第6章:氷の教室と、沈丁花の約束
アーケードの守り人
5月も下旬に差し掛かり、中間テストの足音が近づいてきた頃。
俺、古田降太の日常は、奇妙な安定を見せていた。
毎朝、登校中に「クッキー」をひとかけら食べる。これで存在の希薄化を防ぐ。
そして、通学路にある商店街のアーケードをくぐる。
頭上には、古びた横断幕が掲げられている。
『おはよう! 元気な挨拶、明るい町』
この地域では、小学生の頃から**「このアーケードの下では、大きな声で挨拶をする」**というのが鉄の掟であり、風俗習慣になっている。
だから、登校中の生徒たちは皆、ここで立ち止まり、誰に言うでもなく元気よく声を張り上げるのだ。
「おはようございまーす!」
「ういーっす」
前を歩く玄田部長や溝渕先輩も、虚空に向かって挨拶をして通り過ぎていく。
俺もまた、彼らに倣って足を止めた。
ただし、俺の場合は「相手」がいる。
閉店したタバコ屋の前。
いつものように、竹箒を持った小柄なお婆さんが、ニコニコと立っていた。
「おはようございます、お婆さん!」
俺が頭を下げると、お婆さんは嬉しそうに目を細めた。
「はい、おはよう。降太ちゃんは今日も元気だねぇ。テスト勉強は捗っているかい?」
「あはは、それが全然で……。また赤点かも」
「いけないねぇ。学生の本分は勉強だよ。……ほら、遅刻するよ。行ってらっしゃい」
お婆さんは優しく手を振ってくれた。
俺は「行ってきます!」と返し、小走りで先輩たちを追いかけた。
これが、俺の変わらない日常だ。
……そう思っていた。
「おい、古田」
追いついた俺に、玄田部長が不思議そうな顔を向けた。
「お前、さっき誰と喋ってたんだ?」
「え? 誰って……タバコ屋のお婆さんですけど」
俺が親指で後ろを指すと、部長と溝渕先輩は顔を見合わせた。
「タバコ屋? あそこ、もう5年くらい空き家だろ」
「またまたぁ。毎日掃除してるじゃないですか。ほら、あそこに……」
俺は振り返り、タバコ屋を指差した。
そこには、変わらずお婆さんが立って、箒を動かしている。
「ほら、あそこです」
「……は? 誰もいねえぞ」
溝渕先輩が、本気で不審がるような声を出した。
「お前、寝不足か? シャッター閉まってるし、埃だらけじゃねえか」
「えっ?」
俺は目をこすった。
見える。確かにお婆さんはいる。箒で掃いた地面は綺麗になっているし、優しそうな笑顔もそのままだ。
でも、先輩たちの目には「閉まったシャッター」と「誰もいない空間」しか映っていないらしい。
――まさか。
背筋に冷たいものが走った。
俺は、小学生の頃からずっと、ここを通るたびにお婆さんと挨拶を交わしてきた。雨の日も、風の日も。
みんなが挨拶しているから、てっきりみんなにも見えているものだとばかり思っていた。
でも、もし。
みんなの挨拶が「習慣としての独り言」で、俺の挨拶だけが「会話」だったとしたら?
「……先、行っててください。俺、ちょっと忘れ物しました」
俺は震える声でそう言い、先輩たちを先に活かせた。
そして、恐る恐るタバコ屋の前へと戻った。
幽霊の願い
「……お婆さん?」
俺が声をかけると、お婆さんは「おや、戻ってきたのかい」と変わらぬ笑顔で答えた。
至近距離で見ても、透けていない。ちゃんと足もあるし、竹箒が地面を擦るザッ、ザッという音も聞こえる。
これが幽霊だなんて、信じられない。
「あの、お婆さん……生きて、ますよね?」
失礼を承知で尋ねると、お婆さんはキョトンとし、それから悪戯が見つかった子供のようにクスクスと笑った。
「あらら。とうとうバレちゃったかねぇ」
お婆さんは、箒を壁に立てかけた。その瞬間、箒がすり抜けて、壁の中に吸い込まれるように消えた。
物理法則の無視。決定的な証拠だ。
「ごめんよ、降太ちゃん。あんたがあんまり自然に話しかけてくれるもんだから、嬉しくてねぇ。ついつい、言い出せなくなっちまって」
「じゃあ、やっぱり……」
「ああ。私はもうとっくに死んでるよ。この店を畳んだ時にね」
お婆さんは、懐かしそうに閉ざされたシャッターを撫でた(手は触れずにすり抜けていた)。
「でもね、心残りがあって成仏できなくてね。ずっとここで、ある『匂い』を待っていたんだよ」
「匂い?」
「そう。昔、この店の庭に咲いていた、沈丁花の香りさ」
お婆さんは目を閉じた。
「あの甘くて、春を告げる香り。あれをもう一度だけ嗅げたら、私も旦那のところへ行ける気がするんだけどねぇ……。今の世の中、どこもコンクリートだらけで、とんと見かけなくなっちまった」
沈丁花。春の花だ。今はもう5月下旬。現実世界ではとっくに季節が終わっている。
それに、この辺りで沈丁花が咲いている場所なんて、心当たりがない。
……いや、一箇所だけあるかもしれない。
季節も、場所も、常識も通用しない場所が。
「お婆さん。……ちょっと、待っててくれる?」
俺はリュックのベルトを握りしめた。
テスト勉強で忙しいなんて言ってる場合じゃない。
俺にしか見えないなら、俺がやるしかないんだ。
「その香り、俺が連れてくるよ」
俺は決意を固め、学校へ――いや、旧校舎の園芸部へと向かうために走り出した。
もちろん、安全な(?)ワープの方法を探しながら。
優しい拷問器具
お婆さんに「待ってて」と言ったものの、どうやって向こうの世界へ行くか。それが問題だった。
ファールボール、椅子の転倒、植木鉢。
これまでのワープは全て、命に関わるような事故がトリガーだった。
だが、自ら進んで事故に遭うなんて、そんな芸当ができるわけがない。
(とりあえず、百葉箱だ。先生なら何か考えてくれているかもしれない)
俺は一縷の望みをかけて、旧校舎の裏庭へと急いだ。
昨日の今日だ。まだ「クッキーの原料」のストックはあるはずだから、先生が何か別のものを入れてくれている可能性は低いかもしれないが……。
廃墟の裏庭。ボロボロの百葉箱の前で、俺は祈るように扉を開けた。
そこには、一通の手紙と、見慣れない派手なギフトボックスが入っていた。
『よう、ふるふる君。元気にやってるか?』
手紙は、加藤先生の力強い筆跡だった。
『お前が毎回死にかけてここに来るのは、精神衛生上よろしくない。そこで、俺がとっておきの**「安全な通行手形」**を用意してやった。これを使えば、怪我をせずに、かつ確実にワープできるはずだ』
「……安全な、通行手形?」
俺は期待に胸を膨らませて、そのギフトボックスを手に取った。
赤と黄色で彩られた、ポップな箱だ。側面には**『SURPRISE!!』**というファンキーな文字が踊っている。
先生にしては可愛らしい趣味だ。中には何が入っているんだろう。催眠ガスとか、魔法の粉とか?
俺はワクワクしながら、箱の側面に付いているゼンマイを回し、留め具を外した。
「いざ、オープン!」
パカッ。
バヂィィィン!!
「ぶべらっ!!」
蓋が開いた瞬間、俺の視界は爆発的な衝撃と共に暗転した。
箱の中から飛び出したのは、極太のスプリングに接続された、真っ赤なボクシンググローブ。
それが、音速のごときスピードで、俺の顎を正確無比に撃ち抜いたのだ。
脳が揺れる。意識が飛ぶ。
薄れゆく意識の中で、俺は先生の言葉を呪った。
どこが安全だ、このサディスティックな自称冒険家め……!
極寒の園芸部
「……う、うう」
次に目を覚ました時、俺は強烈な寒気を感じて身震いした。
寒い。とにかく寒い。
制服の夏服一枚では、到底耐えられない寒さだ。
「ここ、は……」
目を開けると、そこはいつもの園芸部だった。
だが、景色が一変している。
窓の外は真っ白な吹雪。ガラスにはびっしりと霜が張り付いている。
そして、教室内。
いつもなら色とりどりの花が咲いているプランターや床は、白や薄ピンクの、可憐だがどこか寒々しい花々で埋め尽くされていた。
「これ……エーデルワイス? こっちはコマクサ……?」
高山植物だ。
園芸部が、まるで標高3000メートルの雪山のような環境になっている。
「あら。生きてたの?」
部屋の奥から、くぐもった声が聞こえた。
見ると、部屋の中央にあるストーブ(七輪)の前で、モコモコのダウンジャケットを着込み、マフラーをぐるぐる巻きにした雪だるまのような人物が、丸くなって餅を焼いていた。
その隙間から見える、不機嫌そうな美しい瞳。
櫻子先輩だ。
「先輩! これ、どうなってるんですか!? 寒すぎますよ!」
「知らないわよ。あなたが全然来ないから、エアコンが壊れちゃったのかもね」
先輩はツンと顔を背けた。
嘘だ。この世界の環境は、住人の心象風景が反映される「領域干渉」のはず。
つまり、この極寒地獄は、先輩の「あなたが来なくて寂しい」「心が寒い」という感情が爆発した結果なのだ。
(め、面倒くさい……いや、可愛いと言うべきか……?)
俺は寒さに震えながら、先輩の隣に駆け寄った。
「す、すみません! テスト勉強とか、ボランティア部とかで忙しくて……」
「ふーん。ボランティア部ね。私より草むしりの方が大事なんだ」
「違いますって! それに今日来たのは、先輩にお願いがあって……」
「お願い?」
先輩がぴくりと眉を動かした。
「実は、タバコ屋のお婆ちゃんが……」
俺は事情を話した。
お婆ちゃんが幽霊だったこと。そして、最後に「沈丁花」の香りを求めていること。
「……なるほどね。あの境界の守り人、とうとう逝くのね」
先輩は餅をひっくり返しながら、静かに呟いた。その声からは、先ほどまでの拗ねた響きが消え、どこか同志を悼むような優しさが滲んでいた。
「でも、残念ね。見ての通り、今のここは真冬の雪山よ。春の花である沈丁花なんて、咲くわけがないわ」
先輩は、凍りついた窓を指差した。
確かに。この環境で沈丁花を咲かせるなんて、物理的に不可能だ。
「そんな……。じゃあ、お婆ちゃんは……」
「諦めるのはまだ早えぞ、少年!」
突然、天井の方から野太い声が降ってきた。
ドスン! という音と共に、梁の上から一人の男が飛び降りてきた。
分厚い登山用のパーカーに、ピッケルを背負い、足にはアイゼン。完全なる雪山装備の加藤先生だ。
「先生! どこにいたんですか!?」
「おう。ちょっとそこの『K2(ケーツー)』登っててな。……まあ、教室の棚が勝手に隆起して山脈になっちまっただけだが」
先生は豪快に笑いながら、ゴーグルを外した。
その顔は、やはり全盛期の精悍な顔つきだ。
「いいか、ふるふる君。ここは心の質量が形になる世界だ。気温だろうが植生だろうが、気合でどうにでもなる」
先生はニヤリと笑い、俺の肩を叩いた(アイゼンで踏まれなくてよかった)。
「お前の『お婆ちゃんを救いたい』って熱意と、櫻子の『園芸部部長』としてのプライド。そして俺の『冒険家』としての技術があれば、雪山に春を呼ぶくらい、朝飯前だろ?」
先生の言葉に、櫻子先輩もふっと笑みをこぼし、マフラーを少し緩めた。
「……仕方ないわね。加藤ちゃんがそこまで言うなら、付き合ってあげる。その代わりふるふる君、対価は高いわよ?」
「はい! 何でもします!」
「じゃあ、まずはこの寒さをなんとかしなさい。私の心が温まらないと、春の花なんて咲かないんだから」
先輩はそう言って、俺に自分の手を差し出した。
その手は氷のように冷たかった。
俺は覚悟を決め、その冷たい手を両手で包み込んだ。
ピンク色の吹雪
俺は覚悟を決め、櫻子先輩の氷のように冷たい手を、両手で包み込んだ。
小さくて、華奢な手だ。
まるで氷細工のように冷え切っている。
「……冷たい」
「でしょうね。私の心象風景が、そのまま気温になってるんだもの」
先輩は自嘲気味に笑い、俺の手から逃れようとするかのように少し身じろぎした。
だが、俺は離さなかった。いや、離せなかった。
俺が来なかったせいで、先輩をこんなに凍えさせてしまった。それが申し訳なくて、そして何より、目の前の先輩があまりに儚くて、今すぐ温めてあげたいという衝動が抑えきれなかった。
(この手を……温めなきゃ)
詳しい事情も、この世界の理屈もよく分からない。
ただ、この人がたった一人で、この広い教室で震えていたことだけは分かる。
俺は必死に、自分の体温を伝えようと念じた。
先輩の手の冷たさが、俺の掌を通じてジンジンと伝わってくる。
もっと、もっと熱く。俺の存在全部を使ってでも、この人を温めたい。
――ボッ。
唐突に、小さな音がした。
俺たちの足元から、ピンク色の何かが舞い上がった。
付箋だ。
――ボボッ、ボフッ!
それを合図に、異常事態が発生した。
俺の足元、壁、天井、あらゆる場所から、次々と付箋が湧き出し始めたのだ。
一枚や二枚ではない。数百、数千。
まるでピンク色の桜吹雪か、噴水のように、無数の付箋が俺たち二人を包み込むように舞い踊る。
「な、なにこれ!?」
「わ、わかんないです! 止まらない!」
俺の感情が高ぶるのに合わせて、付箋の勢いは増すばかりだ。
視界がピンク色に染まる。
先輩が、ふわりと舞ってきた一枚を手に取った。そこには、俺が無意識に念じていた言葉が、走り書きのような文字で刻まれていた。
『温まって』
『一人にしない』
『先輩が好き……な花を咲かせたい』
「……ふふっ」
先輩が吹き出した。
見ると、先輩の頬が、付箋と同じくらいほんのりと赤く染まっていた。
「すごいわね、ふるふる君。あなたの『執着』は、こんなにも熱苦しい色の嵐になるのね」
「あ、あの、それは誤解というか、その……!」
俺は顔から火が出るほど恥ずかしかった。これじゃあ、俺の頭の中身をぶちまけているようなものじゃないか。
だが、効果はてきめんだった。
舞い散る付箋が雪に触れるたび、ジュッという音と共に氷が溶けていく。
俺の「熱意」が物理的な熱量となって、この極寒の世界を温め始めたのだ。
「いいぞ少年! その調子だ! 愛の力で冬将軍をぶっ飛ばせ!」
天井の梁の上から、加藤先生が暑苦しい声援を送ってくる。
俺はヤケクソになって、さらに強く先輩の手を握りしめた。
「先輩! 沈丁花、咲かせましょう!」
「……ええ。これだけ温められたら、咲かないわけにいかないわね」
先輩は、俺の手を握り返してくれた。
その手はもう、冷たくなかった。
春の香り
先輩が、空いた片手を宙にかざした。
俺の付箋の嵐と、先輩の意思が混ざり合う。
「来て、春の使者」
その言葉と共に、部屋を埋め尽くしていた高山植物たちが光の粒子となって消え、代わりに床から力強い緑の芽が一斉に吹き出した。
グングンと伸びる枝。色づく蕾。
そして。
ポン、ポン、と音を立てて、小さな手鞠のような花が開いた。
沈丁花だ。
白と紅色の可憐な花が、部屋一面に咲き誇る。
同時に、あの甘く、どこか切ない春の香りが、爆発的に広がった。
「咲いた……」
雪は消え、窓の外からは柔らかな春の日差しが差し込んでいた。
俺たちは、満開の沈丁花畑の中心で、手を繋いだまま立ち尽くしていた。
「ありがとう、ふるふる君。……すごく、温かいわ」
先輩が、花のような笑顔を見せた。
その笑顔を見た瞬間、俺は確信した。
ああ、俺はこの人のために、これからも何度だって死にかけて、ここに来るんだろうな、と。
最後の挨拶
現実世界への帰還後。
俺は「一時間のタイムラグ」を経て百葉箱から取り出した、包装紙に包まれた**「沈丁花の花束(実体)」**を抱え、タバコ屋へと走った。
夕暮れのアーケード。
そこには、まだお婆さんが立っていた。その体は、朝よりも透けて、今にも消え入りそうだった。
「お婆ちゃん!」
俺は花束を差し出した。
包みを開けた瞬間、あたり一面に濃厚な春の香りが広がった。
「ああ……」
お婆さんは、震える手で花束を受け取り、顔を埋めた。
「いい匂いだ……。懐かしい、あの頃の匂いだねぇ」
お婆さんの目から、光の粒のような涙がこぼれた。
そして、その姿がゆっくりと薄れ、金色の粒子になって崩れ始めた。
「ありがとうね、降太ちゃん。これでやっと、あのアホな旦那に土産話ができるよ」
「お婆ちゃん……」
「あんたも、気をつけるんだよ。**あの子(櫻子)**は寂しがり屋だからね。たまには顔を見せておやり」
お婆さんは最後にそう言い残し、春の風と共に完全に消滅した。
後には、誰もいないタバコ屋と、ただ甘い残り香だけが漂っていた。
「……言われなくても、行きますよ」
俺は誰もいない空間に向かって、深く頭を下げた。
翌日、タバコ屋の前に「忌中」の紙が貼られた。
クラスメイトたちは「あそこのお婆さん、孤独死だったらしいぜ」と噂していたが、俺だけは知っていた。
彼女が最後、満開の春の香りに包まれて旅立ったことを。




