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プロローグ 十字路(クロスロード)の悪魔

「チ〇カスクサオ君!」


 教壇に立ってよく通る声を発した男の子は、クラス一の人気者。名前はそう、芦名玲央。サッカー部のエースで、運動会のヒーロー。小麦色に焼けた肌に、さっさと生え変わった大人の歯がキラリと光るスマイルで、同級生はおろか僕のママまでイチコロさ。なぜか小学校から高校まで一緒だったおかげで、僕の青春はずっとチン〇スクサオが付いて回った。向こうは僕のことなんか覚えていないだろうけど、こっちはたぶん、死ぬまで、いいや、死んでも忘れない。


「返事しろー」


 一番後ろの席――秀才にしかその椅子を選択することは許されない――で、机に足を乗っけて合いの手をいれたのは大河原秀夫。地元大地主の一人息子で、一か月のお小遣いで車が買えるという噂の成金小学生だ。悲しいかな子供の頃からお金の大切さを叩きこまれている我が国の国民は、彼のマネーパワーの前にひれ伏すのみだ。しかしお金の力で人気は買えても、人の心を本当に掴んでいるわけじゃない。多分それを本人も分かっていたんじゃないかな。秀男はいつも玲央と一緒に居たがった。欲しがり屋でハイクラスな人生を望む彼は、友人のステータスも気にするのだ。


「隠れててもわかるぞー、臭いもん」


 秀男の発言に同調してクラスの笑いを取ったのは三反田剛。お調子ものの彼は、授業中でも給食の時間でも常にふざけている。唯一真面目に取り組むのは理科の実験。お父さんがどこぞの製薬会社の研究員だから、将来自分もそれになるんだという姿勢はご立派だったけど、僕は異臭騒ぎの元になるような体臭を放っていなかったし、洋服だってママがきれいに洗ってくれていた。科学的根拠もなにもなく、「臭い」なんていう奴が研究者になったって、ロクなものは生まれないと思う。


「オラ、返事しろよ、クサオ!!」


 始まった。

 冒頭からこれは夢だと分かっている。

 掃除の時間、先生が下駄箱掃除の進捗を見に行っている間に起きたリンチ。

 早々と教室の掃除を終え、机を並べて僕を中央の椅子に座らせて。

 いじめっ子たちが近づいてくる。


「おい、チンカ〇クサオ!!」


 僕は俯いて、最後のプライドをかけて返事をしない。


「お前、生意気なんだよ!!」


 髪の毛を掴まれて、無理矢理顔を上げさせられた。夢のくせに、ちゃんと痛い。







「…………」


 目覚めれば、そこはいつも通りの自室。

 ベッドと並行に置かれた姿見に映る低反発枕に沈み込んだ顔。

 汗で湿ったシーツから身体を離して、涙に濡れた枕カバーを隠すように裏返した。

 サイドボードに置いた時計の針が出勤時間まで間がないことを知らせている。

 立ち上がり、殺菌ウェットティッシュで身体を拭いて、急いで着替えて階下へ――

 おっと、忘れちゃいけない。

 クラシックなデザインの置き時計の横に伏せてある携帯端末を手に取り、ワイシャツの胸ポケットにしまった。


「おはよう、朝ごはんは?」


 母が声をかけてくれるが、ゆっくりしている時間はない。


「悪い、時間ない!!」


 顔も見ずに答えて玄関へ走り、革靴を履いて家を飛び出す。途端に目も眩むほどの陽光が襲ってきた。ピカピカの黒革――前夜、母が磨いてくれたのだろう――に反射するどころか浸み込んで浸食するのでは思うほどだった。

 絶対、男性も日傘をさすべきだ。

 特に、僕の様な体型の人は。

 家を出る前から盛大に分泌されている汗でぬれたワイシャツの腋を隠すより、真夏の紫外線を避けるために鞄を頭の上にかざして、僕は駅へと急ぐ。

 駅に着いたら背広を羽織って満員電車に滑り込む――というより無理やり体をねじ込んでいく。そんな隙間がないから満員電車というのだ。隠そうともしない迷惑そうな視線には慣れたもの。


「降りろ、デブ!」


 なんて言われることも日常茶飯事だ。ま、デブが迷惑防止条例に違反するというなら、降りるけどね。名誉棄損で訴えられたりしないだけ、むしろ感謝してほしいよ。

 車内の冷房によって、頭一つ飛び出た僕の顔は寒いくらいの冷風を浴びる羽目になる。人間の身体は、顔だけ冷えても全身の汗を引かせるような恒常性の維持の仕方はしない。密着した人々の体温に温められた熱気によって、滴るほど汗をかいてしまう。暑いのに背広を着た理由がこれ。ワイシャツ一枚じゃ、周りの人に迷惑だからね。

 電車がカーブに差し掛かり、僕に背を向けて苦しそうにしていたOL風の乗客二人が大きく体勢を崩した。家具量販店で売っている巨大なクッションのような僕のお腹に、彼女たちの体重が圧し掛かる。ただでさえ三桁の自重を支えている膝が悲鳴を上げる。でもここで僕が体勢を崩すと、背中側の人々がドアと僕に挟まれて大変辛い思いをすることになる。吊革が揺れるアルミフレームを必死で掴んで、重力に抵抗する僕はさらに汗をかく。

 今日の運転手は何を考えているのか、そんなタイミングで列車は急減速した。


「ええ、ただいま停車信号を確認しました。車体の揺れにご注意ください」


 揺れてから言っても遅いんだよね。

 子供の頃から、彼らの独特の言い回しと声が好きだったが、今は少しも好感を持てない。


「ちょっと、今汗垂れたんだけど!」

「マジ!? 超キモイ!」


 激しい揺れによって、僕の顎先から雫が飛んだようだ。眼下の女性二人が聞えよがしに騒ぎ、車内の嫌な空気がいっそう密度を増した。さすがにここまであからさまなヘイトを叩きつけられると、少々心が痛む。

 その時、左胸に奇妙な振動を感じて僕はハッとした。

 電車内の緊迫した空気に反応して、僕の心臓が変な動きをしたわけじゃない。それは明らかに、胸ポケットに仕舞った携帯電話の振動だった。

 長く、細かい振動が五回。

 メール受信を知らせるものだ。

 今度こそ本当に、心臓が早鐘を打つ。

 来た! 来たんだ!!

 逸る心に呼応したかのように、電車は再び動き出した。スピードを上げていき、それに合わせて揺れもひどくなる。ついでに車内の空気もひどいものになっていくが、まったく気にならなかった。







 定時のベルが鳴る。

 残業ゼロを推進するのは結構なことだが、冷房が効いた会社を出るにはまだ早すぎる。なんやかやと理由を付けてギリギリまで会社に残るのが僕のセオリーだったが、今日は違う。

 僕は、日が傾き始めた繁華街の交差点で、アスファルトから立ち上る放射熱とアフターファイブを謳歌しようとごった返す人の波に逆らいながら進んでいる。

 目指す場所は待ち合わせに指定されたオープンカフェ「まどぅ」だ。渋谷のオープンカフェなんて当然行ったことはないのだが、現代人は携帯無線電話機の進化のおかげで道に迷ったりすることはほぼない。

 待ち合わせ三十分前に、「まどぅ」にたどり着いた。この店は、昼はカフェとして、夜はカジュアルフレンチダイニングとして営業している人気店で、予約を取るのはなかなか大変だ。しかし、僕は二か月も前から最高の席をキープしている。

 店員は怪訝そうな顔で出迎えてくれたが、予約したものであることを告げると引きつった笑みを浮かべて店内へと導いてくれた。

 まあ、駅の花屋さんで買った赤いバラを携えているせいだろう。

 オープンテラスの小さな――違った。僕が大きいだけか。とにかく小さな椅子に腰かけて、店員が運んできたお冷にバラを挿した。ベージュのエプロンをした女性店員が目を丸くしたが構うものか。これが待ち合わせの目印なのだから。

 もうわかっただろう。待ち合わせの相手は女性だ。

 一年も前に登録した出会い系サイトで知り合った。怪しいサイトじゃない。身元保証付きの会員制で、テレビCMまで展開している優良サイトだ。その証拠に、高い入会金を払って登録した僕のところに、メールは一通も来なかったのだ。

 そりゃ、そうだろう。

 家柄はふつう極まりない。父は四十年勤めた会社を定年退職して、母と共に退職金と年金、貯金を少しずつ切り崩しながらつましい生活をしている。

 僕はと言えば、小さな郵便局に務める平社員だ。給料はけして高くない。容姿はこの通りだし、童貞――そんな情報まで登録させられる――で親の遺産も期待できない男に興味がある女性(ひと)なんているわけもない。サイトに登録した途端にメールがわんさか来るようでは、不信感しか抱かなかっただろう。

 だが、半年前に状況は一変した。

 相手の名前は辻堂夏美さん。

 自他ともに認めるデブ専で、僕のプロフィール写真――就職時の履歴書に貼ったやつ――を見て一目ぼれしたそうだ。そんな都合のいいことあるわけないと表面では思いつつ、神様にこの奇跡を感謝した。

 それから三か月ほどメールでやり取りをした。僕たちはお互いいじめられていた過去があった。他にも人と交わるのが苦手だったりと共通点が多く、春が終わるころには、僕はすっかり彼女の虜だった。

 そして二か月前、彼女が行ってみたいと言っていた店を予約し、逢いたいと伝えた。彼女はOKしてくれたが、三日前になって「もしかしたら、行けないかもしれません」と連絡が入った。なんでも病気の親類がいて、容体が思わしくないらしい。当日ドタキャンになったら申し訳ないというのだ。

 僕は、当日朝まで様子をみて、大丈夫そうなら連絡を下さいと言っておいた。そして、今朝、満員電車を降りて受信メールを確認した僕はその場で飛び上がりそうになった。


「落ち着いているから、今夜大丈夫です」


 画面に踊る文字を再び読み返し、僕は頬が緩むのを止められなかった。待ち合わせの時間まであと五分。心臓の鼓動が早くなる。

 道を行き交う派手な格好の男女が、僕の姿を見て笑っているようだ。まあ、無理もない。そんな連中からは目を逸らしていればいいのだが、通行人の中に夏美さんがいるかもしれない。そう思うとつい、徐々に暗くなっていく繁華街の通りを見てしまうのだった。







「お客様……お待ち合わせの方は?」


 びっくりした。

 お待ち合わせの方がいらしたのかと思った。


「ま、まだです。その、少し遅れるみたいで」


 見ず知らずの人と話すのは苦手だ。


「かしこまりました。お飲み物などいかがですか?」

「いえ、けけ、結構です。待ってますから」


 店員は、口では「かしこまりました」などと言って去っていったが、明らかに迷惑そうだった。

 たった数秒の会話で、どっと汗をかいた。喉がカラカラだ。水を飲みたいと思ったけれど、バラを取って口を付けたら全部飲んでしまうだろう。新しいお冷なんて頼める雰囲気じゃないし、度胸もない。

 メールでは夏美さんと気軽に呼んでいたけれど、会ったらなんて呼ぼう。いきなり下の名前で呼んだら引かれるかもしれないな。

 そう言えば、もう一時間半待っている。待ち合わせ時間を一時間間違えたかな。

 夏美さんはもうすぐ来るさ。







「あのぅ……」




 遠慮がちな声が、頭上からかけられた。

 声の主を夏美さんと勘違いするほど、僕は間抜けじゃないとかいう自己弁護をして、僕は席を立った。バラの花を抜いて、水を一息に飲み干す。それだけでチャージ料とやらを取られた。


「クサオ!! お前、クサオだろ!?」


 店を出た僕は、フラフラと繁華街を歩いていた。夏美さんはどうしたのだろう。メールをしたが返事はない。きっと、親類の容体が悪化したんだ。病院じゃ、携帯は見られないものな。さすがに四時間も待ったんだ、仮に彼女が遅れて到着したとしても、待っていなかったことで怒られはしまい。

 とにかく帰ろう。

 空腹だし、疲れた。

 そう思って足を引きずるようにして歩く僕を、どこかで聞いたような声で呼び止める人がいた。


「……?」


 振り返るとそこには、茶髪を長く伸ばした男が立っていた。パッと見てイケメンとわかる顔立ちだった。意志の強そうな目がせわしなく動いて僕の姿をしげしげと眺めている。人と目を合わせるのが嫌で視線を下げると、はだけたシャツの胸元になんちゃらハーツのネックレスが光っていた。


「俺だよ、俺! 玲央!」

「レオ……?」


 聞き覚えがないなどということはもちろんない。

 僕の知り合いでレオなんて名前の奴は一人しかいない。

 芦名玲央。

 なんでこんなところで、こんなときに?


「いや~、こんなところで会うなんて! 偶然だな!? おい、元気にしてたか?」


 親しげに話しかけてくる玲央。

 正直今は、相手が誰であっても話したい気分じゃないし、元気でもない。


「…………人違いです」

「ああ?」


 踵を返して歩き出した。


「おい、待てよ! チン〇ス!!」


 往来でよくも口に出せたものだ。

 僕は立ち止まった。通行人が何人か振り返って僕と玲央を見ている。


「久しぶりに会った友達(・ ・)をシカトかよ。変わんねーな」


 ゆっくりと、玲央の声が近づいてくる。


「暗くて、キモくてよ。俺がよく遊んで(・ ・ ・)やった恩を忘れちまったのか?」


 疑問を呈しながら、自称トモダチが横に並んだ。繁華街の若者たちはもう、興味を失ったのか自分たちの喧騒に戻って行った。僕の周りだけ、時計が止まったように静まり返っている。


「なあ、聞いてんのか、よっ!!」


 腹部に衝撃。

 見れば玲央の右拳がめり込んでいる。痛みを感じるのはもう少し先だろう。


「慰謝料払えよ」


 拳を引き抜いて、目の前でヒラヒラと振ったあと、耳元で何か言われた。


「俺はメチャクチャ傷ついたぜ? 慰謝料払えって言ってんだよ」


 腹部が少しずつ痛みを訴え始めた。

 こいつは何を言っているんだ。

 傷つけられたのは僕の方じゃないか。今だって、いきなり腹を打たれた。僕が交番に駆け込んだらどうなると思って――


「ごめん」


 意志に反して、口から出たのは謝罪の言葉だった。

 条件反射。

 パブロフの犬。

 この場合、僕が餌で彼が犬。


「へっ。あんがとよ」


 財布からありったけのお札とついでとばかりに名刺まで強奪した玲央。そしてクレジットカードをじっくりと眺めたあと、彼は「またな」と言って夜の繁華街へ消えて行った。

 残念だけど、再会はないよ。







 幸い、小銭は残っていたのと定期入れを別に持っていたおかげで、実家の最寄り駅までは帰ってくることができた。

 今日一日、僕は何をしていたのだろう。

 何かこう、嫌な夢を見て、会社に行って……いや、これも夢の続きかもしれない。携帯の画面を操作してメールを確認した。

 新着メール一件。

 会社のアドレスから転送されてきたものだった。


「来週の月曜までに十万用意しろ レオ」


 ちょうど川を渡る橋にさしかかった。この下で、あいつらにボコられたことを思い出した。僕は、携帯を川に投げ捨てた。

こんなことをしても無駄だろう。相手は名刺を持っているし、実家の住所も知っている。ボチャンと音を立てて、携帯が暗い川に沈んだ瞬間にそう思ったが、もう遅い。


「あ、夏美さん」


 携帯に連絡をくれたかもしれない。

 でも、やっぱりもう遅い。

 僕は何やってんだ?


 しばらく真っ黒なうねりを見ていた。なんとなく飛び込みたい衝動に駆られたが、この川は浅いし、僕は水泳が得意だ。と言っても脂肪が多いから浮かびやすいと揶揄されるネタにしかならない。

 他に行くところもない。

 実家に帰ろうと思って足を踏み出した。

 帰ってどうなる?

 また同じ日の繰り返しならまだいい。

 明日からはもっと悪い日常が待っている。

 夏美さんと連絡も取れない。

 いつまた、玲央が現れるかもわからない。

 希望なんてない。

 なるほど、これが絶望というやつか。

 実家の両親だって、僕がいつまでも家に居たら困るだろう。


「食費だってかさむもんなあ」


 もちろん生活費は入れている。僕は見た目通りの大食漢だから、家計を圧迫していることは間違いない。夏は冷房がないと大変だから、電気代だってかかるし、僕が風呂に入るとお湯がほとんどなくなるから、毎日風呂を沸かす水道にガス代だって余計にかかる。

 僕なんかいなくなった方がいいんだ。

 誰も困らないどころか、電車の乗客たちは喜ぶに違いない。もしかしたら両親は悲しんでくれるかも、でもそれを確認することはできない。

 十字路にさしかかった。

 まっすぐ進めば実家。

 右に曲がれば小学校へ続く道。

 左に曲がって少し行くと、玲央の実家がある。


「…………さよなら」


 陳樫草雄は、消えます。

 思えばこの名前が良くなかった。

 父さん、今度父さんの子に生まれたら、名前はおじいちゃんにお願いしないで、自分で考えてね。

 僕は、踵を返した。


「おいおい! 寂しいことを言うなよ、青年!」


 振り返った僕の目の前に、見知らぬ男が立って両手を広げていた。


「…………」

「ちょ、ま……待ちたまえ!!」


 黙って通り過ぎようとすると、肩を掴まれた。汗だくになっているので背広越しにもウェットな感触がしたはずだが、彼は眉をしかめることもなくニヤニヤと笑っていた。

 怪しい男だった。

 ぴっちりとしたオールバックを造るために大量の整髪油を使っているのだろう、テカテカと光る黒髪がまず怪しい。いかにも悪企みをしていそうな細い目をさらに細めて僕を見ている。さらに怪しいのは口髭だ。かの有名なフランスの怪盗、アルセーヌ・ルパンを思わせるそれの下には血色の悪い唇があり、それの左端だけを持ち上げている。

 こんな時間に、こんなところでセールスということもないだろう。

宗教の勧誘だろうか。

 どっちにしても僕には関係ない。お金は持っていないから買い物をすることもお布施を差し出すこともできない。


「そう睨むな。吾輩は、君を助けに来たのだ」


 挙句に口調まで怪しい。


「だから、睨むなと言っているだろう」

「僕、時間がないんで」


 振り切ろうとしても、男の手が肩に食い込んでいるのかまったく身動きが取れない。いや、肩を抑えられただけで全身が動かなくなるわけがない。


「逃げようと思っても無駄だぞ? 君はもう、吾輩のテリトリーに足を踏み入れてしまったのだ」

「誰なんだ……あんた」

「よくぞ! 聞いてくれた!」


 男が再び、両手を広げた。今更だが、結婚式で着るような燕尾服を着ている。

 とにかく、男の手が離れたところで、身体の自由が戻った。

 僕は走った。

 全力で。

 とにかく橋を越えて駅に向かおう。

 そこまで行けば交番がある。追いつかれる前に百十番するべきか?

 馬鹿、携帯は捨ててしまったんだ! まったくもう!


「……あれ?」


 胸ポケットをまさぐって、そこに四角くて硬いものがないことに舌打ちをして前を見ると、そこは先ほどの十字路だった。


「なんで?」

「吾輩のテリトリーから、許可なくでることはできんのだよ」

「わあああっ!?」


 振り返ると、先ほどとは逆の立ち位置で男が立っていた。


「あんた、いったい」

「ふむ。ではやり直そう」


 コホンと一つ咳払いをして、燕尾服の男が両手を広げた。


「吾輩の名は十字路(クロスロード)の悪魔! 人の絶望より生まれたる不滅の王なり!!」


 ジャジャーン! とばかりに大きな身振りで自己紹介をした男は、得意満面といった様子でふんぞり返った。

 クロスロードの……なんだって?


「君は絶望して死のうと思ったのだろう……?」


 ふんぞり返ったと思ったら急に顔を近づけて、斜め下から問いかけてきた。


「別に……死のうとまでは」

「そうかね。なら結構。もと来た道を戻りたまえ」


 意外にもあっさりと身を引き、手で実家の方向を指し示す男。しかし、モゴモゴと、口の中で何かつぶやいているようだった。耳を澄ますと、「残念だねえ……せっかく、寿命を代償に、夢の生活が手に入るのに」とか「最近の若者はすぐ死にたがるくせに、いざやってみると失敗するものばかりだ。実に嘆かわしい」とか言っている。


「寿命を代償にって、どういうこと?」


 夢の生活が手に入る――そんなキャッチフレーズにちょっとだけ興味が湧いた僕は、ついそんなことを訊ねてしまった。なぜか、この男相手にはどもったりせずに話すことができた。


「ふふふん。興味があるのかね?」

「別にそういうわけじゃ……」

「素直じゃないな。まあ、よかろう。本当は一度断った奴は相手にしないのだが、特別にご案内をしようじゃないか」


 口ひげを指先で弾きながら、男が近寄ってきた。僕たちは今、十字路の真ん中にいる。まだ人通りがゼロになるような時間帯ではないはずだが、僕ら以外の全てが静まり返っていた。


「いいかね? 吾輩は君の寿命を代償に、願いを叶えてやることができるのだ」

「願いって、どんな?」

「なんでも、さ」


 そう言うと、男は右手の人差指を立ててウィンクした。

 気持ち悪いと思って一瞬目を逸らした次の瞬間、男がパチン! と指を鳴らした。


「……あ」


 音に驚いて目をやると、彼の手には見覚えのある四角い物体が握られていた。


「気がついたかね? ……そう、これは君の携帯だ」

「どうして……」


 それは、さっき川に捨てたはず。間違いなく水没したのを見た。


「まあまあ、手に取ってみたまえ」


 渡された携帯は、濡れていないどころか新品同様に光っていた。手指の油でテカっていた画面もキレイに磨かれている。


「そいつはサービスしておこう。軽いデモンストレーションだな。お近づきの印と思って受け取ってくれたまえ」


 男はまた左の口角を上げてニヤリと笑った。

 どんなトリックか知らないがとりあえず、携帯電源をオンにした。

 画面を見てハッとした。

 新着メール有り。差出人は、夏美さんだった。

 慌てて開封する。


「元カレとよりを戻すことになったの。ごめんなさい。もう、メールしてこないで」


 携帯を持つ手が震えた。

 画面にポツポツと水滴が落ちてきて、雨かと思って空を見上げると口中に塩辛い液体が流れ込んできた。それで、僕は自分が泣いているのだと気がついた。


「おや、まあ、かわいそうに……」


 携帯の画面を覗き込んだ男が、口を「へ」の字に曲げて首を横に振った。


「……寿命、あげるよ」

「は?」


 男がポカンと口を開けた。


「全部あげるよ。だから、僕をこの世界から消してくれ」

「お、おいおい、ちょっと待ちたまえ」


 今度はオタオタし始めた。


「いいかね? 寿命を全部差し出すというのは、要するに死ぬってことだ。それじゃあ意味がないだろう」

「いいんだよ。僕はもう生きていたくないんだから」


 自分でも捨て鉢になっているのはわかる。でももう、どうなってもいいんだ。


「いやいやいやいや、それじゃ困るんだ。一応吾輩たち悪魔にも倫理規定ってものがある。『最低十年は残す』と決まっているのだよ? まあ、余命が十年に満たない者は例外だが、君の場合は……」


 男は懐から電卓を取り出して、忙しくボタンを押して計算し始めた。


「うむ! なんと余命九十七年だ! これは世界的に見ても希な事ではないか! まっとうに生きれば、君は百二十四歳まで生きられた!」


 それを聞いて安心したよ。

 こんな絶望を抱えたまま、そんなに長生きするなんて考えられない。


「じゃあ、残り十年でいいよ。それで、八十七年の寿命をあげるとどんな願いが叶うの?」

「はっきり言おう。どんな願いでも叶う」

「例えば?」

「想像力を働かせたまえよ。まったく最近の若いもんは、自分で考えるということをしないからいかん」


 男は団塊の世代の男たちの決め台詞を吐いて、またしても首を横に振った。


「どんな願いが叶っても、十年で死ぬと分かっていたら意味がないと思うんだけど」

「馬鹿か君は。だからこそ、残りの寿命の多寡と願いの大小を天秤にかける醍醐味が生まれるのだ!」


 馬鹿なことを言っているのはどっちだ。

 でも携帯を出現させた力は本物だ。僕はそれを操作して、電話帳のリストや受信メールをチェックした。こんなもの、即席はもちろん、あらかじめ準備しておくこともできはしない。


「でも、本当に願いなんかないんだ」


 夏美さんとうまくいく――なんて考えなくもなかった。けれど、幸せな時間は十年で終わってしまうらしいし、夏美さんの今の幸せを壊したくない。


「ふーむ、宜しい。では、吾輩が八十七年分の寿命を使ってプランを立ててやろうではないか。いわゆる“おまかせコース”だな」

「じゃあ、それでお願いします」

「任せておきたまえ!!」


 言うが早いか、男が黒い鞄を取り出した。背後に置いてあったのか、さっきのように突然出現させたのかはわからないが、もうそんなことはどうでもよかった。

 男は鞄から、古めかしいメジャーだのちびた鉛筆だのを取り出し、僕の周りをまわってあれこれと測っては手の平にメモしていった。鉛筆の先を舐めるときに、彼の舌が二枚に割れていたように見えたが気のせいだろう。


「よーし。こんなもんだろう」


 待つこと五分。

 男の作業が終わったらしい。


「では、これを見てくれたまえ!!」


 男が鞄から何かを取り出した。


「いいかね、まずは……」

「読めないよ」


 それは、羊皮紙というものだろうか、茶ばんだ薄い紙のようなものでできた巻物で、バッ! と音をたてて広げたそこには、アルファベットのような文字で何十行もの文章がつづられていて、パッと見それは英語の文章ではなかった。


「ふむ。ラテン語が読めないのか、不勉強だな」


 男がパチンと指を鳴らすと、文字列は一瞬で日本語に変わった。

 一番上には「契約書」と書かれていた。


「ここを見てくれたまえ」


 男が「記」と記された場所の下から始まる文章を指差した。


「まず、寿命十年分を消費して、君を異世界へ飛ばしてやろう」

「異世界?」

「そうだ。詳細はここに書いてあるから、後でよく読んでくれたまえ」


 さっさと次に行きたいらしく、男の指先がその説明部分を飛ばして次の段落へ移動した。


「さらに、十五年分でまったくの別人に変身する」


 そこには挿絵も添えられていて、ハリウッドスターのように彫りが深い顔の男性の裸体が描かれていた。身体も鍛え上げられていて、ギリシャの彫刻の様だった。


「あっちで苦労しないよう、身体は強く――おお、そうだ、魔法に興味はあるのかね?」

「魔法? さあ、どうなんだろ」

「あって損になるものでもないからな。備えあれば憂いなしだ。力と魔法に十年ずつ割こうではないか」

「はあ、まあご勝手に」


 だんだん雲行きが怪しくなってきた。異世界とか魔法とか、まるでマンガか小説みたいだ。


「異世界に飛んで、超絶イケメンとなり、力も強くて魔法も使える! ……と、まだ半分以上余っているな。……んん!?」


 契約書の文章を指でなぞりながら、ブツブツつぶやいていた男の手が、先ほどの挿絵のところでピタリと止まった。


「どうしたの」

「いやー、失敬! 吾輩としたことが、こんな重要なモノを付け加えるのを忘れていた!」


 言うが早いか、男の右手に消しゴムが出現した。男はそれで挿絵の股間部分をゴシゴシとこすり、続いて出現した鉛筆でササッと絵を描き直した。


「うむ! これで四十年は消費できたな!」

「……なんでだよ」

 

 挿絵の男性は、それはもう立派なモノをぶら下げていた。


「ここは重要だぞ? 寿命四十年つぎ込む価値は必ずある。吾輩が保証しよう。あとは、言語だとか細かい部分を足して……と、これでピタリ、八十七年プランの完成だ!」

「……そう」


 鼻息を荒くして興奮気味の男を冷めた目で見返し、僕はため息をついた。


「それで? どうなるの」

「うむ。プランに異論がなければ、この“悪魔の鉛筆”でここにサインを――おお、うむそうだな」


 男の言葉が終わらないうちに、鉛筆を奪ってサインした。返事をするのも億劫だった。


「……あれ?」


 確かに「陳樫草雄」とサインしたはずだったが、下線の上にはまったく違う文字が記されていた。


「ふっふっふ。上客にはそれにふさわしいサービスを提供するのが吾輩のポリスィでね。君の忌まわしい運命を呼んだ名前は、吾輩のセンス溢れる姓名へと変えておいた!」

「いや、ちょっと待って、これって――」

「では迷える子羊よ! 契約は交わされた!!」

「!?」


 男の姿が闇に溶けた。というか、周囲全部が真っ暗になった。


「ちょっと、なにこれ!?」

「ふはははははは!!!! 十年後、また逢おう!!」


 男の高らかな叫びの直後、僕の身体を強烈な風が襲った。

 立っていることは愚か、息を吸うことも困難なほどの突風だった。

 身体がふわりと浮いた。

 僕は必死に手を伸ばして叫ぼうとした。

 次の瞬間、風は爆風に変わって僕を吹き飛ばした。







「……う」


 気を失っていたらしい。

 瞼を通して突き刺さる光を感じて、それから逃れようと身を捩った。


「……夢……だったのか――誰だ!?」


 すぐ近くで知らない誰かの声がした。

 開いた目に飛び込んできたのは、青々とした草原だった。

 さっきまで、アスファルトで舗装された十字路にいたはずなのに、僕は見渡す限りの大草原に倒れていたのだ。


「誰もいない……いや、これは」


 知らない誰かの声ではなかった。すぐ近くどころか、これは自分の喉から発せられているのだ。


十字路(クロスロード)の悪魔……」


 奴の言ったことは本当だった。

 僕は、すらりと伸びた長い脚の間にぶら下がる、立派なモノを見て確信した。




第一章 「一年目 イケメンでデカ〇ンだからってモテるわけじゃない」へ続く。

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