5 いつまでも裸でいられるわけがない
ハックを追う。
追いはぎをするために。
危険な動物が生息し、明らかに殺傷目的の武具を携帯した連中が暮らす世界で、生まれたままの姿――からは大分変ってしまったが――でいつまでもいれるほど、俺の神経は太くない。
当てもなく人里を探して危険な草原や森を彷徨うなんて御免だし、運よく人が暮らす場所を見つけても、素っ裸の人間を優しく受け入れてくれる保証はない。
ヘリックとハックにしても、草原に倒れていた俺を脱走捕虜と勘違いしていた。この世界でそういう存在が金になるらしいことは、ハックの発言からわかっている。他の人間にもそういう勘違いをされると困る。
とにかく情報と服が必要だ。
ハックを打ち倒して服を奪い、この世界の情報を得る。奴がヘリックと少女の二人と別行動を取ってくれたおかげで、目的達成の危険度はかなり下がったはずだ。
このままだと仲間のために無茶をしようとしている男女を見捨てていくことになるのだが、猛獣が迫ってくるあの場に居て何かしてやれるわけでもない。求められてもいないのに助けようとしてくたばるなんて、到底今の俺には受け入れられない。
以前の俺なら、どうしただろうか。なんて考えなくもなかったが、悪魔の契約書によって少々変わってしまった俺の中で、湧き上がる生存欲求が全力で訴えているのだ。「服を手に入れろ」と。
◇
森をナメるな。
追跡を始めて三十分くらい経ったろうか。UMA探索シリーズで有名になったタレントが、随行する女性タレントやなんかによく言っていた台詞が思い出された。
別にナメていたわけじゃないのだが、地球でも異世界でも、裸で森を進むのはよろしくないようだった。
寿命を犠牲にして手に入れた俺の身体は、小石を踏んだり突き出た枝に擦れたりしても傷一つ付かなかった。外皮が強化されていることは間違いない。要するに俺の身体は、以前のものとは似ても似つかないものに改造されているのだが、敏感肌という特徴は受け継いでいたのだ。
「……くそ」
植物に被れたのか、知らないうちに蛾の鱗粉でも浴びたか。とにかく背中がかゆくて仕方がなかった。デブだった頃は汗疹に悩まされたものだが、八十年以上の寿命を犠牲にして手に入れた身体でもそれが起きるかと思うと辟易した。
痒みと虫の類いに対する忌避感に堪えながら森を進む。
俺は、急に不安になってきた。
ハックが枝や蔓を切り払って進んだ形跡を追って進んでいるつもりだが、これが正しい道だという保証はないのだ。どこかで痕跡を見誤っていて、ただ深い森を彷徨っているだけということも十分あり得る。遠雷のように聞こえていた獣の群れの足音もいつの間にか耳に届かなくなっていた。夢中で歩くうちに、かなり距離が離れてしまったようだ。
声に出してハックを呼んでみようか。
不安から、そんな馬鹿な考えが頭をよぎる。
奴は俺を脱走捕虜と勘違いし、どこかの勢力に突き出そうとしていたのだ。身体能力には自信があるが、地の利を奪われている状態で武器を持った相手と戦った経験なんてない俺が、伝説の怒れる傭兵のごとく立ち回れるとは思えない。わざわざこっちの位置を知らせてどうする。
俺は立ち止まって、周囲を見渡した。
ハックとの距離はどのくらいだ?
森の奥へ進むにつれて、木々の間隔はやや広くなってきた。おかげで歩きやすくはなったが、奴の痕跡を探すことが困難になってきている。障害物を排除しながら進むハックと、足元に散らばる枝葉や刃物で切断されたとみられる蔦の切り口なんかを探して進む俺とでは、進行速度に大差はないのではないか。
奴が踵を返して森へ向かってから、俺がヘリックと女に別れを告げるまでほんの数分だったはずだ。その間にハックがどのくらい進んだかを推し量ろうと、振り返って自分が進んできた道なき道を見る。
だが数分前に通った場所どころかつい今しがた通ってきた道ですら、木々に阻まれて見通すことができない。森の入り口からここまでは、目算ではなく感覚だが、五百メートルくらいだろうか。
ハックと俺の距離は恐らくは縮まっていない。そもそも、正確に追跡できているという保証もない。
どうする。
このまま奴を追うか。
当初の計画通り、追いついて奴を張り倒し、武器と服を奪う。ついでにこの世界の情報をあれこれと聞き出す。引き返してヘリックを相手にするよりは安全に思えるが、考えてみれば巨大イノシシの暴走に向かって行った奴らが無事でいるとは思えない。戻れば、ヘリックと女の死体があるかもしれないじゃないか。
だが、死体から服や装備品を手に入れるのは簡単だが気が引ける。どのような死に方であっても、服の状態は良くないだろう。サイズの合わない血塗れの服を着た人間と裸のデカ〇ンなら、後者の方がましだ。
やはり、奴を追うんだ。
迷っている間にもハックとの距離が開いていくかと思うと、焦燥が募っていく。
パキッ……
踏み出そうとした俺の耳に、小さな音が聞こえた。それは枝が折れる音だった。一回だけ、左後方から。
獣の類いだろうか。
否。
なぜかわかる。茂みの向こうに、人がいる。
「ハック! 出て来い!!」
俺は振り返って大声で叫んだ。
我ながら男らしい、低音かつ張りのある声だったがそんなことはどうでもいい。
「へっへ……。バレちまったな」
茂みが揺れ、耳障りなキイキイ声のハックが現れた。彼は右手に抜刀した短剣を携えていた。俺の勘違いではなかった。気配探知とかいうのだろうか。これも、悪魔に寿命をくれてやったことで手に入れた能力の一つに違いない。
「……?」
ハックが片眉を上げた。
俺が笑っているのが不思議なのだろう。
あまり足音などには気を遣わずに移動してきたせいか、俺の追跡はバレていたのだ。できれば気づかれずに接近し、不意を突いて攻撃したかったことは間違いない。結局刃物相手に無手で戦う羽目になってしまったが、奴を見失って森で遭難する、あるいはこっちが不意を突かれて襲われるという最悪の事態は避けられたのだ。これを僥倖と言わずしてなんと言う。
「なに、笑ってんだ? まさか、『ハック様が助けに来てくれた』とかいう勘違いをしてんじゃねーだろうな」
いやいや、思っているさ。
「俺様はな、てめーをとっ捕まえて……おっと、おかしなマネをするんじゃねえよ」
ハックの目的は、やはりおれの捕縛だった。
俺は屈んで、足元に落ちていた麺棒くらいの長さと太さの棒を拾った。ハックが短剣の切っ先をこちらへ向けて凄んだ。刃物相手に棒で勝つには、剣術の心得とかいうものが必要なのだろうか。俺はハックに対して斜めに構えてみた。
「んだよその反抗的な態度は。やれやれ、いいか、変態野郎。俺は“マスターズ”認定の剣士だ。棒切れごときで俺の剣を防げると思ってんのか?」
「マスターズ?」
「はン。外国人のてめーにはわかんねーだろうがな、狩人の中でも実力が高くないと入会できねー組織だ。要するに、俺様の剣の腕前はその辺の雑兵が束になっても敵わねえくらい、すげーってこった」
どうだ、恐れ入ったか!?
とでも言いださんばかりに胸を張って、鼻の穴を膨らませたハック。
奴の危険度は俺の目算ではせいぜい五だ。してみると、玲央の奴はそうとうな危険人物だったような気がするが、今の俺から見るとまた違って見えるのかもしれない。だが、今は日本の性悪男のことを思い出している場合じゃない。俺はドヤ顔でふんぞり返るハックに宣戦布告することにした。
「お前さんが凄いのはよく、わかった。だが俺も、簡単に捕まるわけにはいかないんでね」
俺の中では、棒切れを構えた時点で意思表示をしたつもりだったのだが、なかなかハックは襲い掛かって来ない。俺が棒切れで殴りかかって、思わぬ反撃を受けてはたまらない。今のところ確実なのは、猛獣の突進をとっさに躱した自分の身体能力の高さが尋常のものではないということだけだ。そこに賭けるなら、後の先とかいうやつを取るのが適当だろう。
「へっ、仕方ねえ」
ハックが短剣を正中に構えた。
「腕の一本くらいは――覚悟してもらうぜ!?」
言うが早いか、ハックが短剣を突き出した。およそ二メートルあった俺との距離は一瞬でゼロになっていた。
「なっ!?」
驚愕の声を上げたハック。
目を大きく見開いて、俺が消えた空間を見ているそのアホ面を横目に見ながら、俺は伸び切った奴の右腕めがけて棒を振り下ろした。