第7章:恋する乙女と、茨の迷宮
巨大なガチムチマッチョと、小柄な女性のカップルっていいよね。
プロローグ:優しき巨人の憂鬱
1年B組担任、角田 角
中間テスト前の体育の授業。
グラウンドには、野太い号令と、生徒たちの悲鳴(歓声?)が響いていた。
「よし、次は走り込みだ! 大地を蹴れ! 地球を回すつもりで走るんだ!」
熱血指導を飛ばしているのは、俺たち1年B組の担任であり、体育教師の角田 角先生だ。
名前の通り、カクカクとした四角い輪郭。
ジャージの上からでも分かる、岩石のような筋肉の鎧。
身長190センチ超えの巨体は、生徒たちから「進撃の角田」「優しきゴリラ」と畏怖(と親しみ)を込めて呼ばれている。
「……はぁ、はぁ。先生、ペース早すぎ……」
俺が息を切らして膝をつくと、巨大な影が差した。
見上げると、角田先生が心配そうに俺を見下ろしていた。サングラス越しの校長とは違う、つぶらで真っ直ぐな瞳だ。
「大丈夫か、古田。無理はいかんぞ。水分補給だ」
先生はそう言うと、片手で軽々と――まるで空き缶でも扱うように――俺の脇に腕を差し入れ、ヒョイっと抱き上げた。
「うわっ!?」
「日陰まで運ぶ。じっとしてろ」
抵抗する間もなく、俺は米俵のように抱えられ、テントの下まで運ばれた。
この安定感。そして、乱暴に見えて、決して痛くない力加減。
俺は、ある記憶を思い出していた。
「……あの、先生」
「ん? なんだ、どこか痛むか?」
「いえ。……もしかして、ファールボールが当たった時と、教室で椅子から落ちた時。保健室まで運んでくれたのって、角田先生ですか?」
俺が訊ねると、先生は少しバツが悪そうに太い首をかいた。
「ああ。お前、よく気絶するからな。保健室のベッドまでダッシュだ。……軽かったぞ、もっと飯を食え」
ぶっきらぼうだが、温かい言葉だった。
俺が何度も「死の淵」を見ていた時、現実世界で俺の体を守り、運んでくれていたのはこの人だったのだ。
改めて見ると、ゴリラのような厳つい顔の中に、慈愛のようなものが滲んでいるのが分かる。
(なんだ。校長先生より、よっぽどいい人じゃないか)
俺は心の中で、この「優しき巨人」に感謝した。
不器用な遭遇
放課後。
俺はボランティア部の活動(という名の空き缶潰しの手伝い)を終え、職員室へ日誌を出しに行った。
そこで、決定的な場面を目撃してしまった。
職員室の入り口。
ボランティア部顧問の山口綾華先生が、大量のプリントの束を抱えて、よろよろと歩いていた。
その向こうから、角田先生が歩いてくる。
(あ、角田先生だ)
角田先生は、山口先生の姿を認めると、パッと表情を明るくした。
分かりやすい。誰がどう見ても、彼は山口先生に気がある。
彼は慌てて駆け寄り、何か声をかけようとした。
「あ、あのっ! や、山……!」
しかし、緊張しているのか、声が大きくなりすぎる。
さらに、焦ったせいで、助けようとして伸ばしたその丸太のような腕が、まるで「獲物を捕獲する熊」のような勢いで山口先生に迫ってしまった。
「ひゃっ!?」
山口先生が悲鳴を上げ、身をすくませる。
その拍子に、プリントの束がバラバラと床に散らばった。
「あ……」
「す、すまん! 違うんだ、俺はただ……!」
角田先生は真っ赤になって、巨大な体を小さく縮こまらせた。
そして、壊れ物を扱うような手つきでプリントを拾おうとするが、指が太すぎて紙が上手くつまめない。焦れば焦るほど、彼の不器用さが空回りする。
「だ、大丈夫です角田先生! 私がやりますから!」
「いや、しかし……俺が驚かせたせいで……」
「いいんです! ……ごめんなさい、私、急ぎますので!」
山口先生は逃げるようにプリントを拾い集め、早足で去っていった。
その背中には、「怖い」「怒鳴られた」という怯えと、「私なんかに構わないで」という卑屈なオーラが漂っていた。
残されたのは、廊下の真ん中でうなだれる、巨大なゴリラ……もとい、角田先生。
「……また、やってしまった」
先生の呟きが聞こえた。
その背中は、この世の終わりのように小さく、寂しげに見えた。
(……不器用すぎる)
俺は物陰で頭を抱えた。
角田先生は「助けたい」だけなのに、見た目と口下手のせいで「威圧」になってしまっている。
そして山口先生は、自分に自信がないせいで、それを「怒られている」と勘違いしている。
完全なるすれ違いだ。
そして、この二人の間に渦巻く、
角田先生の「俺なんてどうせ怖がられる」という自己嫌悪。
山口先生の「私なんてどうせ愛されない」という自己否定。
ただの気まずさじゃない。もっとこう、肌にまとわりつくような、ドス黒く淀んだ嫌な空気が、職員室周辺に充満していくのを感じた。
お婆さんの件で、自分に『人には見えないもの』が見えていることは自覚し始めたけれど、これは霊を見るのとは違う。もっと生々しい、危険な気配だ。
「……これは、まずい気がする」
俺の直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
放っておけば、この学校で何かが壊れてしまうような、そんな嫌な予感がした。
その日の夜。
居ても立ってもいられなくなった俺は、メモ帳とペン、そして百葉箱に入っていた「安全なワープ装置(びっくり箱)」を持って、旧校舎の裏庭へと向かった。
「頼むぞ、セーフティ・ワープ」
俺は覚悟を決めて、箱の蓋を開けた。
バヂィィィン!!
赤いボクシンググローブが、俺の意識を慈悲なく刈り取った。
前編:昼下がりの召喚儀式
「……痛っ」
目を覚ますと、そこはいつもの園芸部――ではなかった。
薄暗い。
窓の外は昼間のはずなのに、分厚い雲に覆われたように薄暗く、部屋全体が異様な圧迫感に包まれている。
「なんだ、これ……」
床を見渡して、俺は絶句した。
茨だ。
指のように太く、鋭いトゲを持った黒緑色の植物が、床を這い、壁を侵食し、プランターの花々を締め上げるようにしてのたうっている。
まるで、眠れる森の美女の城だ。ただし、美しさは微塵もない、拒絶と痛みの結界。
「あら、来たのね。ちょうどよかったわ」
部屋の中央。
茨の海の中で、櫻子先輩だけが優雅にティーカップを傾けていた。その周囲だけ、結界のように茨が避けている。
先輩は、天井の方を見上げていた。
「先輩、これはいったい……」
「静かに。今、『大物』が釣れるところよ」
先輩がスッと指を差した。
つられて俺も天井を見上げる。
そこには、現実世界と繋がっているかのように、ぼんやりとした「映像」が浮かんでいた。
職員室のデスクだ。
そこで、巨大な背中を丸め、突っ伏して眠っている男がいる。
角田先生だ。
「先生……寝てる?」
「ええ。自己嫌悪で疲れ果てて、深い眠りに落ちているわ。無防備で、とっても美味しそうな魂」
先輩は妖しく微笑むと、天井に向かって手を伸ばした。
その手から、不可視の糸――あるいは蜘蛛の糸のようなもの――が伸びていく。
「おいで。あなたのその重たい荷物、私が預かってあげる」
先輩がクイクイっと手を手繰り寄せた、その時だ。
ズズズッ……。
天井の映像が波打ち、そこから「何か」が垂れてきた。
スライムのような、半透明の光の塊。
いや、違う。
それは、角田先生の形をしていた。
「う、うわああああ!?」
俺は腰を抜かした。
眠っている現実の肉体から、魂だけが引き剥がされ、天井をすり抜けて、この部屋にズルズルと引きずり出されてくるのだ。
まるで、重力に逆らって水飴が落ちてくるような、不気味で圧倒的な光景。
「重いわねぇ。さすが、体格通りの質量の持ち主だわ」
先輩は楽しそうに、さらに強く糸を引いた。
ドスンッ!!
地響きと共に、角田先生の魂が、園芸部の床に着地した。
拒絶の迷宮
着地した角田先生は、現実世界と同じジャージ姿だった。
だが、その表情は虚ろで、焦点が定まっていない。
そして、何より異様なのは――。
バリバリバリバリッ!!
先生が着地したその足元から、爆発的に茨が噴き出したのだ。
その速度は異常だった。
瞬く間に数本の茨が太く成長し、蛇のようにのたうち回りながら、部屋の空間を埋め尽くしていく。
「うわっ、危ない!」
俺は慌てて飛び退いた。
トゲの一つが、俺の頬をかすめる。幻影のはずだが、ヒリヒリとした痛みを感じた。
「これが……角田先生の『存在の形』?」
「そうよ」
櫻子先輩は、自分の周りに茨が来ないよう、指先で花びらを散らして結界を張りながら解説した。
「『俺なんて』『どうせ傷つける』『近寄るな』……。そんな強烈な自己否定と拒絶の心が、この世界ではこういう形(トゲだらけの茨)になって現れるの」
先輩は、茨の中心で膝を抱えてうずくまる角田先生(魂)を見つめた。
その巨体は、自らが生み出した茨の檻に閉じ込められ、小さく震えている。
「可哀想に。誰よりも優しいのに、自分のトゲで自分を傷つけているのね」
先輩の声には、同情と、それ以上の興味――「こんなに立派な悪意(自虐)の花材は珍しいわ」という、コレクターとしての興奮が含まれていた。
「さて、ふるふる君。どうする? このまま放っておけば、この茨は校舎全体を飲み込んで、ここは『眠れる森のゴリラ』の城になっちゃうわよ」
「そ、それは困ります! なんとかしないと……!」
俺は叫んだ。
これは、ただの園芸トラブルじゃない。
この茨を取り除かなければ、現実世界の角田先生も、永遠に自己嫌悪の闇から抜け出せなくなってしまう。
「加藤先生! 加藤先生はいませんか!?」
俺は頼れる冒険家の名前を呼んだ。
この物理的な障害(茨)をどうにかできるのは、あの人しかいない。
「呼んだか、少年!」
ガシャーン!
窓ガラス(幻影)が割れる音と共に、ベランダから一人の男が飛び込んできた。
手には、巨大なマチェット(山刀)。背中には草刈機。
完全武装の加藤起太郎先生だ。
「おいおい、こりゃあ酷え藪だな! アマゾンの奥地でも、ここまで拒絶的なジャングルはねえぞ!」
先生はニカっと笑い、マチェットを一振りして、目の前の茨を両断した。
「道は俺が切り開く! だが、根っこを絶つのはお前の役目だぞ、ふるふる君!」
魂の剪定
ザシュッ!!
加藤先生のマチェットが唸りを上げ、道を塞ぐ太い茨をなぎ払った。
緑色の体液のような汁が飛び散り、断末魔のような音が響く。
「道は開けたぞ! 櫻子、行くなら今だ!」
「ええ、ありがとう。ナイスカットよ、加藤ちゃん」
櫻子先輩はティーカップを置き、スカートをひらりと翻して、切り開かれた茨の道へと足を踏み入れた。
その姿は、病める患者の元へ向かうナースのようでもあり、生贄の祭壇へ向かう魔女のようでもあった。
茨の檻の中心。
そこには、体育座りで小さく丸まった、巨大な角田先生の魂があった。
「あ、ああっ……来るな……見ないでくれ……」
先生は震えていた。
現実世界での「進撃の角田」の威厳はどこにもない。そこにあるのは、傷つくことを恐れる、繊細すぎる少年の心だ。
「怖い……俺は怖い……。俺が手を伸ばすと、みんな壊れてしまう……」
「あら、そう? 私は壊れないわよ」
櫻子先輩は、角田先生を囲む鋭いトゲを、素手で愛おしそうに撫でた。
指先から血が滲むこともない。彼女はこの世界の「主」だからだ。
「綺麗な『拒絶』ね。自分を守るためじゃなく、他人を傷つけないために、自分を檻に閉じ込める。……ふふ、なんて健気で、歪んだ優しさなのかしら」
先輩はうっとりと目を細めた。
その表情を見て、俺は背筋が寒くなった。先輩は、角田先生の苦しみを心配しているのではない。その苦しみが生み出す「造形美」を楽しんでいるのだ。
「ねえ、先生。どうしてそんなに自分が嫌いなの?」
先輩が、赤子をあやすような優しい声で囁く。
角田先生の虚ろな瞳が、ゆっくりと先輩を見上げた。
「……あの子は、花みたいに小さいんだ」
「あの子?」
「山口先生だ……。俺なんかが近づいたら、踏み潰してしまう。日陰を作って枯らせてしまう……」
先生の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
その涙が床に落ちると、そこからまた新しい茨が芽吹こうとする。
「助けたかっただけなんだ……。荷物が重そうだったから。でも、俺の手は大きすぎて……彼女を怯えさせてしまった……。俺は、化物だ……」
「いいえ、違うわ」
櫻子先輩が、角田先生の巨大な頬に両手を添えた。
そして、顔を近づけ、その瞳の奥を覗き込む。
「あなたは化物じゃないわ。ただの、**『不器用な大型犬』**よ」
「……犬?」
「そう。大好きだからじゃれつきたいのに、力が強すぎて怖がられちゃう、可哀想なワンちゃん。……でもね、その『私なんて』っていう卑屈な毒は、いただけないわね」
先輩の目が、冷たく、鋭く光った。
「その毒は、あなた自身を腐らせるだけじゃなく、周りの空気も淀ませる。あなたが『どうせ俺なんて』と思えば思うほど、相手の女性も『私なんて嫌われてる』って思い込む……。これは、不幸の連鎖を生む『呪い』の種よ」
櫻子先輩は、添えていた手をスッと動かし、角田先生の胸のあたりに指を突き立てた(ように見えた)。
「だから、少しだけ**『間引き』**してあげる」
先輩が腕を引くと、角田先生の胸から、ドス黒い靄のようなものがズルズルと引き抜かれた。
それは、先生の「自己嫌悪」の塊だ。
「う、うあぁぁ……」
角田先生が心地よさそうな、あるいは苦しそうな声を上げる。
引き抜かれた黒い靄は、先輩の手の中で圧縮され、やがて一粒の**「黒い種」**へと変わった。
「はい、おしまい」
先輩が手を離すと、角田先生の表情から悲壮感が消え、安らかな寝顔へと変わっていた。
周囲の茨の成長も止まり、少しだけ勢いが衰えたように見える。
「す、すごい……。茨が止まった」
俺が感嘆の声を上げると、加藤先生がマチェットを肩に担いで戻ってきた。
「応急処置完了だな。だが、これはあくまで『ガス抜き』だ。根本的な解決にはなってねえ」
櫻子先輩が、手に入れたばかりの「黒い種」をハンカチに包みながら頷く。
「ええ。私が抜いたのは、溢れ出していた『自己嫌悪』だけ。現実にある『すれ違い』という根っこを断たない限り、彼はまたすぐに毒を溜め込んで、新しい茨を生み出すわ」
先輩は、俺の方を向いた。
その瞳は、今までの楽しげなものから、部長としての真剣な眼差しに変わっていた。
「ふるふる君。ここから先は、あなたの仕事よ」
「俺の……?」
「そう。現実世界に戻って、あの二人の『認識』を変えてきなさい。この茨の迷宮を、祝福の花園に変えられるのは、生きた人間であるあなただけよ」
加藤先生が、俺の背中をバンと叩いた。
「行け、少年! 愛のキューピッドになってこい! 俺たちはここで、このデカブツ(魂)が暴れないように抑えておく。期限は明日の朝までだ!」
「……わかりました!」
俺は頷いた。
やることは見えた。
角田先生は「怖い」と思われていると誤解し、山口先生は「嫌われている」と誤解している。
この不器用すぎるボタンの掛け違いを、俺が直すんだ。
「行ってきます!」
俺が力強く宣言した、その時だった。
園芸部に充満する濃厚な花の香り――そして、先ほど精製された「自己嫌悪の種」から漂う独特の刺激臭が、俺の鼻の粘膜を強烈に刺激した。
「あ、やば……」
鼻の奥がムズムズする。
帰還の合図だ。
「へっ、くちゅん!!」
盛大なくしゃみが弾けた。
視界が白く歪み、加藤先生の「頼んだぞ!」という声と、櫻子先輩の「良い報告を待ってるわ」という声が、遠くへ吸い込まれていく。
世界が反転する。
俺は茨の迷宮から、現実の夜へと放り出された。
第7章:恋する乙女と、茨の迷宮(解決編)
決死のボランティア作戦
翌日の火曜日、放課後。
俺はボランティア部の部室に飛び込み、玄田部長に一つの提案を持ちかけた。
「部長! 今日の活動ですが、裏庭にある**『大銀杏』の剪定**をやりませんか?」
「剪定? 確かにあそこは枝が伸び放題で危険だが……我々の装備でできるか?」
「高いところは先生にお願いしましょう。俺、助っ人を呼んできます!」
俺は部長の返事も待たずに駆け出した。
狙いは、昨日の強風で折れかかっている太い枝の撤去。
高所作業。そして力仕事。
あの二人が協力せざるを得ない状況を作り出すのだ。
俺はまず、体育教官室へ向かった。
そこには、昨日の「魂の抜け殻」状態から少し回復したものの、まだどんよりと暗いオーラを背負った角田先生がいた。
「先生! ボランティア部です! 裏庭で力仕事があるんですけど、手伝ってもらえませんか!?」
「……俺か? だが、俺が行くとまた何か壊してしまいそうで……」
「先生の筋肉が必要なんです! お願いします!」
俺は強引に先生の腕(丸太のように太い)を引っ張り、現場へと連れ出した。
剪定と落下
裏庭に到着すると、すでに山口先生が脚立に登り、ノコギリを構えていた。
彼女は顧問として、生徒に危険な作業をさせまいと張り切っているのだ。だが、その腰は引けている。
「ひぃ……結構高いわね……。でも、私がやらなきゃ……」
山口先生は震える手で、頭上の太い枝にノコギリを当てた。
そこへ、俺と角田先生が到着した。
「あ、山口先生!」
「ひゃっ!?」
俺の声に驚いたのか、それとも角田先生の巨体を見て萎縮したのか、山口先生がビクリと肩を跳ねさせた。
角田先生が、申し訳無さそうに身を縮める。
「す、すまん……。俺が代わろうか?」
「い、いえ! 大丈夫です! 角田先生にお手間は取らせませんから!」
山口先生は、先生の優しさを「役立たずは退いていろ」という圧力だと勘違いし、ムキになってノコギリを動かし始めた。
――ギコ、ギコ、メキッ。
嫌な音がした。
狙っていた枝ではない。先生が体重を預けていた方の枝が、腐っていたのだ。
「あっ――」
バキィッ!!
乾いた破断音と共に、山口先生の体が宙に投げ出された。
高さは3メートル。下はコンクリート。
落ちればただでは済まない。
「きゃあああああ!」
「先生!!」
俺たちが悲鳴を上げた、その時だった。
ドスッ!!
地面を蹴る重い音が響いた。
誰よりも速く、黒い影が動いた。
それはまるで、獲物を追う猛獣のような――いや、雛鳥を守る親鳥のような速さだった。
「危ないっ!!」
角田先生が、落下地点に滑り込み、その太い両腕を大きく広げた。
そして。
ドスン。
まるで綿毛を受け止めるかのように、優しく、確実に。
角田先生は、落下してきた山口先生を**「お姫様抱っこ」**で受け止めていた。
解かれた誤解
時が止まったようだった。
角田先生の極太の腕の中で、山口先生が目を白黒させている。
衝撃はゼロ。190センチの巨体がクッションとなり、完璧に衝撃を吸収していたのだ。
「……け、怪我はないか!?」
角田先生が、血相を変えて叫んだ。その顔は、恐怖させるような強面ではなく、大切なものを失いかけた男の、必死な形相だった。
「あ……う……」
「すまん! また驚かせてしまったな。俺みたいなデカブツが触って……」
先生は慌てて山口先生を下ろそうとした。
だが、その手が震えていることに、山口先生は気づいたようだった。
「……怖かった」
「えっ?」
「怖かったんです、角田先生のこと。……いつも怒っているみたいで、私みたいなドジな女、イライラさせてるんじゃないかって」
山口先生が、消え入りそうな声で本音を漏らした。
角田先生は目を見開き、そして力強く首を振った。
「違う! 滅相もない!」
先生の声が裏返った。
「怒ってなどいない! 俺はただ、あんたが……あんたが、花みたいに小さいから! 俺が近づいたら、折れてしまうんじゃないかって、怖くて……だから、つい力が入ってしまって……!」
角田先生は真っ赤になって、一気にまくし立てた。
それは、不器用な男の、精一杯の告白だった。
「え……?」
山口先生が、ぽかんと口を開けた。
そして、みるみるうちにその顔が赤く染まっていく。
「は、花みたい……? 私が?」
「あ、いや、その……すまん、気持ち悪い例えを……」
「いいえ!」
山口先生が、角田先生のジャージの袖をギュッと掴んだ。
「……嬉し、いです。私、重くなかったですか?」
「重いもんか! 羽毛布団より軽かった!」
角田先生が即答する。
その言葉に、山口先生がついに吹き出した。
「ふふっ……羽毛布団って。先生、やっぱり変わってますね」
「う……笑った顔、初めて見た」
二人は至近距離で見つめ合い、そしてどちらからともなく照れ笑いを浮かべた。
その瞬間。
二人を包んでいた、あのドス黒くて重苦しい空気が、春の雪解けのようにスゥーッと消えていくのが分かった。
代わりに、あたりがパッと明るくなったような、温かくて甘い雰囲気が漂い始める。
目に見えるわけじゃない。でも、確かに空気が変わった。
「よしっ!」
俺は物陰で小さくガッツポーズをした。
ミッションコンプリートだ。
エピローグ:茨の消滅
その日の夜。
俺は確認のために、百葉箱から「びっくり箱」を取り出し、三度目のワープを行った(もう顎が限界だ)。
「……おお」
園芸部に到着した俺は、感嘆の声を上げた。
あんなに部屋を埋め尽くしていた、おどろおどろしい茨の檻が、跡形もなく消え去っていたのだ。
代わりに、部屋の片隅には、小さな可愛らしいバラの蕾がついた鉢植えが置かれていた。
「ご苦労だったな、少年」
テラスでコーヒーを飲んでいた加藤先生(冒険家Ver)が、サムズアップを送ってきた。
「あの大男(魂)も、憑き物が落ちたみたいにスッキリして帰っていったぞ。今頃、現実世界じゃあ、いい夢見てるんじゃねえか?」
「ええ。もう大丈夫だと思いますよ」
俺は笑って答えた。
ふと見ると、櫻子先輩がその新しいバラの鉢植えに水をやっていた。
「あら、ふるふる君。いい仕事をしたわね」
「先輩。そのバラは?」
「あの二人から抜け落ちた、最後の『棘』よ。綺麗なピンク色のバラが咲きそう」
先輩は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
悪意やネガティブな感情だけでなく、こうした「恋の障害」さえも、彼女にとっては美しいコレクションになるらしい。
「さあ、お祝いにお茶にしましょう。あなたの好きな、オバQクッキーもあるわよ」
平和な夜の園芸部に、3人の笑い声が響いた。
こうして、俺の2つ目の任務は、ハッピーエンドで幕を閉じたのだった。




