濡羽色の雨、鳴らし
雨が降ったとき、子供は雨音をざあざあと表現する。今はどんな雨音をしているのやら。いつから雨音だけが聴こえなくなった自分には判断がつかない。
静寂広がる雨曜日に、ざあざあと口ずさんでも、やっぱり静かだった。
窓の向こうで淡紅色の花びらを雨粒が穿って、地表に縫いつけた。
この時期に雨が降るのは嫌いだと言ったら、黄砂が飛ばなくて良いと言われて困ったことを思い出す。反論に桜が散って流れていくのが嫌いだと言ったら、困った顔をされたのを思い出した。
引っ越したあの子は雨が好きで、僕は雨が嫌いだった。
「雨の音って嫌い?」
「いきなりなんですか?」
落ち着き澄んだアルトの声で、現実に引き戻された。
「さっき、ざーざーとか言ってたから」
文芸部とは名ばかりの高校生帰宅部の専用部。部室が与えられているのはサボるには幸運で、サボり魔の先輩が居るのは不運だった。ついつい妄想が独り言になってしまったのが恥ずかしい。
「それだけで良く雨音とか判別付きますね」
「優秀だから」
返事に困って曖昧に笑う。先輩は古いパイプ椅子の背もたれに背を預け、椅子をきしませる。曖昧に笑うと、この先輩はいつもパイプ椅子をきしませた。濡羽色の瞳がこちらに問いかける。
「それで、答えはどうなの?」
「雨音が嫌いと好きとか何にも思わないです。どうせ、静かなんで」
「どういう意味?」
「なんか知らないんですけど、聞こえないんです、雨音」
曖昧に笑っても、先輩はパイプ椅子をきしませてくれなかった。長い髪で隠れた片耳を指ですくって顕にする。
「鳴ってるよ?」
「聞こえません」
「雨降ったら困るね」
「困りますか?」
「困らない?」
「困りませんね。聞こえてて、いいことあるんですか?」
濡羽色の瞳が、上に向けられた。形の良い顎にすっきりとして白い肌の首筋に黒髪が映えた。真剣に悩んでいるようで、中々視線も声も戻ってこない。
「雨のオーケストラが聞こえない」
降ってきた瞳と声に、苦笑する。
「そんな大層なもんですか?」
「雨が好きだったら、雨音も好きなもんだよ。ゲーコゲコ」
カエルの鳴きまねのあまりの可愛らしさに、ドキッとした。なんでもないように声が震えないよう声を発する。
「それカエルなんで」
「切ないねぇ」
何がですか、と聞いてもまた訳の分からない返答が待ってるだろうと思って閉口した。指揮棒を振るみたいに、細い指が目の前で宙を舞う。
「曲名をどうぞ」
「第九」
題名パクリなんで、それ。窓の外へ目を移す。桜が雨に射たれては、舞うこともなく地面へ落ちていく。
「風景を見てて楽しい?」
「桜だけは、見てたら楽しいですね」
「桜吹雪は綺麗だね。好きだよ、私も。雨には劣るけど」
「僕は桜のほうが好きなんで、雨は止んで欲しいですね」
まだ後ろで指揮棒を振ってるのか知らないが、パイプ椅子がキィキィと歌っている。
「桜が雨で散るのがそんなに嫌いかー。昔から変わらないね」
「……なんで昔からって知ってるんですか」
「今更何を、雨啼君」
振り向けば笑みを深めた先輩に釘付けになった。
「僕は先輩に名前を教えた覚えもないし、先輩の名前も知りませんが」
「今まで君とか先輩とか僕と私で通してたからね。日本語は便利だ」
「そういう事じゃなくて」
「雨啼君が私の発言の邪魔をする」
ちょっとだけ落ち込んだ風に瞳を伏せて、肩を下げる姿に慌てた。黒髪が肩から、雨がこぼれ落ちるようにゆっくり流れる扇情的な絵を描いた。
「あ、すみません……」
「申し訳ないと思うなら、私の名前も思い出してくれると嬉しいな」
先輩の濡羽色の瞳に気圧されて記憶を掘り返す。溢れ出そうな涙が気を急かす。
「……」
でも、記憶は掘り返せず唇は動かない。かすれた声がうめき声となって散った。
中々な答えられない僕に焦れたのか、立ち上がった先輩が顔を近づけた。じっと目を覗き込まれる。沈んでいきそうな黒からこぼれた雫が頬に触れる。
懐かしい雨の音が、僕に歌った。
「……あ、雨の音」
サァァァァと淡く細やかに響き、耳奥へ広がっていくオーケストラに、記憶が揺り動かされる。記憶違いをしていたのを恥ずかしく思った。雨が嫌いだって言った僕への反論は、「雨音のオーケストラが大好きだから」だった。
彼女の引っ越しに、お互い泣いて雨の中別れた。雨と涙が地面に混ざって、そこから、僕の雨は音を無くした。今とは違う幼い顔立ちに不似合いな、鋭くも深い濡羽色の瞳を持った彼女の面影。何度も別れ際に叫んだ名前が、今、オーケストラに震わせた。
「――さん」
ゆっくりと深められた笑みに吸い込まれそうな濡羽色の瞳が嬉しそうに輝いた。もう一度彼女の名前を呼ぶ。僕の雨音が戻ってきた証を確かめるように。