歓喜から遠い場所
「下手くそ。葵、デカいだけじゃん」
ボールがゴール脇の地面を叩いた瞬間、誰かがそう言った。
砂混じりのグラウンドだった。声は小さかったけれど、しっかりと俺の耳に届いた。
子供は残酷だ。思ったことを、そのまま口に出す。悪意があるわけでもない。だからこそ、刺さった。否定する言葉が出てこなかった。事実だったからだ。
俺は、クラスの誰よりも背が高かった。なのに、その腕も足も、思うようには動かなかった。届くはずのボールに届かず、何度も地面に転がった。両膝の擦り傷は、いつまでもひりひりと痛んだ。チームメイトの溜め息。観客の拍手は、いつも相手チームの方に向けられていた。
整列のとき、誰も俺の横には並びたがらなかった。誰のせいでもない。ただ、そういう空気が、いつの間にかできあがっていた。
サッカーというスポーツは、不思議だった。ボールがゴールに入った瞬間、片方には歓喜が、もう片方には沈黙が生まれる。同じピッチの上で、同じ一秒の中に。
そんな俺のところに、いつも駆け寄ってくる男がいた。
「ドンマイ、アオ! 俺が点、取り返してやるから。楽しもうぜ!」
俺の名前は葵だが、蒼汰はいつもそう呼んだ。
アオ。それ以外の呼び方を、聞いたことがなかった。
蒼汰――みんなからは、蒼ちゃんと呼ばれていた。俺も、そう呼んでいた。
蒼ちゃんは、笑いながらそう言って、ピッチの真ん中へ駆けていった。背中を叩かれた場所だけ、不思議と温かかった。
そして、本当に取り返した。取られた点よりも多く決めて、チームを勝利に導いた。俺の失点は、誰の記憶にも残らなかった。蒼ちゃんのゴールだけが、みんなの記憶に鮮明に残った。
「蒼ちゃんすげー!」
チームメイトが、駆け寄って肩を組む。
「蒼ちゃん、すごいね」
俺もそう言った。お世辞でも、悔しさを隠すためでもなかった。本当に、そう思っていた。
背番号10。チームのエースが背負う番号。その背中を、俺はいつも後ろから見ていた。
蒼ちゃんは、俺のスーパースターだった。
蒼ちゃんと同じピッチに立って、恥ずかしくない選手になりたい。それだけを思って、毎日ボールに触れた。
手のひらの皮が剥けても、キャッチングの練習をやめなかった。雨の日も、グラウンドの隅で壁にボールを蹴り続けた。背は伸びた。反応も早くなった。中学に上がる頃には、もう「デカいだけ」とは言われなくなっていた。
それでも、蒼ちゃんは別格だった。
ボールが足元に収まる瞬間、相手の重心が崩れる瞬間を、まるで先に知っているかのようにプレーした。練習試合で何度対戦しても、止め切れたことは一度もなかった。シュートを打つ直前、蒼ちゃんだけ時間の流れが少し違う気がした。
中学最後の年、蒼ちゃんは年代別の代表に選ばれた。高校進学のとき、プロの下部組織や、全国に名前の知られた強豪校から、何通もの誘いが来ていたのを、俺は知っていた。
しかし、蒼ちゃんは、全部断った。
「なんでだよ」
そう聞いたとき、蒼ちゃんは笑っていた。
「プロ選手にはさ、後からでもなれるかもしれない。でも、アオとプレーできるのは、これが最後かもしれないだろ?」
そう言って、俺と同じ、地元の中堅校――県立陽南第二高校への進学を決めた。
蒼ちゃんの進学が決まると、地元は少しざわついた。
同じ地域には、私立聖王学園高校があった。県大会で負け知らず、全国でもベスト8の実績を持つ常勝チームだ。
対して陽南は、過去の最高成績が県大会ベスト8。前年は二回戦負け。お世辞にも強いとは言えなかった。
蒼ちゃん一人がいたところで、簡単に変わるはずもなかった。実際、一年、二年のあいだ、聖王は容赦なく蒼ちゃんを潰しにきた。マンツーマンどころか、常に二人がかりのマーク。ボールが渡る前に、コースを塞がれる。受けた瞬間、二人に挟まれる。それでも数字を残してしまうのが、蒼ちゃんという選手だった。陽南は「蒼汰のワンマンチーム」と笑われた。聖王には勝てなかった。
それでも、蒼ちゃんがいると知って、力のある選手が後輩として入ってきた。三年生になった俺たちにとって、今年は文字通り最後のチャンスだった。
冬の県大会――勝てば、創立以来初めての全国行きが見えてくる。
準々決勝の相手は、県内屈指の古豪、私立凌国中央学園だった。
蒼ちゃんのゴールで、俺たちは一点リード。試合終了が近づく中、相手の最後のコーナーキック。ゴール前に人が密集する。蹴り上げられたボールが、風に流されながら落ちてくる。競り合いの中で、俺はボールに飛びついた。
ボールをキャッチしたその直後、体を支えられなかった。相手選手の肩と、俺の肩が交差する。バランスを失い、肩から、地面に叩きつけられる。
頭の中で、何かが揺れた。視界の端が、白く滲んだ。試合終了のホイッスルが、遠くから聞こえた気がした。
そこから、しばらくの記憶がない。
「勝ったよ」
目が覚めた時、誰かがそう言った。安心と痛みが、同時に押し寄せてきた。
病院で告げられたのは、軽い脳震盪と、肋骨のひびだった。
「次の試合は無理だ」
医者の言葉に、俺は監督に頭を下げた。出たい、と。
監督は黙っていた。代わりになるGKは、まだチームには育っていなかった。
「葵……すまない。指導者として、失格かもしれない。勝ちたいんだ。お前が必要なんだ」
監督は、痛み止めの注射を手配した。
「無理が出たら、すぐ言ってくれ」
「分かりました」
それが嘘になることを、俺はもう知っていた。
準決勝の相手は、聖王高校だった。俺たちは、創立以来、初めてのベスト4。学校中が沸いた。
全校生徒の応援、吹奏楽部による演奏――スタンドの旗が一斉に揺れる音まで聞こえてくるようだった。俺たちは、誰も予想していなかった場所に立っていた。
チームメイトには、怪我のことを話さなかった。
「アオ、俺たちならいける。楽しもうぜ」
蒼ちゃんが、いつもの調子で笑った。
試合は、想像以上の猛攻で始まった。クロスが上がるたび、俺は両手を伸ばして弾いた。低い弾道のシュートには、体を投げ出して足を伸ばした。一つ防ぐたびに、相手側の溜め息が聞こえ、味方側から拍手が起きた。自分の痛みに気を回す余裕すらなかったはずだった。
それでも、ふと気づいた。
蒼ちゃんの動きが、いつもと違う。スプリントの切れ味が、わずかに鈍い。受けに入るタイミングが、一テンポ遅れている。
何年も、後ろから蒼ちゃんの背中を見てきた。その違和感に、気づかないわけがなかった。
(マークが厳しいからか……)
そう思おうとした。まずは目の前のプレーに集中するしかなかった。
前半は、0―0で終わった。
ロッカールームで、監督が檄を飛ばした。
「守りを固めてカウンターだ。ボールを蒼汰に集める」
選手たちが散っていく中、監督が小さな声で俺を呼んだ。
「葵、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「すまない。この試合に懸けてるんだ。俺も」
「分かってます。それは、自分も同じです」
「無理だと思ったら、すぐ言ってくれよ」
「はい」
ピッチに向かう途中、蒼ちゃんが声をかけてきた。
「アオ、後半も頼むぜ」
「蒼ちゃん、あのさ」
俺は、彼に違和感を伝えた。
「アオにはバレちゃったか」
蒼ちゃんは、いつもの軽い笑顔のまま言った。
「ちょっと脚、痛くてさ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。ゴール、決めてくるから」
「やっぱりおかしいよ、それ本当?」
蒼ちゃんは、少しだけ笑顔を消した。
「……悪い。本当はやばいかも。みんなには内緒で頼むぜ」
やっぱりか。
この試合に、蒼ちゃんも懸けていた。誰よりも。
「一つ、お願いがある」
蒼ちゃんが言った。
「一点取れば、アオは守れるか?」
「大丈夫」
脇腹に痛みが走った。それを堪えて、俺は頷いた。
「あとは頼むぜ」
蒼ちゃんは、そう言って後半のピッチへ歩き出した。
後半10分。中盤での競り合いから、蒼ちゃんが抜け出した。
二人がかりのマークを切り、右足を振り抜く。これ以上ないロングシュートが、ゴールの隅に突き刺さった。
ピッチが揺れるような歓声。
その直後、蒼ちゃんは脚を引きずって倒れた。
すぐに選手交代が告げられる。担架で運ばれていく蒼ちゃんのもとに、チームメイトが駆け寄った。俺も駆け寄った。
「アオ、頼むぜ。これも」
そう言って、蒼ちゃんは、腕に巻いていたキャプテンマークを外し、俺の腕に巻きつけた。
布の重みが、いつもより重く感じた。
蒼ちゃんがいないフィールド。
絶対に守る。そう誓った。
そこからは、防戦一方だった。
相手の応援が、唸るように響いてくる。俺は、飛んでくるボールに、何度も体を投げ出した。クロスを跳んで弾く。こぼれ球に詰め寄られ、横に滑り込んで止める。一対一を凌ぎ切り、その場に膝をついたまま、肺の中身を全部吐き出すように息をした。
弾くたびに、歓声と溜め息が、同時に広がった。
走るたびに、飛ぶたびに、脇腹の奥に痛みが食い込んだ。痛み止めは、もうとっくに切れていた。残り時間を告げる電子音が、頭の中でずっと鳴っているような気がした。
それでも、止まれなかった。
腕に巻かれたキャプテンマークを見るたび、止まりそうになる足を、何度も立たせ直した。
(ここで、終わらせるわけにはいかない)
ただ、それだけを思って、ボールに食らいついた。
ホイッスルが鳴った。1―0。
番狂わせ。誰も予想していなかった結果。
チームメイトが、俺のもとに駆け寄ってきた。
「アオ!!」
観客席からも、声が上がった。
「アオ!!アオ!!」
ゴールキーパーの俺の名前。こんなに大きく呼ばれたことは、これまでの人生でなかった。
相手選手は、ピッチに崩れ落ちていた。
スタジアムには、二つのチームの、まったく違う感情が渦巻いていた。
俺たちは、創立以来初めて、決勝の舞台に立つことになった。
――けれど、エースストライカーと、正GKを欠いたチームに、勝ち切るだけの力は残っていなかった。
決勝戦、俺たちは負けた。
◆◇◆
「アオ、そろそろ行くぞ」
声をかけられて、顔を上げた。ロッカールームのベンチに座ったまま、しばらく考え込んでいたらしい。
「どうした。思い詰めた顔して」
「ちょっと、考えごとしてた」
外から、大きな音が響いた。すぐに静かになる。
「高校の時のこと、思い出してさ」
「ああ。優勝、できなかったなあ」
蒼ちゃんは、笑いながら言った。
「まさかアオも怪我してたなんて、あのとき知らなかったよ」
怪我をしていたのは、俺だけじゃなかった。
蒼ちゃんは、左脚を疲労骨折していた。
監督にも、誰にも、最後まで言わなかった。
「今度こそは、優勝しようぜ」
そう言って、俺の肩に手を置き、蒼ちゃんは立ち上がった。
青いユニフォーム。背番号10。
あの頃と、何も変わっていない笑顔だった。
外で、もう一度、大きな歓声が上がった。
世界中の人間が、これから始まる試合に注目している。俺たちのプレー、そのすべてに。
「あ、やっぱなし。力むと良いことないから」
「蒼ちゃん、前の試合、大事なところでシュート外してたしね」
「うるせー。あれで負けてたら、危うく日本に帰れないところだったなー」
蒼ちゃんは、相変わらずだった。
「アオが点取られたら、俺がその倍、点とってやるから安心しろって」
「今度の相手、強いよ。二点も取れる?」
「任せとけって」
「蒼ちゃん、あのさ……」
「ん?」
「俺、蒼ちゃんとサッカー、一緒にできて本当に良かったよ」
「なんだよ、今日が引退試合かよ」
そう言って、軽く肩を叩いてきた。
「伝説は、ここから始まる」
そう言って、二人で笑った。
「さて、そろそろ行くか」
整列する。
青いユニフォームが並ぶ中、俺だけが、ゴールキーパー用の赤いユニフォームを着ていた。
背番号は1。腕には、あの日と同じキャプテンマークが巻かれていた。
布に触れると、重みを感じた。このマークを巻いてきた歴代のキャプテンたちの顔が、いくつも浮かんだ。誰もが、それぞれの責任を背負って、このピッチに立ってきたはずだった。
それでも――楽しもう、そう思った。
歓声が、大きくなっていく。今度は、鳴り止むことはなかった。
トンネルの先、スタジアムの光が漏れていた。目が眩むほどの光だった。
通路には、対戦相手のチームも並んでいた。聞き取れない言語が、いくつも飛び交っている。誰の声も、緊張で少し硬かった。
「さぁ行こう!」
俺はメンバーに声をかけた。
「おお!!」
みんなが応えた。
キャプテンマークを巻いた腕を、軽く握り直す。先頭に立つのは、いつも怖い。それでも、足は止まらなかった。
歩くたびに、歓声が大きくなる。耳が震えるほどの音が、トンネルの奥から押し寄せてきた。スパイクの音、誰かの深呼吸、布のこすれる音まで、すべてがやけに鮮明だった。スタジアムからの光は、輝きを増していく。
俺は、その光に向かって、歩き出した。
(了)
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。




