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歓喜から遠い場所

作者: 遠峰 黎
掲載日:2026/06/28

「下手くそ。(あおい)、デカいだけじゃん」


 ボールがゴール脇の地面を叩いた瞬間、誰かがそう言った。

 砂混じりのグラウンドだった。声は小さかったけれど、しっかりと俺の耳に届いた。


 子供は残酷だ。思ったことを、そのまま口に出す。悪意があるわけでもない。だからこそ、刺さった。否定する言葉が出てこなかった。事実だったからだ。


 俺は、クラスの誰よりも背が高かった。なのに、その腕も足も、思うようには動かなかった。届くはずのボールに届かず、何度も地面に転がった。両膝の擦り傷は、いつまでもひりひりと痛んだ。チームメイトの溜め息。観客の拍手は、いつも相手チームの方に向けられていた。


 整列のとき、誰も俺の横には並びたがらなかった。誰のせいでもない。ただ、そういう空気が、いつの間にかできあがっていた。


 サッカーというスポーツは、不思議だった。ボールがゴールに入った瞬間、片方には歓喜が、もう片方には沈黙が生まれる。同じピッチの上で、同じ一秒の中に。


 そんな俺のところに、いつも駆け寄ってくる男がいた。


「ドンマイ、アオ! 俺が点、取り返してやるから。楽しもうぜ!」


 俺の名前は葵だが、(そう)()はいつもそう呼んだ。


 アオ。それ以外の呼び方を、聞いたことがなかった。


 蒼汰――みんなからは、蒼ちゃんと呼ばれていた。俺も、そう呼んでいた。

 蒼ちゃんは、笑いながらそう言って、ピッチの真ん中へ駆けていった。背中を叩かれた場所だけ、不思議と温かかった。


 そして、本当に取り返した。取られた点よりも多く決めて、チームを勝利に導いた。俺の失点は、誰の記憶にも残らなかった。蒼ちゃんのゴールだけが、みんなの記憶に鮮明に残った。


「蒼ちゃんすげー!」


 チームメイトが、駆け寄って肩を組む。


「蒼ちゃん、すごいね」


 俺もそう言った。お世辞でも、悔しさを隠すためでもなかった。本当に、そう思っていた。


 背番号10。チームのエースが背負う番号。その背中を、俺はいつも後ろから見ていた。


 蒼ちゃんは、俺のスーパースターだった。

 蒼ちゃんと同じピッチに立って、恥ずかしくない選手になりたい。それだけを思って、毎日ボールに触れた。


 手のひらの皮が剥けても、キャッチングの練習をやめなかった。雨の日も、グラウンドの隅で壁にボールを蹴り続けた。背は伸びた。反応も早くなった。中学に上がる頃には、もう「デカいだけ」とは言われなくなっていた。


 それでも、蒼ちゃんは別格だった。

 ボールが足元に収まる瞬間、相手の重心が崩れる瞬間を、まるで先に知っているかのようにプレーした。練習試合で何度対戦しても、止め切れたことは一度もなかった。シュートを打つ直前、蒼ちゃんだけ時間の流れが少し違う気がした。


 中学最後の年、蒼ちゃんは年代別の代表に選ばれた。高校進学のとき、プロの下部組織や、全国に名前の知られた強豪校から、何通もの誘いが来ていたのを、俺は知っていた。

 しかし、蒼ちゃんは、全部断った。


「なんでだよ」


 そう聞いたとき、蒼ちゃんは笑っていた。


「プロ選手にはさ、後からでもなれるかもしれない。でも、アオとプレーできるのは、これが最後かもしれないだろ?」


 そう言って、俺と同じ、地元の中堅校――県立陽南第二高校への進学を決めた。


 蒼ちゃんの進学が決まると、地元は少しざわついた。

 同じ地域には、私立聖王学園高校があった。県大会で負け知らず、全国でもベスト8の実績を持つ常勝チームだ。

 対して陽南は、過去の最高成績が県大会ベスト8。前年は二回戦負け。お世辞にも強いとは言えなかった。


 蒼ちゃん一人がいたところで、簡単に変わるはずもなかった。実際、一年、二年のあいだ、聖王は容赦なく蒼ちゃんを潰しにきた。マンツーマンどころか、常に二人がかりのマーク。ボールが渡る前に、コースを塞がれる。受けた瞬間、二人に挟まれる。それでも数字を残してしまうのが、蒼ちゃんという選手だった。陽南は「蒼汰のワンマンチーム」と笑われた。聖王には勝てなかった。


 それでも、蒼ちゃんがいると知って、力のある選手が後輩として入ってきた。三年生になった俺たちにとって、今年は文字通り最後のチャンスだった。


 冬の県大会――勝てば、創立以来初めての全国行きが見えてくる。


 準々決勝の相手は、県内屈指の古豪、私立凌国中央学園だった。


 蒼ちゃんのゴールで、俺たちは一点リード。試合終了が近づく中、相手の最後のコーナーキック。ゴール前に人が密集する。蹴り上げられたボールが、風に流されながら落ちてくる。競り合いの中で、俺はボールに飛びついた。


 ボールをキャッチしたその直後、体を支えられなかった。相手選手の肩と、俺の肩が交差する。バランスを失い、肩から、地面に叩きつけられる。


 頭の中で、何かが揺れた。視界の端が、白く滲んだ。試合終了のホイッスルが、遠くから聞こえた気がした。

 そこから、しばらくの記憶がない。


「勝ったよ」


 目が覚めた時、誰かがそう言った。安心と痛みが、同時に押し寄せてきた。

 病院で告げられたのは、軽い脳震盪と、肋骨のひびだった。


「次の試合は無理だ」


 医者の言葉に、俺は監督に頭を下げた。出たい、と。

 監督は黙っていた。代わりになるGKは、まだチームには育っていなかった。


「葵……すまない。指導者として、失格かもしれない。勝ちたいんだ。お前が必要なんだ」


 監督は、痛み止めの注射を手配した。


「無理が出たら、すぐ言ってくれ」

「分かりました」


 それが嘘になることを、俺はもう知っていた。


 準決勝の相手は、聖王高校だった。俺たちは、創立以来、初めてのベスト4。学校中が沸いた。


 全校生徒の応援、吹奏楽部による演奏――スタンドの旗が一斉に揺れる音まで聞こえてくるようだった。俺たちは、誰も予想していなかった場所に立っていた。

 チームメイトには、怪我のことを話さなかった。


「アオ、俺たちならいける。楽しもうぜ」


 蒼ちゃんが、いつもの調子で笑った。


 試合は、想像以上の猛攻で始まった。クロスが上がるたび、俺は両手を伸ばして弾いた。低い弾道のシュートには、体を投げ出して足を伸ばした。一つ防ぐたびに、相手側の溜め息が聞こえ、味方側から拍手が起きた。自分の痛みに気を回す余裕すらなかったはずだった。


 それでも、ふと気づいた。

 蒼ちゃんの動きが、いつもと違う。スプリントの切れ味が、わずかに鈍い。受けに入るタイミングが、一テンポ遅れている。

 何年も、後ろから蒼ちゃんの背中を見てきた。その違和感に、気づかないわけがなかった。


(マークが厳しいからか……)


 そう思おうとした。まずは目の前のプレーに集中するしかなかった。


 前半は、0―0で終わった。

 ロッカールームで、監督が檄を飛ばした。


「守りを固めてカウンターだ。ボールを蒼汰に集める」


 選手たちが散っていく中、監督が小さな声で俺を呼んだ。


「葵、大丈夫か?」

「大丈夫です」

「すまない。この試合に懸けてるんだ。俺も」

「分かってます。それは、自分も同じです」

「無理だと思ったら、すぐ言ってくれよ」

「はい」


 ピッチに向かう途中、蒼ちゃんが声をかけてきた。


「アオ、後半も頼むぜ」

「蒼ちゃん、あのさ」


 俺は、彼に違和感を伝えた。


「アオにはバレちゃったか」


 蒼ちゃんは、いつもの軽い笑顔のまま言った。


「ちょっと脚、痛くてさ」

「大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。ゴール、決めてくるから」

「やっぱりおかしいよ、それ本当?」


 蒼ちゃんは、少しだけ笑顔を消した。


「……悪い。本当はやばいかも。みんなには内緒で頼むぜ」


 やっぱりか。

 この試合に、蒼ちゃんも懸けていた。誰よりも。


「一つ、お願いがある」


 蒼ちゃんが言った。


「一点取れば、アオは守れるか?」

「大丈夫」


 脇腹に痛みが走った。それを堪えて、俺は頷いた。


「あとは頼むぜ」


 蒼ちゃんは、そう言って後半のピッチへ歩き出した。


 後半10分。中盤での競り合いから、蒼ちゃんが抜け出した。

 二人がかりのマークを切り、右足を振り抜く。これ以上ないロングシュートが、ゴールの隅に突き刺さった。

 ピッチが揺れるような歓声。


 その直後、蒼ちゃんは脚を引きずって倒れた。

 すぐに選手交代が告げられる。担架で運ばれていく蒼ちゃんのもとに、チームメイトが駆け寄った。俺も駆け寄った。


「アオ、頼むぜ。これも」


 そう言って、蒼ちゃんは、腕に巻いていたキャプテンマークを外し、俺の腕に巻きつけた。

 布の重みが、いつもより重く感じた。


 蒼ちゃんがいないフィールド。

 絶対に守る。そう誓った。


 そこからは、防戦一方だった。

 相手の応援が、唸るように響いてくる。俺は、飛んでくるボールに、何度も体を投げ出した。クロスを跳んで弾く。こぼれ球に詰め寄られ、横に滑り込んで止める。一対一を凌ぎ切り、その場に膝をついたまま、肺の中身を全部吐き出すように息をした。


 弾くたびに、歓声と溜め息が、同時に広がった。

 走るたびに、飛ぶたびに、脇腹の奥に痛みが食い込んだ。痛み止めは、もうとっくに切れていた。残り時間を告げる電子音が、頭の中でずっと鳴っているような気がした。


 それでも、止まれなかった。

 腕に巻かれたキャプテンマークを見るたび、止まりそうになる足を、何度も立たせ直した。


(ここで、終わらせるわけにはいかない)


 ただ、それだけを思って、ボールに食らいついた。


 ホイッスルが鳴った。1―0。


 番狂わせ。誰も予想していなかった結果。

 チームメイトが、俺のもとに駆け寄ってきた。


「アオ!!」


 観客席からも、声が上がった。


「アオ!!アオ!!」


 ゴールキーパーの俺の名前。こんなに大きく呼ばれたことは、これまでの人生でなかった。


 相手選手は、ピッチに崩れ落ちていた。

 スタジアムには、二つのチームの、まったく違う感情が渦巻いていた。

 俺たちは、創立以来初めて、決勝の舞台に立つことになった。


 ――けれど、エースストライカーと、正GKを欠いたチームに、勝ち切るだけの力は残っていなかった。


 決勝戦、俺たちは負けた。


◆◇◆


「アオ、そろそろ行くぞ」


 声をかけられて、顔を上げた。ロッカールームのベンチに座ったまま、しばらく考え込んでいたらしい。


「どうした。思い詰めた顔して」

「ちょっと、考えごとしてた」


 外から、大きな音が響いた。すぐに静かになる。


「高校の時のこと、思い出してさ」

「ああ。優勝、できなかったなあ」


 蒼ちゃんは、笑いながら言った。


「まさかアオも怪我してたなんて、あのとき知らなかったよ」


 怪我をしていたのは、俺だけじゃなかった。

 蒼ちゃんは、左脚を疲労骨折していた。

 監督にも、誰にも、最後まで言わなかった。


「今度こそは、優勝しようぜ」


 そう言って、俺の肩に手を置き、蒼ちゃんは立ち上がった。


 青いユニフォーム。背番号10。

 あの頃と、何も変わっていない笑顔だった。


 外で、もう一度、大きな歓声が上がった。

 世界中の人間が、これから始まる試合に注目している。俺たちのプレー、そのすべてに。


「あ、やっぱなし。力むと良いことないから」

「蒼ちゃん、前の試合、大事なところでシュート外してたしね」

「うるせー。あれで負けてたら、危うく日本に帰れないところだったなー」


 蒼ちゃんは、相変わらずだった。


「アオが点取られたら、俺がその倍、点とってやるから安心しろって」

「今度の相手、強いよ。二点も取れる?」

「任せとけって」

「蒼ちゃん、あのさ……」

「ん?」

「俺、蒼ちゃんとサッカー、一緒にできて本当に良かったよ」

「なんだよ、今日が引退試合かよ」


 そう言って、軽く肩を叩いてきた。


「伝説は、ここから始まる」


 そう言って、二人で笑った。


「さて、そろそろ行くか」


 整列する。

 青いユニフォームが並ぶ中、俺だけが、ゴールキーパー用の赤いユニフォームを着ていた。


 背番号は1。腕には、あの日と同じキャプテンマークが巻かれていた。


 布に触れると、重みを感じた。このマークを巻いてきた歴代のキャプテンたちの顔が、いくつも浮かんだ。誰もが、それぞれの責任を背負って、このピッチに立ってきたはずだった。


 それでも――楽しもう、そう思った。


 歓声が、大きくなっていく。今度は、鳴り止むことはなかった。

 トンネルの先、スタジアムの光が漏れていた。目が眩むほどの光だった。

 通路には、対戦相手のチームも並んでいた。聞き取れない言語が、いくつも飛び交っている。誰の声も、緊張で少し硬かった。


「さぁ行こう!」


 俺はメンバーに声をかけた。


「おお!!」


 みんなが応えた。

 キャプテンマークを巻いた腕を、軽く握り直す。先頭に立つのは、いつも怖い。それでも、足は止まらなかった。


 歩くたびに、歓声が大きくなる。耳が震えるほどの音が、トンネルの奥から押し寄せてきた。スパイクの音、誰かの深呼吸、布のこすれる音まで、すべてがやけに鮮明だった。スタジアムからの光は、輝きを増していく。


 俺は、その光に向かって、歩き出した。


(了)


※この作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。

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