起の巻 げっ、異世界に行っちゃったよ!
俺の名前は和泉翔太、23歳。どういうわけか半年前、異世界に転生した。
いや転生ではないな。別に生まれ変わった訳ではない。姿形はそのままに、別の世界に転移したといった感じだろうか。
あの日、俺は学生時代から付き合っていた彼女に振られてやけ酒を飲んでいた。悪いのは俺だと分かっている。俺は大学を卒業するとギャンブルにはまった。
パチンコに麻雀からと始まり、競馬に競艇とあらゆるギャンブルに手を出し、一端のギャンブラーになったつもりで無頼を気取っていた。
だが、そんな生活が長く続くはずもなく多額の借金を抱え、周りから友人達がひとり去りふたり去りと離れていき、遂に彼女にまで見放された。
俺って馬鹿だねえ。最初は調子よく勝ってたから、俺って伝説のギャンブラーに成れんじゃねえのと、馬鹿みたいな夢を見ちまった。
大体ギャンブルで飯を食えるはずもない。それに俺はここ一番の勝負に弱いからな。万にひとつ負けがあるかないかという時に、必ず負けを引いちまう。
例えば競馬で本命も本命、ど本命に大金をつぎ込むと必ず負ける。
今の所持金は千円すらねえよ。もう、俺の人生は完全に詰んだね。
「こんな世界に未練はない! もう、どうにでもしてくれ!」
公園のベンチに缶ビール片手に座ると、酔った勢いのまま夜空に叫んでいた。
俺が覚えていたのはそこまでだ。
いつのまにか眠っていた俺が、朝の眩しい陽の光に目をさますと、そこは異世界だった。
◆
うぅっ、冷てぇ。さむっ。どうやら酔っ払ってそのまま寝てしまったようだな。
俺は噴水のあげる水飛沫を浴び、その冷たさに思わず目を覚ました。
えーと、ここどこだろう。
後ろの噴水を振り返り、辺りを眺めて首を傾げる。
噴水からは幾本もの水流があげる水飛沫が、周りに七色の虹を生み出している。その噴水の中央には厳めしい顔したおっさんの石像が、前を指差し今にも走り出しそうな姿のまま鎮座していた。
周りを見渡すと、日本とは思えない石畳の道路にレンガ造りの建物。
見覚えのない場所。というよりここは日本に見えない。
どう見ても日本じゃねえよ。顔から血の気がさぁと引いてくのが分かる。これって、拉致、誘拐、テロ、色んな言葉が頭の中を駆け巡る。
どうなってんだよこれは。
焦った俺は、近くにいる人に慌てて声を掛けようとして呆然とした。
それは、道行く人々が……猫耳、犬耳、兎耳、エルフにドワーフ。ひとつ目の巨人に蜥蜴男。カラフルな色した髪に、フルプレートの騎士から魔女っ娘まで。まるでハロウィンの仮装行列だ。
しかもこいつらマジで本物。
最初は当然本物だとは思わなかった。何かのイベントか、記憶が欠落してるだけで何処かのテーマパークにでも迷い込んだと思った。以前にも酔っ払って気付けば、見知らぬ場所なんて事がよくあったからだ。
だが、今目の前を通り過ぎたアベック、イケメンの男性と可愛らしい女の娘……イケメンは爆ぜろ。滅びて世界から絶滅しろ……いやいやそんな事じゃない。
男の方は耳の尖った絶世の美男子。男に腕を絡めた可愛らしい女の娘は、犬耳? それとスカートに穴をあけた所からは尻尾が。
そしてイチャイチャしながら俺の前を通り過ぎていく。
くそっ、こっちは彼女に振られたばかりだというのに。アベックは爆ぜろ。滅びて世界から絶滅しろ……いやいやそんな事じゃない。
男の耳もそうだが、女の娘は嬉しそうに耳はピクピク動かし、尻尾をブンブン振っている。
くそっ、アベックなんか……おっと、また違う方に考えが飛びそうになるのを戻す。
あれはどう見ても本物。特殊メイクなんかに見えない。
訳が分からん。どうなってんだ。俺はおかしくなったのか。それともあれか、ラノベなんかでよく聞く異世界……まさかな。そんな馬鹿な話が……。
噴水の縁石に腰掛け頭を抱える俺の前に、誰かの影が差す。足下の石畳を見つめる視線の端に、誰かの黒いブーツが見える。
顔を上げると、目の前には剣をぶら下げ揃いの制服を纏った男が二人立っていた。
腕に巻いた赤い腕章には衛生と書かれ、いかにも取り締まる側といった見た目の二人が顔をしかめている。
「おい、お前。ここは建国記念広場だぞ。お前が座ってる噴水はその象徴ともいえる物。後ろを見ろ。誰の像か分かるな。恐れおおくも建国の英雄王、アンドロポロトフ一世陛下であらせられる。お前はどこに腰掛けてるのか!」
「怪しいやつめ。その薄汚れた格好といい、お前は三等市民じゃないのか。ここらはお前らが来ても良い場所ではない。身分証を、いや詰所まで来てもらおうか」
ひとりは目を怒らせ怒鳴り、もうひとりは胡散臭そうに俺を眺めている。
アンドロポロポロって誰だよ。いきなりの不審者扱いはあんまりじゃないの。
それに薄汚れたって……俺は自分の格好を確かめる。
よれよれのTシャツにジーンズが泥まみれになっていた。右手には何故か、ビールの入っていた空き缶を握り締めている。そして顔を擦ると、パリパリと乾いた泥がこぼれ落ちる。
あっ、確かにこんな格好なら不審者だ。そういや昨日は公園で……そして今朝、噴水の水でこんなみすぼらしい姿になったんだな。
まずいな。こんな訳が分からん場所で連れてかれると、どんな目にあわされるか知れたもんじゃない。
俺は以前、テレビのニュースで見た事を思い出す。外国を旅行していた人が強盗にあい、警察官に助けを求めようとしたが、その強盗が警察官だったという話。
その時俺は、馬鹿なやつと大笑いしていたが、今は笑えない。
落ち着け俺。ここはどこだか分からないが、彼らは警察官に近い身分なのだろう。
周りを見渡すと、数人の人? 達がこちらを興味深そうに眺めている。
落ち着いた対応をすれば、彼らも無茶をしないはず。
深呼吸を数回繰り返し、彼らに話し掛ける。
「えーとですね。どうも私は誘拐でもされてきたようで、ここがどこかも分からないのですよ。あっ、いい忘れましたが、俺……いえ、私は日本人でして、あれば日本の大使館に……あるわけないか、何言ってんだろ俺は。とにかく私は怪しくないです」
俺は必死で釈明するが、どこかヨーロッパ系の顔立ちの二人は、更に胡散臭そうな顔をする。
「お前、変な薬でもやってるのじゃないだろうな」
「訳の分からん事を、取り敢えず、そこの詰所まで来てもらおうか」
二人の男は腰にぶら下げた剣の柄に手をやり、俺を睨み付けて迫ってくる。
これは相当まずいぞ。二人の男はすでに、俺を犯罪者でも見るような目で見ている。
どうする俺。どうしたらいい俺。そこでふと気付いた。
あれっ、俺って何故言葉が分かるのだろう。聞いた事もない言葉なのに意味が分かる。しかも、俺も知らない言葉を喋ってるし。
それにあの腕章に書かれた文字。どこかアラビアンを感じさせる文字。見知らぬ文字なのに、これも何故だか意味が理解できる。
どうなってんだよ。誰か説明してくれよ。
焦る俺に、二人の男が捕まえようと腕を伸ばしてくる。
あーもう駄目。きっと俺は連れていかれて、あんなことや、こんなことを。
その時、近くで騒ぎが起こった。
「泥棒! 誰かその男を捕まえてー!」
男が女の人を突き飛ばし、向こうに駆け出していくのが見えた。
「ちっ、ひったくりかよ。あの野郎、俺達の目の前で」
「おいお前! 後で事情を聞くからここでじっとしてろよ」
目の前にいる二人の男はそう言い残すと、ひったくりを追い掛けるため走り出した。
おっ、これはチャンス。じっと待ってるわけないだろう。連れていかれて説明した所で分かるとは思えない。俺自体が訳が分かってないからな。
取り敢えず、状況を確かめるためにも、ここは逃げるのが一番でしょ。
俺は近くの路地に駆け込んだ。
「あっ、待てコラァお前戻ってこい!」
だが、それに気付いた片方の男が、俺を追いかけてくる。
何でだよ。素直にひったくりを追いかけてろよ。俺なんか追いかけても仕様が無いだろう。
俺が飛び込んだ路地は人が両手を広げると両方の壁に手がつく狭さ。
そんな路地に前から洗濯物が入った籠を頭に載せ、おばさんが鼻唄混じりに歩いてくる。
「おねぇさん、ごめん。横を通り抜けるよ」
そう言うと、体を横にしておばさんの側を、するりと通り抜ける。
「ヒャ、おねぇさんってあたしの事かい。うれしいね」
おばさんは嬉しそうにしていたが、後ろから追い掛けてきた男とぶつかると、派手に転んで尻餅をついていた。
「痛たた、何すんだい。この男は」
怒ってるおばさんの横で、洗濯物まみれになった男が叫ぶ。
「貴様、許さん! 一般市民に手を出したな。これで傷害罪に逃亡罪が加わるぞ!」
それって、あんたが勝手にぶつかって転んだだけだろ。何で俺の罪になんだよ。
しかし、これでいよいよ捕まる訳にはいかなくなった。
俺は必死で逃げる。だが、自分が思ってるほども早く走れない。
それもそのはずだ。スポーツとかもほとんどやらず、俺はどちらかといえばインドア派。
高校時代も何かと理由をつけ体育の授業すらサボってた俺。まともに走るのは何年ぶりだろう。
すぐにゼイゼイと荒い呼吸に変わり、息も絶え絶えとなった俺は次の角を曲がると、目の前にある扉の中に思わず飛び込んだ。
建物の中に入ると、扉を閉めて外の様子を伺う。すると、扉の外から「待てー!」と声を響かせた男が、前を通り過ぎていく。その声もしばらくすると聞こえなくなった。
ふぅ、助かった。一時はどうなるかと思ったがこれでひと安心。一息つき額の汗を拭うとほっとする。
だが、その時背後に人の気配を感じた。どうやら外を意識していたため、中に人がいるのに気付かなかったようだ。
俺は背後を振り返りぎょっとする。
一難去ってまた一難。
そこには見るからにその筋の人と思われる強面の男が数人、腕を組み俺を睨んでいた。
うそーん。これって更に最悪の状況。どうするよ俺。
「おいニイちゃん、何か用なのか」
「だれだお前」
「ここがどこか分かってて入ってきたのか」
「他のファミリーのヒットマンじゃねえだろうな」
顔の中央に斜めに走る傷の男や、片耳の男など辺りに暴力の雰囲気を漂わせた男達が凄む。
俺は喉をゴクリと鳴らし、しどろもどろとなって答える。
「あ、あれです。俺は普通の……一般人です」
「あーん、一般人だと。いきなり俺達の事務所に飛び込んできて一般人もねえだろ」
男達が俺の周りを囲むように迫ってくる。
ひぇー、俺ってまた危機一髪だよ。どうするよ俺。
「あんたら待ちな。どうもそいつは一般人のようだよ。放してやりな」
「あっ、姐さん、こいつはどうも騒がしたようですいやせん」
強面の男達が緊張した面持ちで頭を下げる中、奥から女性が現れた。
今度は何だよ。
えっ、ウサギ耳? バニーガール?
奥から現れた女性には、頭から長いウサギの耳が生えている。赤いチョッキに網タイツを履いた姿は正にバニーガール。
ウサギ耳の極妻とかどうなのよ。
「おや、あんた、妙な物を持ってるね」
俺はまだ空き缶を握り締めたままだった。
長煙管を銜えた極妻ウサギ耳の姐さんは、プカリと煙りを吐き出し、空き缶に興味が示す。
「おいお前、さっさとそいつを差し出せ!」
顔の中央に傷のある男が、凄むように言ってくる。
「あっ、はいはい」
こんな空き缶、惜しくも何ともない。俺は直ぐに差し出す。
「ふーん、意外と軽い。こいつは見たこともない金属だねえ。……あんた錬金術師か何かなのかい」
錬金術? 何だよそれ。
「この野郎、姐さんの質問にさっさと答えやがれ」
「れ、錬金術とか分かりません。そいつは、自販機で買った缶ビールです。中身は飲んだ後ですけど」
俺は早口で一気に喋ると、皆が空き缶に注目してる隙に扉から外に飛び出した。
「その空き缶はもういらないので、あげますから勘弁してー!」
「あっ、待ちな!」
背後から極妻ウサギ耳の姐さんの声が飛んで来るが、もう後ろを見る事もなく脱兎の如く逃げ出した。
また必死で走る。
さっきは、警察官らしき男だったからまだしも、今度はもっと質のよくない連中だ。
今度こそ捕まったら何されるか分からない。下手したら何処かに売り飛ばされるかも。
だが、長い間の不摂生が祟ったのか、いくらも走らないのに膝はガクガクと笑いだし、もはや立っている事も出来なくなってきた。
前方に綺麗に短く刈られた芝生が広がる場所が見えてくる。
「もう駄目、限界」
そこに走り込むと、芝生の上に転がった。
激しい呼吸を繰り返しながら、後ろを振り返る。もう追い掛けてくる者はいないようだ。ほっとする。
芝生の上で大の字に転がったまま、辺りを見渡す。
ここは公園みたいだな。
近くでは、どこかの家族が楽しそうに遊んでいる。だが、奥さんらしき女性と子供はまともに見えるが、旦那と思われる男性には頭に短い角が二本生えている。
少し離れた所では甘い物でも売っているのか、ちょっとした出店には子供達が群がっていた。
しかし、その子供達には猫耳や犬耳などが生えている。
はぁ、やっぱりここは異世界なのか。
大の字になったまま空を見上げる。透き通るようなスカイブルーの空に、ゆったりと白い雲が流れていく。
そして、
「ぎゃはははは」
突然、俺は大声で笑いだした。何故って、空には太陽が二つ浮かんでいたからだ。
「ははは……やっぱり俺は異世界へきたんだな。はは
右も左も分からないこの世界で、どうやって生きていけばいいのやら。
しばらくは、ぼんやりと青空を眺めていた。
しかしこの世界はどうなってるのだろう。
ファンタジーな映画や漫画や小説などでよく聞くが、何となく元いた世界と似通っているのは平行世界とか、パラレルなんとかのせいなのかな。
そういえば、魔法使いみたいな格好した者がいたな……もしかして、この世界では魔法なんか使えたりして……。
もし魔法なんかが使えたら何とかなるかも。
俺はさっそく試してみることにした。
「ファイア、アイス、ライト、ダーク、ヒール、ハイヒール…………」
考えられるあらゆる言葉を発するが、魔法が発動する気配がない。
やっぱり魔法なんかあるわけないか、ははは。
ゲームなんかだと、ステータスで能力が見れたりするんだけどな。
「……ステータスか」
思わず呟いた言葉に反応するかのように、頭の中に文字が浮かび上がる。
これって……もしかして俺のステータスなのか。
ステータス
名前 :イズミ・ショウタ
年齢 :23
種族 :ヒューマン
職業 :ギャンブラー
level :10
HP :100
MP :1
筋力 :13
耐久力:9
素早さ:8
知力 :120
魔力 :1
精神力:7
器用さ:15
運 :5
スキル
ステータス閲覧
バァンゲイア共通言語
ダイス
おおっ、レベル10……低くないかこれ。
職業がギャンブラーってどうなのよ。確かに日本ではバクチで食ってこうとして失敗したけど、こうやって職業として書き出されると……駄目なやつ感が拭えない。
しかし魔力が1ってどうなのさ。魔法のない世界からきたからなのか。なんか納得できないぞ。
スキルは三つか。
ステータス閲覧というのは、今使ってるこれの事だろうな。それと、この共通言語とかのおかげで、言葉が分かるのだろう。
しかし、このダイスというのは分からないな。
試しに「ダイス」と唱えてみるが、何も起こらない。何か説明文でもでないかとついでに「ガイド、ヘルプ」と唱えても変化がない。
これはお手上げだな。
しかし、比べるものがないから分からないが、かなり能力値が低いと思う。
あっ、待てよ。ステータス閲覧ということは、もしかして他の人のも見れるのか。
よしそれなら……あの家族の旦那は角なんか生えて、見るからに俺より強そうだな。
あの出店のおっちゃんなら俺も勝てんじゃねえの。
「ステータス」
出店のおっちゃんに向かって唱えてみる。
ステータス
名前 :グズ・タフ
年齢 :45
種族 :ヒューマン
職業 :商人
level :9
HP :185
MP :23
筋力 :21
耐久力:58
素早さ:13
知力 :45
魔力 :14
精神力:26
器用さ:38
運 :15
スキル
算術 Lv 2
生活魔法 Lv 2
駄目じゃん俺。レベル9のおっちゃんの半分ぐらいしかないよ。
これってどうなのかな。俺はレベル10なのに……日本人がひ弱なだけ、それともこの世界の人が強靭なのか。
因みにあの家族の旦那さんを見てみると、種族は鬼人で職業半分大工さん。それで能力値は俺の3倍ぐらいある。
俺の能力値は、出店に群がる子供達と変わらなかった。
詰んだな。当然この世界の通貨を持ってるわけもなく。期待した魔法も使えない。なんといっても魔力1だからな。他人に勝てるのは知力のみ。これは一応大学を卒業してるからだろう。
後は訳のわからないダイスとかいうスキルだけ。
はぁ、異世界にきても俺詰んでるわ。
また、ごろりと横になると空を見上げる。
この先見知らぬ世界で、俺はどうなってしまうのだろう。
そんな事を考えながらぼんやり空を眺めていると、遠くから何かの騒ぎが聞こえてくる。
なんだろうとそちらを見ると……げっ、あれは。あの警官らしき男が、こちらを指差し走ってくるのが見える。
何故か人数が増えてるし。
同じ制服に身を包んだ十数人の男達が、こちらに向かって走ってくる。
ま、マジかよ。
しかもそれだけでなかった。
反対側を眺めると……げげっ、あれは。こちらからはあの強面の男達、数十人が何やら叫びながらこちらに走ってくる。
ま、マジですか。
今の俺にはもう走る体力も残っていないよ。
焦る俺に男達が迫ってくる。
どうする俺。絶体絶命だよ。
その時だった。
“ポン”とまるでポン菓子が弾けるような乾いた音をたて、目の前に人の半分ほどの丸い煙りが現れる。
それと同時に、周囲の景色がモノクロ写真が色褪せたようにセピア色に染まった。
そうして時が止まったかのごとく、全ての動きが止まる。
なに何、何が起こってる。近くにいた家族連れは鬼人の旦那さんが、子供を抱き上げたまま固まっている。
いや家族連れだけでなく出店の子供達や、辺りを飛んでいた蝶々まで、全てが固まっていた。
そして煙りの中からは……。
「よっ、相棒。元気だったか」
シルクハットを被り、タキシードに蝶ネクタイを身につけた……猫?
それは、俺の身長の半分ほどの大きさの二足歩行の猫。まるでヨーロッパの民話に出てくる猫だよ。
唖然としている俺にその猫が、手に持つステッキをくるくる回して話し掛けてくる。
「何だよ相棒、つれないな。返事ぐらいしろよ」
「相棒って。お、俺はお前なんか知らないぞ。誰だよお前……」
「あれっ、そうだっけ……おいらはダイスの精、ケットシーのペロ」
ダイスの精? もしかしてこれがスキルのダイスなのか。
「これがスキル、ダイスの力なのか」
俺は全ての時が止まった周りを見渡し、問いかける。
「今はノータイム中、ダイスとは直接の関係はないよ」
「えっ、でも周りが止まってるように見えるけど、今なら逃げるのも可能なのじゃないのか」
「ちっちちち、おいら達は今、時の狭間にいる。あまり無茶な動きをすると、時が世界を修復しようとして相棒の存在自体が消されるからな、気を付けろよ」
ケットシーのペロが、右手の指を左右に振っている。
なんだかこいつ、ムカつくぞ。
「じゃあ、ダイスってどんなスキルなんだよ」
「よくぞ聞いてくれた相棒。ダイスとは人生の岐路に立った時、自分の力で運命を切り開くスキル。こいつでな」
ポンという音と共にペロの手の平の上に、拳大のサイコロが現れた。
えっ、サイコロ?
これでどうしろと。
「さて、今回の相棒のサイコロの目は。運命の賽の目はこれだ」
ペロがそう言うと、目の前の空間に文字が浮かび上がる。
1の目 正に神の奇跡。全ては思いのままに。
6の目 全ては丸く治まり、あなたは英雄に。
5の目 勇者の登場。あなたをお助けします。
4の目 あなたに救いの手が。取り敢えず助かります。
3の目 あなたはフルボッコにされた上に強制労働へ。
2の目 ジ・エンド。これ以上は何も言うことはありません。
何ですかこれは。
それに最後の2の目……ジ・エンドってどういうこと。
「さぁさぁ、早くサイコロを振って」
「いやいやこれおかしいだろ。特に最後の2の目は……」
「大丈夫だって、相棒の職業はギャンブラーだから。それに早くしないと時の自浄作用で、相棒の存在が消されちゃうよ。因みに相棒には拒否権はありません」
消されちゃうよって……ギャンブラーだから大丈夫なのか、本当かよ。
うだうだやってても仕方ない。えーい、ままよ。
俺はサイコロを振った。
サイコロはコロコロと転がり……。
「おおっとこれは……微妙だ相棒。運命の賽の目は4だ!」
えーと4の目は何だっけ……あなたに救いの手が。取り敢えず助かりますか。
「まあ今回は微妙だったが、助かっただけでも良しとしようぜ相棒。それじゃあまたな」
「あっ待てよ。ちゃんと説明を……」
だが、出てきた時と同じくポンと乾いた音をたて、煙りと共にペロは消え去った。
それと同時に景色は元に戻り、世界はまた動き出した。
えーと何も変わってないけど。右からは警官達が、左からはゴロツキ達が……どこに救いの手があるんだよ。
今はもう、迫りくる男達の怒号まで聞こえてくる。
ど、どうしたらいいんだよ。あのケットシーのペロ、ちゃんと説明して行けよ。
あーどうしよう。
「おーいそこの人。こっちだ。こっちに来れば助かるぞ」
焦る俺に、前方から声が掛かる。
声のした方を向くと、少し離れた所にある樹木が生い茂る藪の中から、にゅっと腕が飛び出しおいでおいでをしている。
あっあれか。あれが救いの手なのか。信用して大丈夫なのか。
しかし左右からは男達がすぐ近くまで迫ってきていた。
今は考えてる暇はもうない。スキルのダイスを信じるだけだ。
疲れた足を引き摺るようにして、前方の藪の中に飛び込んだ。
藪の中に飛び込むと、目の前には耳の尖ったイケメンの男性が微笑んでいた。
イケメンは……いやいや、今はそんな事を考えてる場合じゃないな。
「さぁ、私に付いてくれば助かりますよ」
そう言うと、その男性が口の中でごにょごにょと、呪文のようなものを唱える。すると、目の前の樹木が左右に別れていく。
おおっ、これは魔法なのか。初めて見る魔法に俺は感動する。
そして俺は導かれるまま、樹木が左右に別れた道を進んで行った。
しばらくすると、前方に古ぼけた建物が現れる。
「あそこまで行けば大丈夫ですよ」
俺は促されるまま、その建物の中に駆け込んだ。
こうして俺は逃げきる事が出来たが、前途多難な異世界生活も始まった。