第8章:プレハブの主と、放課後の密約
確保(拉致)
中間テストの最終日。
最後の科目のチャイムが鳴り響いた瞬間、教室は解放感に包まれた。
俺、古田降太も机に突っ伏し、泥のように息を吐いた。数学の裏面が白紙だったことなど、今は忘れたい。
「帰ろう……。今日はもう、家で寝るんだ……」
俺はふらふらと昇降口へ向かった。
生徒たちでごった返す廊下。
その雑踏の中を歩いていた、その時だった。
ガシッ。
背後から、巨大な万力のようなもので肩を掴まれた。
逃げ場はない。完璧なロックだ。
「よお、少年。テストはお疲れかな?」
耳元で囁かれた、低く、しゃがれた声。
恐る恐る振り返ると、そこには黒いスーツにサングラスの巨体が、壁のように立っていた。
加藤校長だ。
「ひっ、こ、校長先生!?」
「静かに。……ちょっと、ツラ貸せや」
校長はニカっと笑うと、俺の肩を抱き寄せた。
傍から見れば「生徒を労う優しい校長先生」の構図だ。すれ違う生徒たちも「あ、カトーちゃんだ!」「一年生と仲良いね〜」なんて手を振っている。
だが、俺の肩に食い込む指の力は、完全に**「連行」**のそれだった。
「あ、あの、俺、これから用事が……」
「あるだろうな。だが、こっちが先だ」
抵抗は無意味だった。
俺はそのまま、校庭の隅にポツンと建つ、あのプレハブ小屋へと強制連行された。
コックピット
プレハブの前に立つと、中から微かな機械音が聞こえた。
校長は慣れた手つきで鍵を開け、俺を中へと押し込んだ。
「入れ」
重厚な声と共にドアが閉められ、ガチャリと鍵がかけられる。
密室だ。
そして、その内部は、俺の想像していた「校長室」とは全く違っていた。
狭い。
六畳ほどのスペースには、壁一面にモニターが並び、校内の至る所(特に旧校舎周辺)を映し出している。
デスクの上には、分厚いファイルや古びた文献が山積みにされ、部屋の隅にはなぜかサバイバルキットや登山用具が無造作に置かれている。
ここは校長室というより、**「前線基地 (ベースキャンプ)」**だ。
その中央。
革張りの回転椅子に深々と座り、サングラス越しにモニターを睨んでいた加藤校長が、ゆっくりとこちらを向いた。
「座れ」
顎で示されたパイプ椅子に、俺は縮こまって座った。
校長はサングラスを外し、机の上に置いた。
露わになったその瞳は、79歳という年齢を感じさせないほど鋭く、そしてどこか猛禽類を思わせる強い光を宿していた。
「単刀直入に聞くぞ、古田。……『茨』の味はどうだった?」
「えっ……?」
俺は息を呑んだ。
茨。それは、一昨日の夜、パラレルワールドで角田先生の魂が生み出した、あの拒絶の植物のことだ。
現実世界では、誰も知らないはずの言葉。
「なんの、ことでしょうか……」
「とぼけるな。お前が角田と山口をくっつけたおかげで、学校の空気が随分と美味くなったと言っているんだ」
校長はニヤリと笑った。その笑顔は、あちらの世界にいる**加藤起太郎先生(冒険家)**の豪快な笑みに、不気味なほどよく似ていた。
「いいか、古田。この学校には**『流れ』**がある。生徒たちの感情、悩み、そして悪意。それらが澱めば毒になり、流れれば糧になる」
校長は立ち上がり、俺の前に立った。
背は丸まっているが、その存在感は巨人そのものだ。
「お前は、その流れに触れた。しかも、生きたまま帰ってきた」
校長の大きな手が、俺の肩を掴んだ。
その手からは、以前裏庭で会った時と同じ、不思議な温かさが伝わってくる。
「あそこの**『管理者』**も、お前のような威勢のいい新人を歓迎しているようだ」
(管理者……加藤先生のことか?)
俺は混乱した。
この人は、あちらの世界の加藤先生と知り合いなのか? それとも、先生が校長に報告しているのか?
だが、校長の口ぶりは、まるで「自分のこと」のように自信に満ちている。
「古田。お前に一つ、忠告と……依頼がある」
校長は声を潜めた。
「いいか。あちらの世界は魅力的だ。特に、あの場所(園芸部)の主は、寂しがり屋で、人を惹きつける魔力を持っている」
櫻子先輩のことだ。
「深入りすれば、魂ごと持っていかれるぞ。……だが、お前にはその『魔力』に耐えうるだけの、図太さと鈍感さがあるようだ」
「褒められてる気がしないんですけど……」
「褒めているんだ。だから、頼む」
校長は、机の引き出しから一つの鍵を取り出し、俺に差し出した。
それは、古びた真鍮の鍵で、見覚えのある「百葉箱の鍵」とは少し形が違っていた。
「これは、**『屋上』**の鍵だ」
「屋上?」
「通常は立ち入り禁止だが、特別に許可する。……あそこは、この学校で一番空に近い場所だ」
校長は意味深に天井を指差した。
「最近、空の『色』がおかしい気がするんだ。長年の勘だがね。……あちら側の空気を吸い、あちら側の食べ物を食べているお前なら、私には見えない何か――**『違和感』**のようなものを感じ取れるかもしれん」
校長は、俺の能力(霊感)を知っているわけではない。
ただ、俺が「あちら側の住人」になりかけているからこそ、普通の生徒には分からない「予兆」を察知できると踏んでいるのだ。
それは、俺が職員室の「嫌な空気」を感じ取ったのと同じ理屈かもしれない。
「……わかりました。何か変な感じがしたら、どうすれば?」
「その時は、すぐに百葉箱へ走れ。向こうの『専門家』たちに対処を仰げ」
校長は再びニカっと笑い、サングラスをかけ直した。
「報酬は、次のテストの赤点免除……と言いたいところだが、まあ、食堂の食券で手を打とう。カツ丼大盛りだ」
そう言って渡された食券は、なぜか少し、甘いクッキーの香りがした。
一番高い場所へ
一番高い場所へ
放課後。
俺は食券をポケットにしまい、渡された真鍮の鍵を握りしめて階段を駆け上がった。
目指すは本校舎の最上階、そのさらに上。屋上への扉だ。
普段は施錠されていて、誰も入ることができない聖域。
俺は少し緊張しながら、鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチャリ。
重たい金属音が響き、ノブが回る。
俺は鉄の扉を押し開け、夕暮れの風が吹き抜ける屋上へと足を踏み出した。
「うわ……」
視界が一気に開ける。
コンクリートの地面と、フェンス。そして頭上には、どこまでも広がる空。
グラウンドでは野球部やサッカー部が声を上げ、校舎からは吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくる。
ここまでは、ごくありふれた放課後の風景だ。
「空の『色』がおかしい、か……」
俺はフェンスに歩み寄り、校長が気にしていた空を見上げた。
西の空は茜色に染まり、東の空は群青色に沈もうとしている。
一見すると、綺麗な夕焼けだ。
だが。
俺の目は、見てしまった。
「……なんだ、あれ」
俺は目を凝らした。
校庭の隅。木々に囲まれてひっそりと佇む**「旧校舎」**。
その真上の空だけが、明らかにおかしい。
雲がないのに、そこだけ空気が**「濁って」**いる。
まるで、透明な水に黒いインクを一滴垂らしたときのように、薄暗い靄のようなものが、ゆらゆらと空に滲んでいるのだ。
「あんな雲、あるわけない……」
俺は周囲を見回した。
グラウンドの生徒たちも、校舎の窓から顔を出している生徒も、誰一人としてあの空に注目していない。
彼らには見えていないのだ。
あの空のシミは、**「あちら側」の住人になりかけた俺(と加藤校長)にしか見えない「歪み」**なのだ。
境界の綻び
俺はフェンスを握りしめ、そのシミを見つめた。
シミは、旧校舎の屋根から立ち上る陽炎のように、ゆらゆらと揺れている。
――ズズッ。
不意に、耳鳴りがした。
いや、音じゃない。気圧が変わったときのような、鼓膜を押される感覚。
あのシミの奥から、「何か」が溢れ出そうとしているような、強烈な圧迫感を感じる。
「……気持ち悪い」
それは、職員室で感じた「人間関係の淀み」とは比べ物にならない。
もっと根源的で、生理的な嫌悪感を催すような、ドス黒い気配。
まるで、世界の天井にヒビが入って、そこから向こう側の「泥」が漏れ出してきているようだ。
(あれが……校長の言っていた『違和感』か)
俺は寒気を感じて、二の腕をさすった。
まだ「何か」がいるわけじゃない。でも、このまま放っておけば、あのヒビは広がって、取り返しのつかないことになるかもしれない。
その時、ふと視界の端で何かが動いた。
旧校舎の裏庭。ボロボロの百葉箱の近くだ。
誰かが立っている。
目を凝らすと、それはセーラー服を着た少女のように見えた。
櫻子先輩?
いや、そんなはずはない。先輩はいつもの「あちら側」の園芸部にいるはずだ。
それに、あそこは立ち入り禁止の廃墟だ。普通の生徒が入れる場所じゃない。
だが、その少女は、空に浮かぶ「黒いシミ」をじっと見上げていた。
「……先輩?」
距離があって表情までは見えない。
だが、その佇まいは、間違いなく櫻子先輩のものだった。
彼女は、空の異変に怯えているようには見えなかった。
むしろ、懐かしむように、あるいは待ちわびるように、その不吉な空を眺めているように見えた。
俺が瞬きをした瞬間、空のシミがフッと薄れ、夕闇に溶けて消えた。
同時に、旧校舎の裏庭にいた人影も、幻のように消え失せていた。
後に残ったのは、ただの少し暗くなった夕焼け空だけ。
「……報告だ」
俺は震える足で立ち上がった。
見間違いかもしれない。でも、もしあれが本当に先輩だったとしたら、彼女は現実世界にも干渉できるということになる。
百葉箱に行って、加藤先生(冒険家)と櫻子先輩に伝えないといけない。
俺たちの頭上で、**「世界にヒビが入り始めている」**ことを。
俺は屋上の扉を閉め、鍵をかけると、全速力で階段を駆け下りた。
ポケットの中の食券(カツ丼大盛り)を握りしめる。
これを使って腹ごしらえをしたら、今夜もまた、「あちら側」へのダイブだ。




