怪盗に恋をした
私は、アカデミー賞候補に選ばれた映画の主役を演じる御沢龍哉を取材するため、一流ホテルの一室にて待機していた。彼は29歳という若さながら、どんな演技もこなし、視聴率No.1俳優と言われている。
今までは恋沙汰と噂されている芸能人の張り込み、二流ライターの取材などを行っていた私にとって、初めて任された大仕事だった。絶対に失敗するわけにはいかないと、手に汗を握りながら、彼が来るのを待っていた。
扉が開かれ、マネージャーと共に入って来た御沢に挨拶をし、彼が席に着くと私も座った。
彼が入ってくると同時に、空気が引き締まる。背の高いモデル体型の彼は、大きな瞳を私に向ける。まだあどけなさを残した美しい顔に、思わず見つめ入る私は、すぐさまノートを開いた。
あらかじめ決まっていた質問を問い、当社専属のカメラマンが写真を撮りながら、淡々と答えていく御沢。丁寧な応対に、しっかりしていると感じながら、私は質問を続ける。
「理想の女性はどんな方でしょうか」
「お前の理想は何なの?」
身を乗り出し、覗き込むように尋ねる御沢の急変した態度に、驚いた私の口が開いて動かない。
彼は誰にでも優しいことで有名だった。スタッフにも気遣いを忘れず、皆から愛される容姿と性格を持った天使のような人だという噂も幾度となく耳にしたことがある。
「み、御沢さん!」
「答えろよ」
マネージャーが慌てて止めに入ろうとするも、それを無視して再度問い詰められる。
「わ、私は、紳士で優しい方が理想です」
「ふーん。そうなんだ」
ぴくりと眉根が動いた後、すぐに怪しい笑みを浮かべる。それはまるで、悪魔のような笑顔。
「俺は、お前みたいな女、かな」
本音とはとても受け取れないようなからかった口調で答える御沢に、私は引きつった笑顔を必死に浮かべて答える。今日の仕事は絶対に失敗できないのだから、ここで相手の言動にいちいち反応もできない。大人びた対応をしようと意識し、この言葉が出た。
「お世辞でも嬉しいです、ありがとうございます」
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午後六時、ホテルを出て直帰することになった。カメラマンと別れた私は、電車に乗るために駅に向かう。
先ほどの出来事を思い出し、もう二度と彼と仕事をしたくないと思っていた。お世辞でも喜ぶなんて馬鹿な女だ、と言われたことに腹が立ち、仕事じゃなければ彼に反論しているところだった。
マネージャーには必死に謝罪された。なんせ、彼が仕事で本性を出したのは今日が初めてだという。だから、変な噂を広めないでほしいと懇願された。
記者としては、大きな特ダネになるが、これからは彼が所属する大手プロダクションが我が社に積極的に協力するという話になったので、上司の了解を得て、仕方なく頷いた。
そのとき、携帯電話の着信音が鳴る。魔王の曲が流れるということは、相手は部長だ。
「はい、桐谷です」
「怪盗アギトが宵月近代美術館現れたらしい、桐谷が一番近いから、今すぐ向かってくれ」
御沢の次に有名な記事のネタは、3日前から世間を賑わせている怪盗アギトだ。様々な美術館から絵画や骨董品を盗んでいるらしい。一般の怪盗が出て来るアニメやドラマなどで見る、予告状を送る行為はしないため、いつどこで起こるかはわからない。ただ、美術品が存在した場所に一枚のカードを置くという。それが、怪盗アギトが盗んだことを示す唯一の手掛かりであり、偽造される可能性もあるため一般には公開していない。
私は駆け足で宵月近代美術館に向かい、着いたときには、美術館外周を警察官が囲んでいた。怪盗アギトの件は、他の人が担当になっていたため、実際に会うのは初めてだった。会えたらの話だけれど。
鞄の中に入れていたデジタルカメラを取り出し、現状を撮って収める。そして、塀の中にある美術館を撮るべく、人込みを掻き分けて最前列を確保し、再び撮ろうとしたそのとき、一人の警察官が近づいてきた。
「君、危険だから、こっちに来なさい」
「ちょ、そ、そんな!」
他にも入ろうと試みる人がいる中で、どうして私だけが連れていかれるのか。疑問に思いながらも、腕を掴まれたので反抗するわけにもいかず、人込みから離れ、美術館隣に生い茂る森の中へと連行される。
遠くにパトカーの赤い光が見えるが、それ以外は暗く、闇に潜む木々を縫うように奥へと進む。
「どこに連れて行くんですか、離してください!」
さすがに恐怖心を抑えられず、腕を振ろうとしたそのとき、目の前に二人の男が現れた。どちらもサングラスを掛け、筋肉ばった体をしており、黒スーツを着用している。いかにも、裏世界の人間を臭わせる。
「こいつだろう、探してた桐谷という奴は」
「あぁ、間違いない。さぁ、渡せ」
状況が読めず、頭が混乱する。もしや、先ほどの取材で機嫌を損ねた御沢が、この二人を寄こしたのだろうか。私が気に入らないという理由だけで、何をしようと言うのか。
「誰か、助けてください!」
「女、黙れ!」
一人の男が私を殴ろうと手を上げたとき、隣にいた男が、突然意識が切れたように倒れた。そして、小さな衝撃音と共に警察官、腕を掴んだ黒服の男も倒れる。次は私の番だと身構えると、優しい声音が鼓膜を揺らした。
「怪我はないかな?」
その言葉に酷く安心し、防御態勢を崩した。声のする後方へ振り返れば、月光に照らされた、怪盗アギトの姿があった。紺色のハット、両目と口半分を斜めに覆い隠す、青く鋭く長い、妖怪みたいな両目のペイントが施された白い仮面を付け、紺色のマントに全身を包み、少しだけ見える上げた口角が、隠された内で笑みを浮かべているように思えた。
「だい、じょうぶです」
「夜道は危ない。気を付けるんだよ」
その言葉を最後に、私に背を向けたアギトは、颯爽と闇に紛れるように消えて行った。
どうして、助けてくれたのだろうか。警察も居る中、わざわざ危険な状況に飛び入るなんて。彼にとっては、私を救っても何のメリットもない。危険を冒してまで助けてくれた彼に感謝すると同時に、鼓動が強く脈打つのを感じる。体中が熱くなり、脳裏を何度も過るのは、アギトの笑み。
今宵、私は恋に落ちたらしい。決して、叶わない恋に。
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昨夜のことを話したら、部長に怒られたのは言うまでもない。怪盗アギトに会ったにも関わらず、写真を撮るという記者としての役目を果たせなかったのだ。だが、一本の電話により、説教は中断された。
「今日の取材、御沢龍哉が桐谷を指名しているらしい。行って来い」
「は、はい!」
沈んでいく気持ちを上げる為、音楽を聴きながら道中を歩く。まさか昨日の事について、何か言われるのではないだろうか。警察官を気絶させたことを私のせいにして、露見するのだろうか。そんなことをされたら、私の人生は終わってしまう。
「遅いぞ、菜子」
「えっ……あ、すみませんでした!」
スタジオの一室に入った途端、椅子に腰を掛けた御沢から突然名前呼びされたことに驚きながら、私はすぐさま準備に取り掛かった。だが、そのとき気付いた。
「マネージャーさんや、当社のカメラマンは……」
「あぁ、追い払った。邪魔だし」
既にやることはやったらしいので、問題ないという彼に、私は疑問に思いながらも笑みを浮かべた。もう、機嫌を損ねたくはない。あんな怖い思いはもう、したくない。部屋に二人しかいないという状況が、余計緊張させる。早くやって早く終わらせてしまおう。
今回は、新しいドラマの主役を演じる御沢について、様々な質問をぶつけていく。
「今回の役は、庶民を助ける正義の怪盗ですが、役作りするにあたってどのようなことを行ったのでしょうか」
「菜子はさ、彼氏いるの?」
「あの、質問……」
前回より親しげな御沢に、私は眉を顰めそうになるのを堪える。一体、どういう風の吹き回しだろうか。しかも、私を指名するなんて。
「どうなの?」
「い、いません。御沢さんはどうなんですか」
「その呼び方、嫌いだから。龍哉って呼べよ」
またもや質問をスルーされてしまう。これでは、取材に来た意味が無く、また部長に叱られてしまう。
だが、彼が天使でないことはよくわかった。御沢龍哉は俺様で強引な人だ。こんな人が、視聴率No.1俳優だなんて、今では考えられない。
「り、龍哉さん。お願いです、質問に答えて頂かないと私……」
「役作りしていない。お前だけに教えるが、恋人はいない」
安心しろよ、と言わんばかりに見つめ微笑む御沢に、苦笑しそうになる。ノートに書き写すも、雑誌に載せていいのだろうか。私だけに教えると言われたら、公表するのを躊躇ってしまうし、昨日のこともある。そうだ、昨日のことを聞かなければ、来た意味がない。
口を開いたそのとき、扉がノックされ、マネージャーが入って来る。
「時間です、桐谷さん」
「わ、わかりました。それでは、私は失礼し」
「待てよ。これやるから」
御沢が着ているジャケットの胸ポケットから、白い紙を取り出す。私の手に無理やり握らせ、満足した様に口角を上げ、その場を去って行った。
恐る恐る四つ折りの紙を開けば、そこには電話番号とメールアドレスが綺麗な字で書かれていた。一体、どういうつもりなのだろうか。ますます、彼の意向がわからなくなってくる。
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今日は、水守美術館に怪盗アギトが現れたらしい。私はほんの少しの期待を胸に、カメラを手に取り張り込んでいた。相変わらず、美術館内外は警察で溢れ返っている。
今回は、水守美術館で展示されている中でも価値が低い作品が盗まれたという情報が入ってきている。記者として、怪盗アギトがそこまで価値のない美術品を盗む理由を推測する。
彼は、何者かに依頼されて動いているのだろうか。それとも、三作品に共通点はあるのだろうか。ノートパソコンを開き、インターネットで検索をかける。
すると、一つのネット記事を見つけた。
(裏で暗躍している、有名な島崎家の当主、島崎亮二の所有作品か)
島崎家という名は一度だけ、耳にしたことがある。彼らは芸能界、スポーツ界などあらゆる業界を水面下で仕切っているとも噂されている。やはり、島崎家に恨みを持つ者が、怪盗アギトに依頼している線が強い。
一度あんなことがあったので、警察たちから離れたところで様子を窺う私は、今度は見逃すまいとカメラを構えながら美術館を視界に捉えていた。
後ろから近づく気配に気づいた時には既に遅く、睡眠薬が染みたハンカチで鼻と口を覆われ、嗅がされてしまう。
目を開けば、アギトの顔があった。どうやら、私は抱えられているらしい。出会って間もないのに、こんな夢を見てしまうなんて、どれ程彼への想いが強いのだろうか。身動きできず、目覚めた私に気付いたアギトが、あの時の様に口角を上げた。
「俺が、君を守るよ」
どうして彼は、私が求める言葉を言ってくれるのだろうか。アギトの一言で、こんなにも心がときめいてしまう。まるで、全身が心臓になったみたいだ。
できるなら、ずっとこの夢の中で生きていきたい。けれど、瞼が鉛の様に重くなり、視界が閉ざされていく。
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次の日、携帯電話の着信音で目が覚める。アラームだと思い止めようとしたとき、見知らぬ電話番号から電話がかかってくる。誰だろうと思いながら、手に取り電話に出る。
「はい、桐谷です」
「俺だよ、菜子」
この声は、まさか、御沢龍哉だろうか。確か、自ら連絡先は教えていないはず。どうして、知っているのだろうか。いや、彼に理由を問う事が間違っている。昨日も男を雇って、私を襲わせたくらいなんだから。
そういえば、あの後から記憶がない。
「今日は休みだろ? 今から迎えに行くから、一緒に遊ぼうぜ」
彼の気持ちがわからない。二度も男に襲わせておいて、まるで何もなかったように平然とした態度で接してくる。しかも、強引に。
「無理です、今日も怪盗アギトが現れたら行かなければならないので」
「はぁ、怪盗なんちゃらは、今日は現れねぇよ」
「何でわかるんですか?」
すると、再度溜息が聞こえ、呆れたような声に変わる。
「勘だよ。気分変わったわ、じゃーな」
返事する間もなく、通話を切られる。だが、二日二晩現れているのだから、今日も現れるだろうと予測していた。
そんな私の予想は、見事裏切られる。
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一昨日の夜から昨日の朝にかけての行動過程が頭から抜けてしまった私は、午前中の仕事を終え、行きつけの店に行く。コーヒーを飲めば、頭がすっきりして、何か思い出すかもしれない。いつもなら後輩の石山瑞穂が一緒だが、彼女は今日有給休暇をとっているため、一人で歩いていた。
御沢に何て言えばいいか迷っていた。もう男を差し向けないでくださいと言って、わかってもらえるだろうか。警察に行くことも考えるが、ダメだ。四日前のように既に御沢の傘下に入っている警察官も居るのだ。誰にも相談できない。
オフィス街の通りは、スーツを纏っている男女が多い。人込みを縫うように歩いているとき、後ろから肩を優しく叩かれる。振り返った瞬間、私の肩は掴まれ、筋肉が隆々とした肉体の黒服を纏った男がにやりと笑った。
そして、スマートフォンの画面を見せつけられる。
『石山瑞穂の命は、お前にかかっている。助けたいならついて来い』
まさか、後輩を巻き込むなんて。御沢はどれだけ酷い男なのかと思いながらも、反抗するわけにはいかない。拳を固く握りしめながら、私は頷き、男に腕を差し出して共に行く意思を示した。
人通りが少ない裏路地で、黒く大きな車が駐車されていた。あの中に、瑞穂はいるのだろうか。
「お願い、瑞穂は解放して」
「お前の言う事は聞けない」
「彼女は関係ないでしょ、お願いだから、瑞穂だけは……」
そのとき、男が後方を振り返った。すると、深く帽子を被り、サングラスを掛けた高身長の細身の男が、此方に全速力で駆けて来る。
「俺の菜子に手を出すんじゃねぇ!」
「えっ」
状況が理解できなかった。私を名前呼びする男性は、父親か彼しかいない。変装した彼は間違いなく、御沢龍哉だ。どうして黒幕の彼が、此処に現れるのか。もしや、これは自作自演なのだろうか。
だが、殴りかかる男の拳を鮮やかに避け、素早い肘突きを溝落ちに、そして股間に思い切り蹴りを入れる。倒れ気絶しかかる男をすかさずうつ伏せにさせ、ポケットに忍ばせていた白いロープを取り出し、両手の自由を奪う。
「今日は、ドラマの撮影じゃ……」
「スケジュールを変更させたんだよ。ったく、危なかったな」
彼を前に、演技だなんて聞けなかった。真剣な眼差しを向け、頭を撫でられてしまえば、言葉など出ない。けれど、彼は大物俳優であり、演技を演技らしく見せないことなど容易なことなのだ。騙されるわけにはいかない。
「あのっ、瑞穂を返してください!」
「……ん? 何言ってんだよ」
勇気を振り絞って言った一言に、眉間の皺を寄せる御沢。
「だって、今まで襲って来た人たちはすべて龍哉さんが」
言葉が止まる。御沢の表情が変わり、寂しげな視線を地面に落とし、歯を食いしばり、つらさを我慢しているように見えたからだ。
「……俺は、そんな風に見えてたのか」
私からそっと離れ、背を向ける御沢は、無言で去って行った。その後ろ姿を見て、声をかけることなどできなかった。
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後輩に電話を掛ければ、彼氏と旅行中だと明るく元気な声が返って来た。安心した私は、早退させてもらい家に帰った。
そして、心に残る疑問を解消するために考える。
去り際のあんな顔を見せられては、彼は関わっていないと思わざるを得ない。だが、身の危険を冒してまで私を助ける理由など御沢にはないはず。
いや、一連の行動を思い起こせば、私のことを想っているのではないかという考えに至る。連絡先を渡し、デートに誘われ、窮地に駆けつけ助けてくれる。これは、自惚れではないと信じたい。御沢に想われているということが、事実であってほしいという気持ちに、初めて気づく。
そう、私は知らぬ間に、御沢に惹かれていた。紳士で優しい怪盗アギト、俺様で強引な俳優の御沢龍哉。私には、どちらも星のように手の届かない存在である。それなのに、胸の高鳴りは止まない。
バッグから携帯電話を取り出し、御沢から留守電メッセージが入っていることを知る。あんな別れ方をしてしまった後に、どんな言葉を残したのか、不安になる。けれど、いつまでも迷っているわけにはいかない。決心し、聞いてみる。
「今夜は、絶対に来るな」
一言だった。御沢が示すのは、怪盗アギトの取材に行くなという事だろう。今日は、現れるのだろうか。
一度言い当てた彼を信じ、何処に現れるのかを推測する。アギトは、島崎亮二が所有する作品を盗んできた。残っている作品は、あと一つ。そして、場所は分かっている。
だが、どうして彼は予言できるのか。しかも、絶対という言葉を使っている。誰にも怪盗アギトの居場所などわからないはずなのに。そこで生まれる一つの可能性が、一つの事実を示唆する。
そして、宵月近代美術館事件以来から事あるごとに私が狙われる理由が知りたい。真の黒幕が誰なのかも、突き止めたい。
私は、取材用の鞄とカメラを持って、家を飛び出した。
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島崎亮二の本家がある、100階建ての高層ビルの最上階、ペントハウスに忍び込むため、50階まではエレベーターで昇る。そこから上の階はカードキーがないと行けないため、非常用階段からひたすら昇っていく。
そうして最上階に着いた時、足が鉛のように重く、体力も限界が来ていた。扉を隔てた先がどの部屋に繋がっているのかはわからないが、しばらくは此処で怪盗アギトが現れるタイミングを待つしかない。
休憩も兼ねて、その場に座り込んだ。そして、歩いて来た階段の5段下に立っていた、二人の黒服を着た男たちと目が合う。
気配にすら気づかなかった私はその場で固まりながら、扉の向こうから聞こえるしゃがれた声に振り向く。
「わざわざお嬢さんから来てくれるとはね」
しゃがれた声と共に、現れたのは、裏世界の首領の肩書を持つ、島崎亮二だった。和装をした大柄な体型、鋭い目つき、今までに感じたことのない威圧感に口も開けず、前回と同じ手口で意識を失う。
瞼の裏にまで光が届くくらい明るい部屋で、誰かに肩を揺らされる。けれど、起きればきっと殺されてしまうという恐怖感に、眠っているフリをしていた。
だが、柔らかな優しい声音が鼓膜を揺らす。
「静かにしていてね」
反射的に顔を上げれば、怪盗アギトと目が合う。その後方で、扉の前に立っていた男は倒れていた。
状況を理解した私は、頷いた。そして、瞬く間に両手、両足首を縛っていた縄を解かれる。
「君が歩いて来た道、わかるね? そこから逃げて」
「あ、あなたは」
「さぁ、早く」
隣の部屋の扉を開けたアギトに誘われるように、その方へと足を踏み入れる。
すると、すぐさま扉を閉められた。同時に、扉の向こうで、別の誰かが重々しい扉を開けて入って来る音がした。
「やはり来たか、怪盗アギト」
「残念だったね、貴方の作品は盗んだよ」
島崎の独特の声が聞こえる。嫌な予感がした私は、音をたてないように鍵穴を覗いた。向こうの部屋では、島崎に銃を向けられたアギトがいた。彼の言葉に対し、島崎は大声で笑う。
「残念なのはあんたの方だ。桐谷の娘を幼い頃から守っていたというのに、気付かれもせず死ぬとはな」
島崎の言葉に、耳を疑う。今の自分が置かれている状況が、理解できなかった。桐谷の娘、それはおそらく私のことだろう。そんな私を、アギトが島崎家から守っていてくれた。しかも、幼い頃から。それならば、少なからずともアギトとは面識があるはずだ。けれど、私は彼を知らない。それに、島崎家に狙われるような理由もわからない。両親は、事故死して既に他界しているし、親族とは頻繁に連絡をとっている。もし何か抱えているならば、相談されるだろう。
徐々に距離を詰める島崎に対し、後ずさりするアギト。
「俺の使命は、命を懸けて彼女を守ることだからね。それを全うできるのなら、構わないさ」
淡々と言ってのけるアギトの後ろ足が、壁代わりの大きなガラス窓の枠につく。
「この俺に刃向うあんたは、称賛に値する。作品を盗み、娘に手を出すなと警告を出したつもりだろうが、そんなこと警告にもならん」
「それなら、どうしたら彼女に手を出さないでくれるかな」
「今の状況を分かってないみたいだな。娘はいつでも捕えられる、お前さえいなければな。地獄送りにした後、その正体を見せてもらおうか」
とにかく、どうにかして、アギトを助けたい。どうすればいいかと部屋を見渡せば、倒れた男の側に銃が落ちていた。考えるより早く、私は銃を取り、ドラマで見たように安全装置を外し、構えながら扉を開けた。
銃口を島崎に向け、思い切り睨んだ。
「銃を下ろして!」
突然現れた私の姿に島崎が驚いた瞬間、アギトが一気に間合いを詰め、銃を奪い、拳を腹に一発入れ、地面に伏せさせた。すかさず手刀を襟首に落とし、気絶させる。
「それ、君には似合わないよ」
銃を捨てた私は、アギトに近寄ろうとしたが、頭を左右に振られて拒まれる。
「君はこっちに来るべきじゃない。それに、どうして逃げなかったのかな」
「貴方を置いて逃げるなんて、できないです」
アギトは、私を縛っていた縄で島崎の両手、両足を縛りながら話す。
「君は、心優しい人なんだね。けれど、それが命取りになることもあるんだよ」
「それでも、貴方は私を助けてくれたんですよね。小さい頃から、ずっと」
そのとき、遠くの方で警報が鳴り響いた。おそらく、階下に警官が到着したのだろう。
「仕方ない、一緒に来てもらおうかな」
胸ポケットから取り出した数枚の紙をテーブルに置き、アギトは軽快な動きで私を抱きかかえる。
「わ、私、走れますから」
「お静かに、お姫様」
ふんわりと鼻をくすぐる爽やかな香りに、焦る心が落ち着くはずだったが、お姫様と言われて恥ずかしながらも頬を真っ赤に染める私の心臓は、煩く止まない。
「夜のフライトにようこそ。しっかり、俺に掴まっていてね」
屋上に辿り着けば、躊躇いなく駆け、ビルの角を思い切り蹴る。空に放り出されたような感覚に、私はアギトの首に手を回し、ぎゅっと目を瞑った。心臓が口から飛び出てしまいそうになり、口をギュッと紡ぐ。怖いという思いもありながら、アギトと密着し温もりを感じる為、心の隅で安心している自分に気付く。少しだけ目を開ければ、口角を上げたアギトがいた。まるで、この状況を楽しんでいるようだ。
「もしかして、飛んでる?」
「そうだよ。俺、怪盗だからね」
どんな仕組みで飛んでいるのかはわからない。それを確認できるほどの勇気もない。100階という高さから落ちれば、普通なら死んでいるだろう。
風が髪を撫で、少しばかり慣れてきた頃、夜空を舞う蝶のように飛ぶアギトの顔を見つめる。
「俺は、君の両親に頼まれたんだよ。守ってくれってね」
「父さんと母さんが?」
二人は既に亡くなっている。原因は事故死だったけれど、今思えば、それは偶然を装われた島崎による事件なのかもしれない。あらゆるところに繋がりのある彼らなら、偽装も容易いだろう。
だが、どうして狙われたのだろうか。絡まる糸を解くように、アギトは続けた。
「君のお父さんは、立派な警察官だったよ。不正を見逃すなんて言語道断で、それを摘発する最中、殺されてしまったんだ。島崎家の存在に気づいていた君の両親は、事が起きる前に、君を渡してきた」
「……そうだったんだ」
初めて知った真実に、開いた口が塞がらない。今さらながら、島崎を撃ち殺せば良かったという後悔が生まれる。
「大丈夫、君の仇はとったよ」
アギトが島崎家所有の作品を盗んでいたのは、単に彼らに対する警告だけではなかった。世間に注目してもらうことで、マスコミの目を島崎家に向けつつ、調べさせることが目的だったという。そして、アギトが今まで調査していた島崎の数々の不正情報を資料にし、島崎本家に置いておくことで、警察も見逃せない状況を作った。
「島崎は用心深く容赦ない男でね、二人の娘である君を探し殺そうとした」
「でも、最近まで何事もなく過ごしてきました。それも、貴方が守っていてくれたからなんだね」
「けれど、無理だった。あらゆる妨害工作を尽くしたけど、一週間前、君の顔写真が島崎の手に渡ってしまった」
俺のせいだと言わんばかりに、声音が低くなる。私は頭を左右に振り、笑みを浮かべた。
「本当に、ありがとうございます」
気付けば、私たちは地面に降りていた。しかも、そこは私の家の前。
「おやすみ」
私を下ろしたアギトは、すぐに背を向け去ろうとする。あと一つ、彼に聞きたいことがある。それを問わなければ、心にかかる靄は晴れない。
「龍哉さん、だよね」
冷ややかな空気が漂う静かな夜では、控えめに出した言葉でも響く。
そして、アギトが立ち止まった。確信した私は、すぐに駆けつけて抱きしめる。
「気づけなくて、ごめんね。ずっと、知らなかったの。狙われてたことも、守ってくれていたことも」
20年もの間、私の知らないところで、あらゆる手段を用いて、ずっと守ってくれた。彼がどんな思いで過ごして来たのか想像するだけでも、痛いほど胸が締め付けられる。抱きしめる力も、強くなる。
「ありがとう、大好き」
感情が高まり、涙が流れる。アギトは、自ら仮面を外した。
「……気付かなくて、よかったのに」
ゆっくりと振り返る龍哉は、涙が流れそうな瞳を私に向ける。
「俺のせいで、菜子を危険な目に合わした。だから、俺はお前の隣にいる資格なんてない」
「龍哉さんがいなかったら、私、死んでたよ。だから、心から感謝してるんだよ」
離れていきそうな、儚さを感じさせる御沢を引き留める為、ぐっと顔を押し付け、絶対に離さないと、きつく囲い包み込む。
「お願い、行かないで!」
すると、彼の腕が私の抱擁を抜ける。嫌な予感がした私は、顔を上げる。すると、体ごと振り返った御沢が、私の背に手を回した。今までに見たことのない、柔らかな優しい笑みがそこにあった。
「ずっと、このときを望んでいた。お前と、こうなること」
ぐっと、彼にされるがまま、引き寄せられる。
「いけないとわかっていたのに、抑えられなかった。ずっと、菜子しか見ていなかった。仕事だって、お前の視界に映りたいって想いだけで、ずっとやっていたんだ」
「そ、そうなの?」
俳優という仕事の裏に、そんな事情があったとは思わなかった。今や、彼をテレビで見ない日はないというくらい、嫌でも目に映るほど放送されている。
「菜子、愛してる。昔から、ずっと」
「龍哉さん……!」
甘い言葉に心が溶けそうになりながら、夢に浸っているような気分で、迫りつつある端麗な顔を見つめる。
雲一つない夜空に浮かぶ満月を背に、二人は唇を重ねた。