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第41章:父との釣り糸、母の押し花


凪いだ海へ


補習合宿という名のサバイバルを生き延びた数日後。

日曜日。まだ夜も明けきらない午前4時。

俺は、父さんの運転する軽自動車の助手席に座っていた。

「降太、眠いか?」

ハンドルを握る父さんが、静かに聞いた。

俺たちは父子家庭だ。父さんは普段、仕事が忙しくてあまり家にいないけれど、たまの休みにはこうして俺を連れ出してくれる。

「ううん、大丈夫。……久しぶりだね、釣り」

「ああ。アジが回ってきてるらしいぞ。今夜はナメロウだな」

父さんは穏やかに笑った。

この人は、いつも優しい。そして、どこか少し「受け身」だ。俺の「巻き込まれ体質」は、間違いなくこの人譲りだと思う。

車は海沿いの道を走り、防波堤へと到着した。

潮の香りと、朝焼けのオレンジ色が、合宿で疲弊した心に染み渡る。

伝説の釣り師

釣り糸を垂らして、波の音を聞く。

浮きがピクピクと動くのを眺めるだけの、静かな時間。

隣で父さんが、手慣れた手つきでコマセを撒いている。

「父さん、上手いよね」

「昔、鍛えられたからな。……母さんにな」

父さんは懐かしそうに目を細めた。

俺の母さんは、俺が小さい頃に病気で亡くなった。

アルバムの中の母さんはいつも笑っていて、今の俺くらいの年齢の写真を見ると、なんだか俺にも似ている気がする。

「母さん、釣りが好きだったの?」

「好きどころじゃない。あいつは『狩人ハンター』だったよ」

父さんは苦笑いした。

「俺たちが知り合ったのは、ちょうどお前と同じ中学生の頃だ。俺は図書室で本を読んでいたいタイプだったんだが、あいつに捕まってな。『荷物持ち!』って、あちこち連れ回されたんだ」

フィールドワーク、山登り、そして釣り。

母さんは、教室にいるよりも外にいる方が生き生きとしている人だったらしい。

「一度なんて、この近くの港でリュウグウノツカイを釣り上げたことがあるんだぞ」

「ええっ!? 深海魚の!?」

「ああ。竿が折れそうになってな、俺が必死でタモ網で掬ったんだ。翌日の新聞に載ったよ。『中学生釣り師、幻の怪魚を捕獲!』ってな」

想像以上の武勇伝だった。

俺の母さんは、とんでもない人だったらしい。


押し花の記憶


「……あいつは、綺麗なものが好きだった」

父さんは、釣れたアジをバケツに入れながら言った。

「行った先々で、植物や花を採集するのが趣味でな。家に飾ってある押し花の額縁、覚えてるか?」

「うん。玄関にあるやつでしょ?」

色あせているけれど、丁寧にレイアウトされた、たくさんの草花の押し花。

俺はずっと、あれは母さんが作ったものだと思っていた。

「あれを作ったのは、俺なんだ」

「えっ、父さんが?」

「あいつは採集する専門で、保存するのは苦手だったからな。『綺麗に残して!』って丸投げされて、俺が見よう見まねで作ったんだよ」

父さんは、少し照れくさそうに鼻をかいた。

「知識がなかった頃は、酷い目に遭ったこともあったな。あいつ、国立公園の特別保護区で『わあ、珍しいラン!』って引っこ抜こうとして……管理員さんにめちゃくちゃ怒られたんだ」

「うわぁ……」

「俺まで一緒に正座させられてな。でも、帰り道であいつはケロッとして『次はスケッチブックを持ってこよう』なんて笑ってた」

受け継がれる「巻き込まれ」

父さんの話を聞いていると、不思議な既視感を覚えた。

破天荒で、行動力があって、周りを振り回す「母さん」。

文句を言いながらも、荷物持ちをして、尻拭いをして、一緒に怒られる「父さん」。

(……あれ?)

これって、今の「櫻子先輩」と「俺」の関係に、そっくりじゃないか?

「……父さんはさ。嫌じゃなかったの? 振り回されて」

俺が聞くと、父さんは海を見つめたまま、静かに言った。

「大変だったよ。毎日がハプニングの連続で、生きた心地がしなかった。……でもな」

父さんの竿が、ググッと大きくしなった。

「退屈は、しなかったな。あいつのおかげで、俺の人生は彩り豊かになったんだ」

父さんはリールを巻きながら、俺を見てニカっと笑った。

「降太。お前もいつか、そういう相手に出会えるといいな。……まあ、お前も俺に似て『巻き込まれ体質』だから、苦労するだろうけどな」

「……うん。もう、出会ってるかも」

俺は小声で呟いた。

脳裏に、園芸部で優雅に笑う先輩の顔と、地下室で見た13歳の泣き顔が浮かぶ。

「ん? 何か言ったか?」

「ううん! あ、引いてるよ父さん!」

「おお、こいつはデカいぞ!」

釣り上げたのは、立派なクロダイだった。

母さんのリュウグウノツカイには負けるけど、父さんの笑顔は、最高の自慢顔だった。

「よし、陽も高くなってきたし、納竿のうかんするか。魚が傷む前に帰って捌かないとな」

父さんは手際よく魚を締め、氷の詰まったクーラーボックスに収めた。

この手際の良さも、母さんに仕込まれたおかげなのだろう。

俺たちは道具を片付け、港を後にした。

車窓から入る風はまだ少し涼しいが、もうすぐ灼熱の太陽が昇ってくる気配がした。



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