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魚の目の娘

作者: 滝治ほの
掲載日:2026/04/30

皮膚の一部が丸く、真っ白になっている。


「ピンセットで取るようにって説明書に書いてあったんだけど」


浴槽のへりに腰かけながら彼女が言う。


「傷つけたら嫌だから爪でやるよ」


ピンセットだと感覚が分からないじゃないか。


「汚くない?」

「終わったらちゃんと洗う」


汚いのは否定しないんだと血色の良い唇がぼやく。

靴下の繊維が絆創膏に絡め取られたのか、青い糸が足裏にへばりついていた。


ふやけたようなソコを指の腹で撫ぜる。

こすれば剥がれそうだと思った。


正常な皮膚との境界に爪をあてがう。

少しづつ力を込めれば、アイスクリームをスプーンですくうように、彼女の一部がめくれ上がった。

自分の爪と皮膚の間に物の詰まる感覚。指が柔らかい物で覆われる感覚。

ちぎれないよう慎重に、きれいに取れるよう端から円の中心に向かって少しずつ進む、進む。



ごっそりとえぐれた。


耳かきの快感と似ている。それか、大きなかさぶたをはがせた時のあの感じ。


大物。層状のまま魚の目だった円盤がティッシュの上に転がる。

達成感から大きく息を吐きだした私に、彼女は声をかけてくる。


「疲れた?いいよ途中で終わっても」


足に力を入れたのか、彼女の指が丸まる。


「大部分は今ので取れたと思う。真皮が近くなるから少しでも痛みを感じたらすぐ言って」


途中で投げ出したりはしない。


有無を言わさず続行すれば、すぐに彼女の足から力が抜かれる。



やすりがあれば――。


おろされたペコリーノ・ロマーノみたいに細かくなった皮がタイルの上に落ちるのを想像する。

目立つ凹凸も消え、薬液が染み込んだ正常な皮膚は、痛みと共に身の潔白を表明するだろう。


地道に爪でこそげ取りながら、思考の波に呑まれる。


視界の端で彼女の暇そうな片足がゆらゆらと揺れる。ほんの小さな音も大袈裟にする浴室で、耳に届くのは自分の呼吸音だけ。




彼女の足裏が何も生み出さなくなった頃、遠く赤ん坊の泣き声が聞こえた。


「そこまでしなくてもいいのに」


温かいシャワーで足を軽く流した後、タオルで水気を吹き取っていると文句を言われる。

嫌ならそう言えばいいのに、と返そうとしてやめた。嫌とは言ってないじゃんとふてくされるのが予想できたから。

黙ったまま私は魚の目だったものを手に取る。


「どうするの?それ」

「どうって……」

「捨てるよね。私が持っていくよ」


立ち上がった彼女が手を伸ばし、自分の皮膚が乗ったティッシュを奪おうとする。

私は何となく渡したくなくてこぶしを握り込み、彼女と向き合ったまま浴室を出た。


「ねぇ、私のだよ。返して」


まだ浴室に立つ彼女の声が響く。


「捨てるなら、べつに」



べつに良くないだろうか。私が持っていても。


何も言わなかったのに彼女は無理やり私の手をこじ開けると、その勢いのまま廊下に飛び出した。空っぽになった手を握り直して、私はとぼとぼと後を追う。


単身用の部屋なのに彼女に追いつく前に、向こうからこちらに戻ってきた。ごみ箱に投げ捨てられる所さえ見られなかった。

一際大きな泣き声が頭上から降りそそぐ。私の代わりに赤子が泣いているようだった。


彼女は両手で私の手をがしりと掴むと洗面所まで引っ張った。荒々しく蛇口をひねり、魚の目を取った方の手を水流の中に押し込む。跳ねた水滴が腕や顔に当たるのも気にせず、彼女は私の皮膚をこする。爪の周りはかなり念入りに洗われ、痛くさえあった。


そこまでしなくてもいいのに――。先程言われた言葉が頭に浮かんだ。




コンクリートの灰色が、一部、また一部と黒くなる。赤子の次は空が泣いている。

マンションを追い出されてすぐに雨に降られた。傘など持っていないので、家まで走って帰ることにした。


不快にまとわりつく靴下とずっしりと重みを増した服を洗濯機に放り込む。少し早いが湯船に浸かれば、冷えた体はすぐに熱を取り戻す。未だ赤い指先を眺めながら、彼女について考えようとして、やめた。

考えても魚の目は戻ってこない。もしかしたら、時が経てばもう一度彼女の足裏に宿るかもしれない。それでも、もう私が見る機会は無い。絶対。




翌朝。昨日の雨が嘘のような快晴が窓の向こうに見えた。水気の残る靴をベランダに置き、私は新しい靴を下ろすことにした。少しは気分を上げようと思って。



それはすぐに訪れた。両足のかかとに痛みが出てきたのだ。


私は下を向いた。講義中は良くても、帰りのことを思うと今から憂鬱だ。バス停に並び、靴紐を結び直す。少しでも擦れが減ってほしいと祈りながら。


隣に、同じくバスを待つ人がやって来た。知っている足だ。

あの日と同じサンダル。私が彼女の魚の目に気がついた日と。あれ以来、ずっと彼女がスニーカーを履いていたことに気づいた。


私は立ち上がってもなお、彼女を見ていた。足の小指側にはもう絆創膏はのぞいていなかった。

彼女は道路から目を逸らさずに、私の新品の靴を蹴る。靴擦れがズキズキした。


足元見ないでよ。と言われた気がした。

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