3 股の間に腕があるわけじゃない
「十年……か」
契約書が溶け込んだらしい腹の辺りを触り、俺は俯いて下唇を噛んでいた。
巨大イノシシの脅威が去ってから、俺は何度も悪魔を呼んだ。しかし返事をするものはなく、聞こえてくるのは風に揺れる木々の枝葉がこすり合わさる音と、鳥のさえずりくらいのものだった。
よって、念じてもみた。
だが、俺がこうなった元凶である十字路の悪魔は現れなかった。先刻は「契約書を忘れた」とか言っていきなり出現したのだから、なにも十字路じゃないと出て来られないということはないだろう。要するに、奴はシカトしているのだ。
とにかく死にたくない。十年で人生が終わるなんて考えられなかった。こんなハイスペックな身体もいらないし、巨大な獣が住む異世界で暮らすのもごめんだ。
もう、契約書のせいだとは思えない。俺は心の底から生きたいと思っている。
悪魔よ、頼む! もう一度だけ話を聞いてくれ!
……頭が痛くなるくらい念じてみても返事はなかった。
ひとまず悪魔とコンタクトすることを諦めた俺は、辺りの安全を慎重に確かめながら森を出た。見上げるほど高い木々の枝葉に陽光が遮られていて、裸では寒かったからだ。服の代わりにできそうな大きい葉が茂っているわけでもなく、パッと見食べられそうな木の実も見当たらなかった。熱帯の密林という雰囲気ではないが、仄暗い森を分け入って木の実だのを探しているうちに、軍隊アリとかタランチュラなどの――そういうものがこの世界の森に居るかどうかわからないが――毒を持つ類の生き物に出会ってはたまらない。そんなものの攻撃でこの肌が傷つくとも思えないが、まともな人間だったころの感性が、そういう虫の類いを毛嫌いしているのがわかる。
俺は、暖かい草むらに寝転んで空を見上げた。そして、虫を怖がるかつての自分のことを思った。
それは、とても奇妙な感覚だった。
契約書が俺と一体化したことで、俺の身体には様々な変化が起きた事は言うまでもない。奇妙なのは、俺の自我とでもいう部分の話だ。
最初に契約書が身体に入り込んできたとき、俺は強烈な頭痛と共に自分という存在を忘れそうになった。寸でのところで悪魔が止めてくれたが、もはやかつての自分の名前を思い出すことはできなくなっている。
俺は、ジーン・アルフレッドなんちゃらという人間ではない。弱くて卑屈で、精神的にも肉体的にも不健康だった男だ。かつての自分が本当の自分であることはわかっているが、同時に赤の他人のようにも思える。
悪魔はかつての俺――仮にトムと呼ぼう――の人格すらも変えて、この世界で十年を生き抜かせた後に、魂を美味しく頂く肚だったらしい。
だが、ギリギリのところでトム――絶対トムなんて名前じゃなかったな。とんでもない違和感だ――の自我を残した。おかげで俺は、奴が期待した以上の生存欲求を抱くことになったわけだ。どのように生きると魂が美味しくなるのかなんて知りたくもないが、恐らくは頑張って努力して生き延びても、十年後には死ぬと分かっているという絶望が、スパイスのような役割を果たすのだろう。
だが、絶望している場合じゃない。
俺は、何としても生き延びる。それはもちろん悪魔に美味しい思いをさせてやるためじゃない。十年後に死ぬ運命だと悪魔が言うなら、徹底的に抗ってやる。人智を超えた力を操る悪魔と戦うことになるなら、強くだってなる。
「やってやるぜ……ん?」
俺は拳を握りしめて立ち上がったが、目の前の光景を見て凍り付いた。
「おっと、生きてやがったか……って、なっ、なんだこいつぁ!?」
「お嬢! 近づいちゃなりやせん!! 目の毒でさ!!」
いつの間に現れたのか、すぐ近くに数人の男女が集まっていたのだ。
「えーん。怖いよ。あいつ、股の間に腕が……股の間に腕がぁ」
「ああああ、お嬢、だから見ちゃダメだって……」
「くっ、この野郎! おい、お嬢を隠せ!!」
そいつらは、ファンタジー映画から飛び出してきたような連中だった。
「やい、この裸野郎!! てめーは何者だぁ!?」
頭に灰色のバンダナを巻いて、左目に黒い眼帯を付けた男が口から泡を飛ばして言った。三人の男女のうち、俺の正面に位置する一番背の低い彼の髪の色はバンダナのおかげでわからないが、眉と、割れた顎に沿うように生やした髭の色は黒だった。それだけ見ればアジア系と言えるかもしれない。しかし目の色が青で、頬骨が浮くほどに痩せた頬を見るか限り肌の色は白人のそれだった。
彼は少々汚れが目立つ白い七分丈の丸首シャツを着ており、その上に胸と肩の可動を制限しない範囲で覆うプロテクターを付けていた。全然光沢がない、ところどころ表面にヒビが入ったそれは、いわゆる“皮の胸当て”という奴だろう。
下半身は濃い茶色のズボンを着ていた。足元は深い草に隠れていて見えない。腰紐で縛ってずり落ちない様にしているらしく、それは臍の下あたりでちょうちょ結びになっていた。問題は、そこから少し下を通る胸当てよりも滑らかそうな素材でできたベルト――その脇に吊るされた細身の刃物だった。恐らくは短剣とか呼ばれる類の武器だ。
皮の胸当てを装備して、バンダナに眼帯、短剣を携えた男なんて、俺がもともと暮らしていた世界で出会うことはまずないだろう。さっきの巨大なイノシシの存在と合わせて、俺は異世界に居る。間違いない。
「……? 言葉が通じねえのか? つーか、ジロジロ見てんじゃねえ!」
俺が黙って観察しているのが気に入らなかったのか、細身の男が喚いた。今のところ腰のものに手をかける気はないようだが、油断はできない。木の枝にこすったくらいでは傷一つ付かない肌だが、刃物が相手ではそうもいかないだろう。
しかし、言われてみれば明らかに日本人ではなさそうな彼の言葉が分かる。これも、トムの寿命を犠牲にして得た能力の一つだろうか。
「お嬢! 早くあっしの後ろにお隠れなせぇ!! ……くそっ、それにしても、なんてデカい奴だ!」
もう一人の男が、顔を両手で覆ってしゃくりあげている“お嬢”とやらを背中に隠した。服装は背の低い男と似たり寄ったりだが、バンダナの色が藍色だった。眼帯もしておらず、ひし形の目を大きく見開いて油断なく俺を見据える彼の瞳の色は、先ほどの男とよく似た青だった。俺を「デカい」と言ったが、彼の方が身長は高く、“お嬢”に対するへりくだった口調に似つかわしくない立派な体格をしていた。おかげで、彼の後ろに隠れた女の姿はほとんど見えなくなった。
まあ、「もう一本腕が」とかわけのわからないことを言って泣き出した女のことなどどうでもいい。問題は、この大男が腰にぶら下げている巨大な剣だ。鞘に納めることなどはなから考えていないのだろう。大きく湾曲した刀身は、幅がまな板ほどもあり、長さに至っては、一メートルを軽く超えるとみえた。剣の柄は大人の腕程に太くて長い。どうやら両手でぶんまわして使うものと思われた。あんな分厚い刃で切り倒される敵はたまらないだろうな。「切られる」というより「叩き潰される」に近い死に方を想像して、俺は下半身が縮こまる思いだった。
「なあ、ヘリック。こいつ、言葉がわからねーんじゃねぇか?」
「わからん。とにかくお嬢の安全を第一に考えろ。……このデカさ、タダもんじゃねえ」
俺が灰色のバンダナが、ヘリックと呼ばれた男の脇腹を突いて言った。さっきから「デカさ」にこだわっているヘリックは、腰のものに手をかけてさらに言葉を続けた。
「おい、お前」
ヘリックがやや腰を落とした。跳びかかる前の獣のようだ。だが、さきほどの巨大イノシシほどの迫力はない。
「口で聞くのはこれが最後だ。お前は誰だ」
「俺は……」
素直に応えないと、あの武器で攻撃されかねない。いつでも飛び出せるように斜めに構えて口を開いた。
「俺は、ジーン。ジーン・アルフレッド・マスコギーだ――馬鹿な」
俺は自分の耳を疑った。トムと言おうと思ったのに、口を突いて出たのは悪魔が名付けた名前だった。