第三章:薄れゆく存在と、空から降る鉢植え(5月17日 金曜日)
長らく行方不明だった3章を見つけたのでコッソリ挿入しておきますね
すまぬ。
存在の希薄化
金曜日の朝。
昨日の記憶はやはり綺麗さっぱり消えていたが、目覚まし時計に貼っておいた『メモを読め!!』という自分からの必死のメッセージのおかげで、俺はどうにか状況を把握していた。
いつもの通学路。いつものタバコ屋の角。
そこを掃除している、いつものお婆さん。俺の通学班のみんなも、空気で察して挨拶する、この通学路の一部のような存在だ。
「おはようございます!」
俺が元気に声をかけると、お婆さんはゆっくりと顔を上げ、俺の姿を見て……ぎょっと目を見開いた。
「……降太ちゃんかい?」
「え? はい、古田降太ですけど。どうしました?」
お婆さんは、箒を持つ手を止め、俺の周りをぐるぐると回り始めた。その顔には、いつもの穏やかな笑みはなく、深刻な色が浮かんでいる。
「おかしいねぇ。声は聞こえるのに、姿が……透けて見えるようだよ」
「えっ、透けてる? 俺がですか?」
俺は慌てて自分の手足を確認した。ちゃんとある。影だって、少し薄い気もするが、ちゃんと地面に落ちている。
お婆さんは深刻な顔で俺に告げた。
「あの匂いだ。季節外れの花の香りが、昨日の朝よりもずっと強くなっている。……降太ちゃん、あんた、あちら側に行きすぎてやしないかい? もっと、地のものをしっかりお食べ」
「はあ……朝ごはんはパンを食べましたけど」
お婆さんの言っていることはよく分からなかったが、その心配そうな表情だけが心に残った。
さらに、校門ですれ違った加藤校長までが、俺を見てボソリと呟いた。
「……影が薄いな。まあ、あいつが何とかするか」
「え?」
振り返った時には、校長の背中はもう曲がり角の向こうに消えていた。
お婆さんといい、校長といい、今日はみんな変だ。
第三のアクシデント:頭上の脅威
放課後。
俺は不安を抱えながらも、また「安全に危険な目にあう方法」を探して、校舎の裏手を歩いていた。
そこはちょうど、本校舎の園芸委員会が管理しているベランダの下だった。
その時。
風もないのに、ベランダの淵に置いてあった素焼きの植木鉢が、ぐらりと傾いた。
「――え?」
俺が気づいた時には、もう遅かった。
重力に引かれた茶色い塊が、俺の脳天めがけて一直線に落下してくる。
あ、これ、死ぬやつ――。
ガシャーンッ!!
頭蓋骨が砕けるような音(実際は植木鉢が割れる音)と共に、俺の意識は強烈な衝撃に飲み込まれた。
「――っと、危ない危ない。ナイスヘッド」
次に聞こえたのは、若々しく、男気のある声だった。
俺が目を開けると、そこはいつもの場所だった。付箋だらけの壁。霧に包まれた窓。そして、むせ返るような花の香り。
「ここ……園芸部……」
俺は慌てて自分の頭を触った。痛みがない。血も出ていない。
さっき、確かに植木鉢が直撃したはずだ。なのに、なぜ俺は生きている?
目の前には、いつもの西野園櫻子先輩と、プランターの縁に腰掛け、コーヒーをすすっているアウトドアファッションの男――加藤起太郎先生がいた。
「よう、ふるふる君。また派手に来たなぁ。植木鉢とは、古典的でいいセンスだ」
「あの……俺、死んだんですか? 直撃したのに、痛くない……」
俺が呆然と呟くと、加藤先生はニカっと笑い、指をパチンと鳴らした。
「死んでねえよ。それが、お前がこの世界に**『データ投影』されている証拠だ。」
「データ……投影?」
「お前の体質は、死ぬようなダメージを受けた瞬間、意識と身体データを瞬時にこの世界へ避難させる。そして、お前の頭を砕くはずだった物理エネルギーは、すべて『反作用』**として現実世界に残る。だから現実では今頃、お前の頭の代わりに、植木鉢の方が粉々に砕け散ってるはずだ」
なるほど……だから俺は、毎回助かってるのか。
俺が納得していると、先生は足元のバスケットからクッキーを取り出した。
「ま、その代償として、お前の存在はこっちの世界に馴染みすぎて、現実から消えかかってるんだがな。ほら、まずは食え。これを食わないと、現実に戻っても誰にも気づかれなくなるぞ」
俺は慌ててクッキーを食べた。サクッという音と共に、薄くなっていた自分の存在が満たされていくような感覚があった。
セーフボックスの真実
その後、俺たちは廊下を抜け、苔むした石畳の先にある白い木製の百葉箱の前に立った。
「これが、セーフボックス、百葉箱だ」
加藤先生が百葉箱をポンと叩く。
「いいか。お前はデータだけでここに来ている。だから植木鉢のダメージも無効化できた。だが、それは逆に言えば、お前はここに物質を持ち込めないということだ。」
「おい、ふるふる君。ポケットを探ってみろ。お前が大事にしているそのメモ帳、入っているか?」
言われて、俺はズボンのポケットに手を入れた。……ない。いつもなら肌身離さず持っているはずのメモ帳も、ペンもない。俺は完全に手ぶらだった。
「あ、あれ? ない……」
「当たり前だ。お前のメモ帳もリュックも、現実世界に置き去りだ。ここにあるのはお前の身一つ。だから、お前はここでメモを取ることができない。現実に戻ってから書くしかないんだ。」
櫻子先輩が頷く。
「あなたが今まで、現実に戻ってから必死に記録していたのは、偶然にも理にかなっていたのよ。ここでは書きたくても、書く道具がないんだから。」
「だが、不便だろう? もしここで記録を残したいなら、**『実体』**を用意すればいい。この百葉箱を通して、現実世界からメモ帳とボールペンを送り込むんだ。」
絶対的な3つのルール
「だが、それにはこの箱のルールを守る必要がある。聞いておけ、ふるふる君。」
1. 時間差:
「この世界のものをこの箱に入れたら、現実世界でお前がこの箱を開けるまでに、最低でも一時間のタイムラグが生じる。これは物質が次元の境界で安定化するために必要な時間だ。」
2. 転送可能容量:
「一度に運べるのは、この箱に入るサイズだけ。」
3. 転送物質の制限:
「そして、これは絶対。生体物質の転送は不可能だ。命そのものを運ぶことはできない。」
「わかったな、ふるふる君。このクッキーは、一時間待って現実の百葉箱を開けることでしか手に入らない。」
櫻子先輩が、真剣な眼差しで俺を見た。
「つまり、あなたが次にワープしてくるまでに、私たちとあなたの命を繋ぐこのクッキーの原料――そして、もしここで記録を取りたいならメモ帳やペンも、あなたが自力で百葉箱にインプットしなければならない、ということよ。それが、ここにいるあなたの義務になるわ。」
俺はゴクリと唾を飲んだ。命が助かったと思ったら、今度は命と記録を繋ぐための重労働が待っている。
だが、加藤先生は立ち上がり、マグカップのコーヒーを飲み干すと、ニヤリと笑った。
「と、言いたいところだけど!」
先生の声が、力強く響いた。
「俺をただの園芸部顧問と侮るな、ふるふる君。俺は冒険家だ。食料確保の段取りは抜かりねえ。」
「今朝、百葉箱から取りたてのクッキーの材料は、まだまだある!」
先生はビシッと、校舎の奥を指差した。
「さあ、ぼやぼやしている暇はねえぞ。まずはその**『命のクッキー』**のストックを増やしておくのが先決だ!」
「調理室に向かおう!」




