Side story 悪魔の遊戯盤
人生そんなに甘くはない。
このように言う人間は実に多いが、まったく馬鹿馬鹿しいことだ。
悪魔は骨を削り出して作ったサイを手の中で転がしてから、ひび割れた青磁のような茶碗に振り入れた。カラカラと音を立てて回転するサイの目を読もうともせず、悪魔は自らの膝に肘をついて、掌に尖った顎を乗せた。そうしておいて、反対の手で口ひげを弄びながらこう思った。
何が甘くない、だ。それまでの半生に照らし合わせてそう思うのか、過去の偉人たちの格言に従っているつもりなのかは知る由もないが、あたかも自分の人生は困難に立ち向かう人生だったかのように話し、我が身の不運を嘆くものに向かって賢人ぶった態度でそのようなことをいう人間どもの、なんと愚かなことだろうか。
そもそも、この世に生を受けて生きているということ自体が、奇跡なのだ。
ちっぽけな人間のほとんどが、生を受けて自我を持ったとたんに野心を抱く。初めのうちは親に愛されたい程度の欲求しか持っていなかった無垢な魂は、成長と共に濁り、淀み、容易く悪魔のささやきに耳を貸す。そういう輩ほど、目の前で起き続けている奇跡には目も向けず、己の欲求を満たすために命まで投げ出すのだ。
陳樫草雄。
奴ほどその愚かさを噛みしめなければならない人間もそうはいまい。
悪魔はようやく回転を止めたサイの目を見てため息をついた。
近年では珍しくもない、あまり幸福とは言えない少年時代を過ごし、青年になっても負の連鎖から脱却する努力をほとんどしなかった結果、悪魔の目に留まった日本人の姿を模した象牙製の人形を、まるで潰したゴキブリを包んだチリ紙でも摘まむように爪先だけで把持すると、胡坐をかいている彼の目の前に広げられている紙の上で動かした。
その紙は、一片が十メートルはあろうかという巨大な羊皮紙だった。そこには碁盤目状に罫線が引かれており、悪魔は際の出た目の分だけマスの中に置いてあった人形を動かしたのだ。
「あっちゃー、メフィスト様! “お助けゾーン”に入りましたよ!」
その様子を見ていたもう一体の悪魔が右手を額に当てて言った。
「……ふむ。“森の精霊と出会って迷いの森を抜ける”か」
我ながら、この人生すごろくはよくできている。
悪魔は茶碗の中のサイを拾って、再び手の中で転がし始めた。
羊皮紙に描かれた無数のマスは“お助けゾーン”の他に、“デンジャーゾーン”や“セクシーゾーン”など様々な題目によって色分けされていた。悪魔はサイを振ってコマを進め、マスに書かれた文章を読んでニヤリと笑った。
二つ前にコマが止まったマスは黄色で塗られており、題目は“チャレンジゾーン”だった。そこには「原住民を助けるか。助ければ道が開け、まっとうな職業に就いて十年間幸せに暮らす」と書かれていた。一つ前に止まったマスも黄色であり、そこには「襲い掛かってくる原住民を殺すか。殺せば服と宝石が手に入るが、森で迷うことになる。殺さず見逃せば、三年以内に訪れる不幸を一度だけ無効にできる」と書かれていた。
「言っただろう。陳樫君……そんなに甘くはないと」
契約書に明記されていた通り、彼は悪魔の所有するコマとなって盤の上で踊っている。原住民の攻撃を華麗に躱し、痛めつけたのちに喉を潰して絶命させた彼は、決意も新たに森の中で歩みを進めていた。目には炯炯とした光が宿り始めていたが、同時にかつての自分とのかい離に慄いてもいる。
彼の内面の葛藤が表出してくるのはもう少し先だろう。
悪魔のルールに則り、彼は悩み、苦しみもがいて十年を生き抜く。無為に過ごしてきた三十年弱の人生とは比べ物にならない濃密な時間になるはずだった。そうして磨き抜かれた魂の味わいを想像して、悪魔は舌なめずりを止められなかった。
「おおっと! これはいかん」
舌を溶かす興奮を想像している間に、悪魔の手の中からサイが転がり出た。それは茶碗を大きく外れ、羊皮紙の上を転がっていき、すぐに止まった。
「うわ! またまた“お助けゾーン”ですよ!」
先ほどの悪魔が、同じように手で額を軽く打って言った。
「くくく……吾輩にも、慈悲の心というものがある。このまま行かせてやろうじゃないか」
人生すごろくのルールとして、「茶碗の外にサイが出た場合は振り直し」というものが確かに存在するのだが、制作者である悪魔自身が「いい」と言えばそれに反対するものもいない。
悪魔は薄汚れた曇りだらけのデカンタを手に取ると、中身をグイと煽った。不思議な輝きをもつその液体がよほど美味なのか、他の悪魔たちがうらやましそうにその光景を見ていた。
「なんだ……諸君も一杯やるかね?」
「いいんですかい?」
「ああ、もちろんだとも。何しろたっぷり八十七年分も搾り取ったのだから」
悪魔たちが歓声を上げて集まってきた。