだって、あの母ちゃんを相手にするのはなかなかしんどいんだぜ。傍目で見ててわかるだろ」

「まあな。お前が涙ぐましい努力でマザコンを演じきっているのは百も承知だ。とはいえ、その甲斐あって、お前の言うことなら母さん、何だってホイホイと聞いてくれるんだろ」

「小遣いはくれないけどな。俺のために限界ギリギリまで積立してるから無理だって。文句は安月給のオヤジに言えと」


 うおっ、とばっちりが来た。結構たっぷり生活費を渡してるのに何て言いぐさだ。息子もアホである。フランス料理のランチを食べ歩いていると聞いた時点で、母親に金はあると知れ。――あ、でもそれは俺の食費から流れた金か。ならば普段の妻は、度を越えた積立で本当にカツカツなのかも?


「一万円じゃ不足か?」

「二万円は欲しいな。――『ママン。最近、前にもまして綺麗になったよね。僕思うんだけど、ママンはちょっぴりふくよかなぐらいが一番魅力的だよ。ああ、ママン、最高に素敵だ』なんて台詞を言わされる身になってみろよ」

「……よし」

 さすがに二万円の出費はキツいと思った俺は、いつものプランで行くことにした。


「五万円やろう」

「ま、マジか……」

 息子が、信じられないといった表情で俺を見た。


「もちろん、いつもの勝負で俺に勝ったらだが」

「だよな。話がうま過ぎると思った」

 俺と息子は、交渉事がある時には大抵単純なゲームの勝敗で決着を図る。これまでの対戦成績は五分と五分。ただし、重要な案件に関しては俺が全部勝っている。


「――どうしようか。オヤジ、金が絡むとやたらと勝負強くなるからな」

 その通り。踏んだ場数が違うのだ。とはいえ、あまり警戒されても困る。撒いたエサにはしっかり食いついてもらわないと。


「ここぞって時の勝負強さだな。あるいは、お前の運が悪過ぎるのか。――よし。今回は俺が持ち掛けた勝負だから、相応のハンデをやろう。そうだな。アミダくじで、十本の線のうち一本を選び、当たりは九つ、ハズレは一つ。九割の確率でお前の勝ちということでどうだ」

「いいのかよ。そこまで極端に俺に有利だと、逆になんか怪しく思えてくるんだが」

「そのぐらいの条件じゃないと、お前、勝負を受けないだろ。確かに、負けた場合の出費五万円は結構痛い。けど、勝負大好き人間の俺としては、普通に二万円を払うよりもずっとスッキリするんだ。――で、どうする? こんなおいしい条件は滅多にないぞ。大儲けの確率が九割。負けてもただ働きするだけで済む。ま、俺にとっては頼みを聞いてもらうことの方が優先だから、どうしても二万円がいいと言うんなら二万円出すが……」

「わかった。この勝負、受けてやるよ」

 お、しめしめ。乗ってくれた。やはりまだまだ子供だな。


「よし。さっそくアミダくじを書こう」

 俺は、自室の書類棚から白紙のコピー用紙一枚と愛用の水性ボールペンを持ってきた。


「丸がついてたら当たりな。何も印がなかったらハズレ」

「ああ」

 細かいようだが後でいちゃもんを付けられないよう、こういった確認は大事だ。

 紙面いっぱいを使って十本、縦の直線を書き、息子に見られないようにして当たりの印を付ける。


「ハズレに丸を付ければ、一個で済んだのに」

「最初に言えよ。書いちまったもんは仕方がない」

 俺は印のある部分を内側に折り曲げた後、息子の目の前で横線を無造作に書き入れた。それが終わると、もう一度紙を折って梯子状の部分を隠し、線の先端のみが見えるようにする。こういうやり方にしたのは、息子が「俺にも線を書かせてくれよ」というのを防ぐ狙いがあった。

 そう。俺はインチキをするつもりなのだ。許せ息子よ。俺は勝つためには手段を選ばない「非情の男」。「非常識な男」でも「情けない男」でもないから念のため。ちなみに今までの対戦成績が五分というのは、金銭の伴う肝心な勝負に全勝しつつも、なおかつ不正を疑わせないための布石である。「バレなければズルじゃない」は俺の座右の銘だ。


「さあ、好きな線を選べ」

「わかったよ」

 息子は十秒ほど考えて一番左端の線を選んだ。

 ほう。そう来たか。──俺は右手の親指をぺろりと舐め、ボールペンを握った。紙を広げてアミダくじの全体を明らかにする。


「それじゃ、負けても泣くなよ」

「泣くかい!」

 俺は息子の注視の中、アミダくじの梯子をペンでなぞりながら辿っていった。小細工を挟む余地のないまま、じきに終着点に到着する。俺は親指をもう一度軽く舐め、「じゃあ、開けるぞ」と言って、紙の当たりハズレの部分を広げた。


「……嘘だろ」

 息子が呆然たる表情で、落胆の声を漏らした。俺としては当然の結果だったが、息子の視点では、たった十パーセントの確率のハズレを引いてしまったわけだから、がっかりするのも無理はない。


「ついてなかったな」

「ああ」

「約束は果たせよ」

「わかってるよ。言えばいいんだろ、タダで。あの恥ずかしい台詞を」

「信じてるぞ」

「念を押されなくたってきっちりやるさ。プロだからな」

 息子は悔しそうにしながらも、妙なプライドらしきものを見せた。おいおい、何のプロだよ。マザコン演技のプロか?

 ツッコミを入れたくもあったが、やる気を削いでは元も子もないので、自重しておく。


「……。あ、あ、あ、本日は晴天なり。マ、マ――ン。ママァァァン。マ――マーン……」

 息子は肩を落としつつ、実に気持ち悪い発声練習をしながら去っていった。


「ぷっ……」

 俺は思わず吹き出した。さて、証拠隠滅だ。アミダくじの紙をクシャクシャに丸めてゴミ箱に投げ入れる。

 あの紙の下側には液体のりが薄く塗ってあるのだ。乾いているのでベタベタはしないが、じっくり見られると光沢でバレる。当たりの丸印を付けたのはちょうどその部分だった。

 種明かしをしよう。俺は全部の線の終点に丸印を付けていた。息子の選んだところの印だけ、紙を開く際に、唾で濡らした指でこすり取ったのである。

 どの部分の丸印を消せばいいかは、息子が最初に線を選んだ時点でわかっていた。すなわちどの指を予め舐めておけばいいかも。

 実はあのアミダくじは即興で書いたものではない。何度も何度も同じものを書きまくって完璧に覚え込んだものなのだ。目をつぶっても書けるくらいに書き慣れているので、傍目からはその場の勢いで適当に書いているように映る。


 全てはこんな時のために。俺は勝つためにはあらゆる手間を惜しまない。アミダくじは、二本線から十二本線までの計十一パターンを完全に記憶している。紙だってずっと前から作成してあった。

 つまり、俺は根っからの勝利至上主義者なのだ。だが、それを表に出すことはない。勝つことにあまり拘泥しない性格だと思われていた方が、相手に警戒感を抱かせずに済んで、何かと都合がいいからである。



 さて、息子の演技の結果はどうだったか。

 息子は首尾よくやってくれたようだ。今のところ妻はダイエット宣言することもなく普通のうまい飯を作ってくれているし、俺は俺でキツい運動からおさらばできて万々歳である。勿論、妻も本心では、俺にこれまで通り運動してほしいと思っているに決まっているが、自分からやめていいと言い出した手前、撤回しづらいみたいだ。


 ただ、唯一気になるのは、妻の食事の量が明らかに増えていることだ。体型も前よりさらにふっくらしてきているような。

「マイサン、あなたがデブ専なら、ママンは喜んでデブになりましょう」

 なんかキッチンから恐ろしい独り言が聞こえてきた。息子の言葉をどこかで変なふうに誤解したらしい。――やめてくれ。家にデブは俺一人だけで充分だ。

 やれやれ、この分だとまた息子と一勝負することになりそうである。



 後日談。

 妻と些細な交渉事があって、アミダくじで決着をつけることになった。結果は当然俺の勝ち。妻は最初、釈然としない顔をしていたが、なぜかニヤッと笑って引き下がった。

 その日の夕食は「イカの刺身」に「サンマの塩焼き」「鶏のつくね」。

 どうやら俺のインチキは見破られていたらしい。さては指先についたインクを見られてしまったか。まだまだ俺も甘いな。


 そう。夕食のメニューにはこんなメッセージが込められていたのだ。

 「イカ・サンマ・トリツク、ね」


続く

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