少女と幽霊病院
年が明けて間もなくのこと、茜が目を覚ましそうな兆しがあると病院から連絡が入った。
もっとも、それ以前に蒼にはもうすぐ彼女が目を覚ますということがわかっているみたいだった。
離れていても魂を分けた二人はどこかで繋がっているのだ。
私達が白澤医院を訪れれば、それまでほとんど身じろぎもしなかったその少女の様子が今までと違っていた。
時折指先がぴくりと動いて、今にも目を開けそうな、夢から覚めようともがいているような、そんな表情だ。
「茜さん」
そっと呼び掛けてみる。
「……ん…」
小さく反応があった。
「茜。聞こえている?」
片割れである蒼の声に応えるように長いまつげが揺れる。
でもまた眠りが深くなる。
何度かそんな状況を繰り返して、ついにまぶたがゆっくりと持ち上げられ金の瞳が現れた。
眩しげに瞬く。
「ここ……は?」
凛とした鈴の音のような声に以前のような邪気はない。
ふた月近くも眠っていた茜はまだぼんやりとしているようで、不思議そうに私達を見やった。
それから天井に視線を戻す。
「私は、生きているんだな」
陰った表情を見ればそれが喜びの感情から出た言葉では無いことは明白だ。
でも、私は生きていてくれて良かったと思っている。
もちろんそう思っているのは私だけじゃないはず。
だからそんな風に悲しい顔を欲しくないのだけど。
「蒼に命を分け与えられて助かったんだ」
叶斗が言った。
生きて欲しかったのだと伝わって欲しい。
「余計なことをする……」
言葉は否定だったが、泣き出しそうに見えるのはきっと蒼の思いがわかっているから。
「いつか変わるよ。僕がそうだったように」
蒼は穏やかに笑う。
遠い昔、嵩波に生きる意味をもらった。
未来をもらった。
そしてきっと蒼が与えた未来もたくさんある。
茜にも未来はあるはずだから。
どうして生き残ってしまったのかという思いもいつかは変わる。
生きていて良かったと。
「生きたいと願っても生きられない命もある。生きているということはそれだけで奇跡に近いんだ」
父親も母親も失ってしまったからこその叶斗の言葉だ。
「それでももし、生きることに理由がいるというなら、僕がそれを与えてやる」
「私にこの先を考えることが許されるのか?私は多くの者の未来を奪ったのに」
「だったら尚更どうするか考えなければならないんじゃないか?生きていれば、絶望するにしても、希望を探すにしても、同じ速さで時は過ぎていくんだからな」
「……ならば、私にどんな生きる意味を与えてくれるというんだ?」
「僕の式神になれ」
意外な言葉だった。
でも、実はちっとも意外じゃないのかもしれない。
叶斗には共に戦う者が必要で、茜には進むべき道標が必要だった。
かつての榊河の祖と蒼とがそうであったように。
けれど茜は叶斗のその言葉をまだ飲み込みかねているようだ。
「無理にとは言わない。次に会うまでに、考えておいてくれ」
先のことを考えるには彼女には少し時間が必要だろう。
それから、数日後。
再び茜に会うために病院を訪れて、おかしな話を聞いた。
「どうしてこの病院に幽霊が出るんだ」
「そうですよね。妖怪ならともかく」
叶斗と共に首をひねる。
幽霊が出る病院。
よくありそうな話だが、この病院に限って言えばあまりにも不自然な噂だ。
だってここは妖怪達のための病院なのだから。
「そう言われましてもぉ」
「本当のことなんでぇ」
「窓の外を女の子の幽霊がふわーって」
「目撃者は沢山いますから話を聞いてみて下さいー」
ナースの美由と美弥が交互に説明してくれる。
ここ数日、飛び降りる少女の幽霊の目撃が後を絶たず、その話で病院は持ちきりだった。
ある妖怪は、窓の外を女の子が落下していったと言い。
またある妖怪はふわふわと上昇していく女の子を窓の外に見たという。
「目撃談をまとめると、女の子の幽霊はこの階から飛び降りてることになるんですよね」
この階から上では目撃者がいない。
「茜はもういいのか?」
「うん……また後で見に行くよ。ちょっと気になることがあるんだ」
調度この階に病室がある茜に先に会いに行っていたはずの蒼が何故だか戻ってきた。
「幽霊騒ぎの事か?」
「うん。本当に幽霊なのかなって」
「幽霊じゃなかったら妖怪?」
入院中の妖怪がふらふらと病院の外を漂うだろうか。
何か手掛かりはないかと私は窓から下を見下ろした。
乗り出して見てみてもこれと言って気になるものはない。
視線を戻して私はギョッとした。
蒼も一瞬前には同じように地上を見下ろしていたはずだ。
なのに今は窓枠を乗り越えようとしている。
止める暇もないまま、空中へと身を踊らせた。
「蒼くん!?」
私が手を伸ばしたその先には夜の色をした翼があった。
落ちる速度が緩やかになる。
微妙に。
翼は羽ばたいたけれど、それは飛翔というよりは落下の速度を遅らせたにすぎない。
それでも地上へ到達する前には風を掴んで舞い上がる事に成功した。
つたない飛翔で少しずつ昇ってやっとの事で元の階にたどり着く。
空を統べる一族の姿としては何とも頼りないと言わざるを得ない。
蒼は以前とは違って子供の姿でも翼を出せるし風も操ることが出来るようになった。
とはいえ大人の姿の時ほどは上手く飛ぶことが出来ないということだ。
「ね、ぼく今幽霊っぽくなかった?」
「どちらかといえば雛鳥っぽかったが?」
「かなちゃん!ぼくは真面目に聞いてるの!」
「確かに少し幽霊っぽかったかも」
そのたよりなさが幽霊の儚さに似ているといえばそうかもしれない。
翼がなければその動きはもっと幽霊のように見えるだろう。
「誰かを幽霊と見間違えたと、そう言いたいんだな」
「そうだよ」
「それで、誰か検討が付いているんだな?」
「ま、ね」
蒼は可愛らしく片目を瞑ってウィンクしてみせた。
まさかと思うけど、まさかと思うから叶斗もみなまで言わなかったのだろうけど。
たぶん幽霊は彼女なのだろう。
「噂がたっているとは知らなかった。驚かせたかったんだ」
茜は病室のベッドに腰掛けてばつが悪そうにそうに呟いた。
幽霊騒ぎを起こして驚かせたかったという意味ではもちろんない。
俯いて、ぶらぶらと揺れるつま先を見つめる。
飛べることが嬉しくて、飛べるようになったのだと驚かせたくて、密かに練習を重ねていたのだ。
とはいえ幽霊みたいに頼りない飛翔だから私達に言うのを躊躇っていたということらしい。
蒼は少年の姿だとあの程度の飛翔しか出来ない。
だったら茜はどうなのだろうか。
この先、彼女が大空を自在に翔る日か来て欲しいのだけど。
やや、間を開けて少女は顔を上げた。
その愛らしい大きな瞳が見つめるのは叶斗。
「考えてみた。これからのこと。未来を紡ぐことが私に許されるのなら、共に連れて行ってほしい。そしたら……償うことにつながるだろうか?」
式神になって、人間と妖怪の在り方を見守る。
蒼がそうしてきたように。
自分のしてきたことに苦悩しながらも前に進もうとしている茜。
白銀という存在を失った心の傷は癒えるまでには長い時間がかかるのかもしれない。
でも、彼女は一人じゃない。
これからは私達と一緒に進んでいく。
そしたらきっと独りきりで考えるよりは早く、茜が自分自身を許してもいいって思える日が来るんじゃないかって、私は信じている。
「ああ、僕が手を貸してやる。安心しろ」
叶斗の言葉は不遜でありつつも頼もしく感じられた。