第4章:命の糧と情報の代償
「さあ、調理室へ向かおう!」
加藤先生の力強い号令と共に、俺たちは百葉箱のある裏庭から、再び校舎の中へと足を踏み入れた。
先頭を行くのは、アウトドアベストに身を包んだ、加藤先生。真ん中に俺。そして最後尾を、櫻子先輩が歩く。
しかし、校舎に入ってすぐに、俺は異変に気づいた。
「あれ……? 調理室って、家庭科室の隣ですよね? さっき通った時は、すぐそこだったような……」
俺の記憶では、園芸部のある教室から廊下を真っ直ぐ行って、突き当たりを右に曲がればすぐのはずだった。だが、目の前に伸びている廊下は、明らかにさっきよりも長く、そして複雑に入り組んでいる。
壁のシミや、剥がれかけた掲示物の位置まで変わっている気がする。
「おっと、こっちは行き止まりか。昨日はここ、階段だったんだがな」
加藤先生は、目の前に突如現れた壁を見ても動じることなく、楽しそうに笑って踵を返した。
「先生、道、迷ってませんか?」
「迷ってねえよ。ただ、ちょっと**『増えてる』**だけだ」
「増えてる?」
俺が首をかしげると、後ろから櫻子先輩が不思議そうに呟いた。
「あらあら。今日の旧校舎は、ずいぶんご機嫌斜めね。加藤ちゃん、またどこか弄った?」
「弄ってねえよ。この校舎は生き物みたいに勝手に変わりやがる。だが、俺の勘なら抜けられる。ついて来い」
加藤先生は悪びれもせず、登山靴で床を強く踏み鳴らした。
先生も先輩も、この現象になれているようだが、原因までは分かっていないらしい。ただ「そういう場所だ」として受け入れている。
その時だった。
ヒラッ。
俺の足元から、何かが舞い上がった。
桜の花びらではない。長方形の、鮮やかな色の紙片だ。
「……付箋?」
見ると、俺が歩いてきた足跡に沿うように、ピンクや黄色の付箋が数枚、床に落ちていた。さっきまでは無かったはずだ。
俺は慌ててポケットを探ったが、もちろん何も入っていない。
「あれ? 俺、付箋なんて持ってないのに……」
俺が呆然としていると、櫻子先輩がひらひらと舞う付箋の一枚を指先で摘み上げた。
「不思議ね。あなた、手ぶらだったはずでしょう?」
「は、はい。リュックも現実に置いてきたし……」
「そう。……ふふ、面白いわね」
先輩は、その付箋を透かすようにして眺め、意味ありげに微笑んだ。
「この旧校舎が、新しい部員を歓迎して紙吹雪を撒いてくれているのかしら。それとも、あなたが無意識に何かを『残そう』としているのか……。どちらにせよ、退屈しなくて済みそうね」
先輩の手の中で、付箋が淡い光になって溶けていく。
俺はこの世界の異質さを改めて思い知らされた。廊下は勝手に伸び、俺の足元からは謎の付箋が湧き出る。理屈の通じない世界だ。
魂の厨房
加藤先生の直感(という名の、無自覚な構造操作)のおかげで、俺たちはなんとか調理室にたどり着いた。
ガラガラと引き戸を開けると、そこは俺の知っている家庭科室よりも遥かに広く、どこかプロの厨房を思わせるステンレスの輝きに満ちていた。
「よし、早速始めるぞ。時間は有限だ」
先生は手際よくガス台に火をつけ、棚から巨大なボウルと麺棒を取り出した。その動きには一切の無駄がない。ただの園芸部顧問にしては、やけに修羅場慣れしているというか、肝が据わっている。
「ふるふる君、お前はそっちの棚から『粉』を出してくれ。百葉箱に入れておいたやつだ」
「はい!」
俺は言われた棚を開けた。そこには、確かに見覚えのあるスーパーの小麦粉と砂糖の袋があった。
だが、先生が取り出した「メインの材料」は、俺の想像を遥かに超えるものだった。
先生がガラス瓶の蓋を開けると、ふわりと柔らかな光が溢れ出した。
中から取り出されたのは、数個の球根だった。
だが、それは泥にまみれた植物の根ではない。
まるで水晶か、最高級のオパールのように透き通り、内側から淡い金色の光を放っている。見ているだけで心が洗われるような、神々しい美しさだった。
「きれい……。先生、それ、宝石ですか?」
俺が思わず呟くと、先生は愛おしそうにその球根を見つめ、静かに言った。
「ああ。これか? これは**『魂の球根』**だ」
「……魂?」
「昨日、お前が櫻子と植え替えただろ? クロユリやらアザミやら。あれが枯れた後に残る、純粋な結晶だ」
俺は息を呑んだ。
昨日のあの、ドス黒い苗や、不気味な花言葉の花たちが、こんなに美しいものに変わるなんて。
ふと横を見ると、櫻子先輩が調理台に肘をつき、うっとりとその球根を眺めていた。
「ふふ。それはね、2年3組の子たちが抱えていた『嫉妬』のなれの果てよ。ドロドロした毒は、全部お花が吸い上げて、空に散らしてくれたわ。残ったのは、この純粋で綺麗な『命』だけ」
先輩は、うっとりとした表情で、残酷なほど美しい真実を口にした。
「あんなに醜かった感情も、濾過すればこんなに綺麗になるの。……ねえ、美味しそうでしょう?」
その言葉に、俺は不思議と納得してしまった。
確かに、この球根は美しい。そして、本能的に「取り込みたい」と思わせるような、根源的な魅力を放っていた。
「さあ、ふるふる君。こいつを粉にして、生地に練り込むんだ」
加藤先生が、すり鉢に入れた球根をゴリゴリと砕き始めた。
砕かれるたびに、キラキラとした光の粒子が舞い上がり、厨房に甘く、どこか懐かしい香りが満ちていく。
これが、さっき食べたクッキーの味の正体だったのだ。
「これを……食べるんですね」
「そうだ。誰かの『魂』を食らって、お前の命に変える。さっき食ってわかっただろ? こいつは混ぜ物のない、純度100%のエネルギー源だ」
先生の言葉に、俺は深く頷いた。
あのクッキーを食べた瞬間に感じた、温かな充足感。それは、誰かの心の、一番きれいな部分を取り込んだからだったのだ。
材料が「魂」だと知って、背筋が伸びるような思いがした。それは単なる食事ではなく、命のリレーのようなものだ。
「わかりました。……いただきます」
俺は祈るような気持ちで、ボウルの中に手を突っ込んだ。
ひんやりとした小麦粉の感触の中に、温かな光の粉が混ざり合う。俺は力を込めて、それを命の糧へと変えていった。
オバケの休日
加藤先生の指導のもと、俺たちは「魂の粉」と小麦粉、砂糖、バターを混ぜ合わせ、クッキー生地を練り上げた。
厨房には、甘く香ばしい香りが漂っている。材料が「嫉妬」だの「呪い」だのといった物騒な代物であることを忘れそうになるほど、平和な光景だ。
「よし、生地がまとまったな。あとは好きな形に成形して焼くだけだ」
先生が麺棒で生地を伸ばし、型抜きを渡してくれた。丸や星、ハートといった一般的な形だ。
俺は無難に星型を手に取ったが、ふと横を見ると、櫻子先輩は型抜きを使わず、手で器用に生地を捏ねていた。
「先輩、何作ってるんですか?」
俺が覗き込むと、先輩は楽しそうに鼻歌を歌いながら、平べったい楕円形に、ちょこんと手を広げたような形を作っていた。そして仕上げに、頭のてっぺんに生地を細く伸ばして、三本の毛を植え付ける。
「できた。……ねえ、これ知ってる?」
先輩が自慢げに見せてきたのは、どこか間の抜けた表情の、白いオバケのキャラクターだった。
「えっと……オバケのQ太郎、ですか?」
俺はお婆ちゃんの家のテレビで再放送を見たことがあった。
「正解! 懐かしいでしょう? 昔、これの絵描き歌が流行ったのよ」
先輩は嬉しそうに笑うと、次は丸い頭に耳のない、青いネコ型ロボット(ただし初期のずんぐりしたフォルム)を作り始めた。
「懐かしいっていうか……俺の世代だと、かなりレトロというか……」
俺が正直に答えると、横で作業していた加藤先生が、懐かしそうに目を細めた。
「俺たちの世代にゃあ、ドンピシャだ。新オバQにドラえもん……日曜の夜の定番だったな」
「でしょう? ふふ、やっぱり加藤ちゃんとは話が合うわ」
櫻子先輩はクスクスと笑いながら、オバQの隣に、今度は赤いリボンをつけた白い猫のキャラクター(サンリオのあの猫だ)を並べた。
そのラインナップは、明らかに俺たち今の現役中学生の感覚とはズレている。まるで、昭和の時代で時が止まっているかのようなチョイスだ。
櫻子先輩は見た目は高校生くらいだけど、意外と「レトロ好き」な趣味をしているのかもしれない。
「それにね、ふるふる君。これ、ここ(園芸部)にぴったりだと思わない?」
先輩は、作りかけのオバQクッキーを指先でつついた。
「学校に住み着いたオバケが、オバケの形のお菓子を焼いて、それを人間に食べさせる。……なんだか、とってもブラックで素敵じゃない?」
先輩は小悪魔のように微笑んだ。
俺は苦笑いした。先輩は時々こうやって、自分たち園芸部のことを「人外」や「怪異」のように例えて楽しむ癖がある。この不思議な空間を仕切る部長としての、彼女なりのユーモアなのだろう。
「先輩、自分をオバケ扱いしないでくださいよ。こんなに美味しいクッキー焼けるオバケなんていませんって」
「あら、そう? 褒め言葉として受け取っておくわ」
先輩は満足げに頷くと、天板の上にズラリと昭和のキャラクターたちを並べた。
キラキラと光る「魂の粒子」が練り込まれた生地の中で、オバQやドラえもんが、どこか妖しく、しかし可愛らしく笑っていた。




