「毒を盛った」と言われましても、毒見役でしたので
「毒殺未遂の罪により、婚約を破棄する」
大広間に響いた声は、氷のように冷たかった。
壇上に立つヴェルナー・フォン・ヴァイスハルト公爵は、こちらを見ようともしない。三年間、婚約者として隣を歩いてきた男が、今は遠い他人のようだった。
私は深く息を吸い込んだ。
知っていた。こうなることは、昨夜のうちに分かっていた。
「リーゼル・フォン・ヴェステンドルフ伯爵令嬢。反論はあるか」
ない、と言いかけて——やめた。
三年間、彼のために毒を飲み続けた。十七回死にかけて、そのたびに医師に命を救われた。その全てを、彼は知らない。
「……ございません」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「そうか」
ヴェルナーの瞳が、一瞬だけ揺れた——ように見えた。気のせいだろう。
「では、本日をもって婚約は——」
「お待ちください、ヴェルナー様」
甘い声が割って入った。
オルテンシア・フォン・ガルテン男爵令嬢が、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「せっかくですもの。皆様にも真実をお伝えしませんと」
私は黙って彼女を見つめた。ヴェルナーの隣を狙っている女。
「リーゼル様は、ヴェルナー様のお食事に毒を混入なさったのですわ」
嘘だ。けれど私は、それを口にしなかった。
「オルテンシア嬢」
低い声が、彼女の言葉を遮った。
白髪の老人——公爵家の執事長トビアスが歩み出てきた。
「発言の許可を」
ヴェルナーが眉をひそめた。
「何だ」
「僭越ながら、一つ確認させていただきたく」
トビアスは私の前まで歩み寄ると、深く頭を下げた。
「リーゼル様。本日をもって、お役目を解かれてもよろしいのでしょうか」
私は息を呑んだ。——知っていたのか。
「……構いません」
「左様でございますか」
トビアスは懐から、一冊の古びた手帳を取り出した。
「これは何だ」
「毒見日誌でございます」
広間がざわめいた。
「リーゼル様は三年間、ヴェルナー様の毒見役をお務めでした。誰にも知られず、誰にも告げず——ご自身のお命を賭して」
沈黙が落ちた。
私は目を伏せた。知られたくなかった。
婚約して半年の頃、ヴェルナーの食事に毒が混入される事件が続いた。犯人は分からない。だから私は、彼より先に一口だけ口をつけることにした。毒があれば、私が先に倒れる。それだけのことだった。
「……リーゼル」
ヴェルナーの声が、かすれていた。
「三年間で十七回」
トビアスが日誌を開いた。
「リーゼル様は十七回、毒をお召し上がりになりました。そのうち五回は重篤な状態に陥り、医師が匙を投げかけたことも二度ございます」
私は静かに息を吐いた。
「……もういい、トビアス」
「リーゼル様」
「私は、婚約を破棄される。それでいいのです」
顔を上げて、ヴェルナーを見た。彼は蒼白な顔で、私を見つめていた。
「お慕いしておりました」
言葉は、自然と口から零れた。
「貴方のためなら死んでもいいと、本気で思っておりました。だから毒を飲みました。十七回、死にかけても——それでも、貴方の傍にいられるなら構わないと」
涙は出なかった。
「けれど貴方は、私を信じてくださらなかった」
オルテンシアの方を見た。彼女は顔面蒼白で、唇を震わせていた。
「彼女の言葉を、私より先に信じた。三年間の全てより、一言の嘘を」
視線をヴェルナーに戻す。
「だから、もういいのです。婚約破棄、承知いたしました」
深く頭を下げた。
「三年間、ありがとうございました。どうかお元気で」
踵を返そうとした瞬間——
「待て」
腕を掴まれた。
振り返ると、ヴェルナーが壇上から降りて、私の目の前に立っていた。その瞳は、見たこともないほど激しく揺れていた。
「なぜ言わなかった」
「言えば、貴方は止めたでしょう」
「当然だ!」
彼の声が、初めて荒げられた。
「君が死にかけていたなど……知っていれば、私は——」
「だから言わなかったのです」
私は静かに彼の手を解いた。
「貴方に止められたくなかった。貴方の傍で、貴方を守っていたかった。それだけです」
「リーゼル……」
「もう終わりましたから」
微笑んだ。自分でも驚くほど、穏やかな笑みだった。
「さようなら、ヴェルナー様」
大広間を出ようとした、その時だった。
「お待ちくださいませ!」
悲鳴のような声が響いた。
オルテンシアの傍に立っていた侍女が、膝から崩れ落ちていた。
「わ、私……私、もう耐えられません……!」
「エルマ、何を——」
「お嬢様の命令で、毒を……公爵様のお食事に毒を入れたのは私です。リーゼル様を追い落として婚約者の座を奪うために……リーゼル様が死ねばいいと……」
「黙りなさい!」
オルテンシアが叫んだ。けれど侍女は懐から小瓶を取り出した。
「お嬢様から渡された毒の残りです……」
広間がどよめいた。
——ああ、そういうことだったのか。
三年間、誰が毒を盛っているのか分からなかった。けれど今、全てが繋がった。オルテンシアだったのだ。最初から、全て。
「宰相閣下。裁定を」
ヴェルナーの声が低く響いた。
「オルテンシア・フォン・ガルテン。三年間の毒物混入、ならびにリーゼル嬢への冤罪。二度と社交界に姿を見せぬよう、お取り計らいを」
宰相が頷いた。
「社交界からの永久追放を申し渡す」
「そんな……!」
衛兵に連れ出されるオルテンシアを、私は黙って見送った。
——終わった。三年間の全てが、今、終わった。
「リーゼル」
名前を呼ばれて、振り返った。
ヴェルナーが、ゆっくりと膝をついた。
広間がどよめいた。公爵が、人前で跪くなど——前代未聞だった。
「何を——」
「許してくれ」
彼の声は、かすれていた。
「三年間、君が何をしてくれていたか、私は何も知らなかった。君が十七回も死にかけていたことも、君がどれほど私を想ってくれていたかも——何一つ」
「ヴェルナー様……」
「許してくれとは言わない。けれど——もう一度だけ、機会をくれないか」
「……機会、とは」
「君を守る機会だ」
彼は私の手を取った。
「三年間、君は私を守り続けてくれた。今度は、私が君を守る番だ」
「……」
「リーゼル・フォン・ヴェステンドルフ」
彼の声が、広間に響いた。
「改めて、君に求婚する。私の妻になってくれ」
息が止まった。
「……本気ですか」
「本気だ」
「私は、貴方を騙していました。毒見役のことを、何も言わずに」
「騙していた?」
彼は苦笑した。
「君は三年間、自分の命を賭けて私を守っていた。それを騙していたとは言わない」
「けれど——」
「リーゼル」
彼の手が、私の頬に触れた。
「私は愚かだった。君の隣にいながら、君の想いに気づかなかった。だから今度こそ、君を守らせてくれ。君が私にしてくれたように——いや、それ以上に、君を大切にすると誓う」
涙が、頬を伝った。
三年間、泣かなかった。毒を飲んで死にかけても、一度も泣かなかった。
けれど今、涙が止まらなかった。
「……ずるい」
声が震えた。
「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
「断ってほしくない」
彼が微笑んだ。初めて見る、柔らかな笑みだった。
「君の答えを聞かせてくれ、リーゼル」
私は、涙を拭った。
そして——
「……お受けいたします」
広間に歓声が上がった。
ヴェルナーが立ち上がり、私を抱きしめた。
「ありがとう」
耳元で囁かれた言葉が、温かかった。
「もう二度と、君を一人で戦わせない。約束する」
私は、その胸に顔を埋めた。
三年間、守り続けた人。死んでもいいと思うほど、愛した人。
その人が今、私を守ると言ってくれている。
「……お願いがあります」
「何だ」
「もう、毒見役はしなくていいですか」
彼は笑った。優しく、温かな笑い声だった。
「当然だ。もう二度と、君に毒など飲ませない」
「よかった」
私も、笑った。三年ぶりに、心から。
数週間後。
ヴェルナー・フォン・ヴァイスハルト公爵とリーゼル・フォン・ヴェステンドルフ伯爵令嬢の婚姻が、正式に発表された。
「リーゼル」
名前を呼ばれて、振り返った。ヴェルナーが、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「食事の用意ができた」
「はい」
立ち上がろうとした瞬間、彼が私の手を取った。
「先に、私が味見をしてもいいか」
「……え?」
「三年間、君がしてくれていたことだ。今度は私がやる」
「いえ、もう毒なんて——」
「念のためだ。君を守ると約束した」
私は、思わず笑ってしまった。
「……ヴェルナー様、それは過保護です」
「三年分、取り戻す必要がある」
彼は私の手を引いて、食堂へと歩き出した。
「これからは、私が君を守る。毒見も、危険なことも、全て私がやる」
「いえ、だから——」
「異論は認めない」
振り返った彼の瞳は、真剣そのものだった。
「君は三年間、十七回も死にかけた。その借りを返すには、私が一生かけて君を守っても足りない」
「……一生」
「ああ、一生だ。だから覚悟しておいてくれ、リーゼル。私は、君を死ぬまで手放さない」
私は、彼の手を握り返した。
「……分かりました」
「よろしい」
「でも、毒見だけは私がやります」
「何?」
「だって——」
私は微笑んだ。
「貴方を守るのは、私の役目ですから」
ヴェルナーは目を見開いた。そして——笑った。
「強情な女だ」
「お互い様です」
私たちは、笑い合いながら食堂へと向かった。
窓の外では、春の陽光が輝いていた。
三年間、毒を飲み続けた日々は終わった。
これからは、彼と一緒に、穏やかな日々を生きていく。
その手を、もう離さない。




