番外編:パン屋の呪縛と、フランスパンの木
時期:古田降太 1年生・5月
料理部の悲劇
放課後の家庭科室。
そこでは、一人の少年が小麦粉まみれになって頭を抱えていた。
1年A組の**木村宗平**だ。
「……ちがう。僕が作りたかったのは、ふわふわのショートケーキなんだ……」
彼の目の前にあるオーブンから焼き上がったのは、黄金色に輝く、香ばしい香り漂う**「食パン(一斤)」**だった。
「なんでだよぉぉぉ!!」
木村くんの実家は、地元で愛される老舗パン屋『キムラベーカリー』。
彼は幼い頃からパンの匂いに包まれ、パン生地を捏ねて育った。骨の髄まで**「パン屋のDNA」**が刻み込まれているのだ。
しかし、彼の夢はパティシエ。
繊細なケーキや洋菓子を作りたいと願い、料理部に入部したのだが……。
「スポンジ生地を作ろうとすると、無意識に強力粉を選んでしまう! メレンゲを泡立てるはずの手が、いつの間にか生地を叩きつけてグルテンを生成してしまう!」
これは呪いだ。
パン屋の息子という、逃れられない血の宿命だ。
彼の背中から、ドス黒い「悩み」の煙が立ち上り、換気扇へと吸い込まれていく。
屋根裏の釣り人
その「煙」を、屋根の上で感じ取った者がいた。
裏世界の園芸部。
西野園櫻子は、優雅に紅茶を飲みながら、虚空を見上げていた。
「……アラアラ。また随分と香ばしい、イースト菌のような悩みね」
彼女の目には、校舎から立ち上る「迷える魂の波長」が見えている。
「放置しておくと、悪意(毒)に変わるわね。……収穫しましょう」
櫻子先輩は、園芸用の長い支柱に、輝く糸(霊力)を垂らした**「釣り竿」**を取り出した。
「一本釣りよ」
ヒュンッ!
糸が壁をすり抜け、現実世界の家庭科室へと伸びていく。
夢の中のお茶会
現実世界。
絶望して机に突っ伏した木村くんの鼻先に、どこからともなく甘い花の香りが漂ってきた。
「……?」
強烈な眠気が襲う。
彼はそのまま意識を手放した。
その瞬間、見えない糸が彼の魂を絡め取り、優しく「あちら側」へと引き上げた。
* * *
「……ハッ!」
木村くんが目を覚ますと、そこは見たこともない美しい花畑だった。
目の前には、白いテーブルセットと、アンティークな制服を着た美少女。
「ようこそ。パン屋の少年」
「え、誰……? ここどこ?」
「ここは心の洗濯屋さん。……あなた、随分と『パン』に愛されているのね」
櫻子先輩は、木村くんの魂にこびりついた「パン生地のような粘着質なオーラ」を見て微笑んだ。
「違うんです! 僕はケーキが作りたいんです!」
木村くんは叫んだ。
初対面の相手なのに、不思議と本音が溢れ出る。
「親父は店を継げって言うし、僕の手は勝手にパンを捏ねるし……。僕は、パン屋の呪縛から逃れられないんでしょうか!?」
「いいえ。それは呪いではないわ。単なる**『強力すぎる習慣』**よ」
先輩は、木村くんの胸に手をかざした。
「あなたの体は、パン作りを『呼吸』のように覚えてしまっているだけ。だから、意識してケーキを作ろうとすると、体が混乱して、一番慣れた動き(パン作り)に戻ってしまうのね」
「……どうすればいいんですか?」
「簡単よ。その『パンへの強迫観念』だけを、私が摘み取ってあげる」
先輩の手が、木村くんの胸から**「茶色いモヤのような塊」**を引き抜いた。
それは、ふっくらと発酵したパン生地のようにも見えた。
「……あ」
木村くんの体が、フッと軽くなる。
「パンを作ることは、あなたの才能よ。それを否定する必要はないわ。ただ、『パンしか作れない』という思い込みは、ここに置いていきなさい」
「……はい!」
「さあ、お帰り。美味しいケーキが焼けるといいわね」
先輩は、木村くんの背中をトンと押した。
木村くんの魂は、ふわりと現実へ戻っていった。
結実するフランスパン
現実世界。
目を覚ました木村くんは、不思議とスッキリした気分だった。
「……よし。もう一回だ」
彼は再びボウルに向かった。
手元が狂うことはない。
焼き上がったのは、ふっくらとした完璧なスポンジケーキだった。
「できた……! 僕にも、ケーキが焼けた!」
家庭科室に歓喜の声が響く。
彼はパティシエへの第一歩を踏み出したのだ。
* * *
一方、裏世界の園芸部。
「さて、と」
櫻子先輩は、木村くんから引き抜いた「パンへの執着(茶色い塊)」を、花畑の隅に埋めた。
じょうろで水をかける。
ボコボコボコ……ニョキッ!
土から芽が出て、あっという間に一本の奇妙な木が育った。
その枝には、果実の代わりに、焼きたてのフランスパンがたわわに実っていた。
「……なんだこれは」
通りかかった**加藤先生(25歳)**が、サングラスをずらして絶句している。
「**『フランスパンの木』**よ。あの子のパンへの情熱は、これほど大きくて純粋だったのね」
先輩はパンを一本もぎ取り、香りを嗅いだ。
「焼きたてでいい匂い。今日のランチは、これにしましょう」
「……バターはあるか?」
「ええ。最高のバターを」
園芸部の庭に、シュールだが美味しそうな風景が増えた。
こうして、学校の悩みごとは一つ解決し、裏世界の生態系はまた少し、カオスになったのだった。
(番外編 完)




