第二章 集中力が生んだ二度目の入場券
「安全に危険な目にあうこと」――それが、メモ帳に再会した俺の、新しいミッションだった。
西野園先輩に会うための入場券は、「死ぬかもしれないアクシデント」しかない。だが、硬球のような予測不能な危険は二度と避けたい。
「危険で、安全……危険で、安全……」
放課後の教室。誰もいなくなった空間で、俺は椅子に座り、唸りながら足をブラブラさせた。今日の昼休みからずっとこのことばかり考えている。
どうすれば、あの教室へ行けるのか。
思考を巡らせるうちに、俺は椅子に深く座り込み、いつの間にか背もたれに体重を預けていた。集中しすぎると、俺はよくこうなる。周囲の音が遠のき、まるで世界に自分一人しかいないような感覚だ。
「……そもそも、なぜくしゃみで戻るんだ?」
俺は完全に西野園先輩のことで頭がいっぱいになっていた。
気づけば、椅子は大きく後ろに傾き、バランスを崩していた。夢中になりすぎて、椅子の軋む音さえ聞こえていなかった。
「あ……」
体勢を立て直す間もなく、椅子が背もたれから床に叩きつけられる。足を着くのが間に合わない。俺の体は慣性の法則に従い、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「うわっ!」
そして、鈍い痛みが走る。
椅子が転倒した勢いそのままに、俺の頭は、後ろの席の机の角に、強烈に、そしてピンポイントでぶつかった。
――ガツンッ!
激しい痛みと共に、目の前が再び白く弾けた。
「――よっと」
次に聞こえたのは、明るく、どこかからかうような女性の声だった。
俺が体勢を立て直すと、周囲の景色は一変していた。
埃っぽい木造の床。窓の外の濃い霧。そして、目に痛いほどの色鮮やかなプランターの花畑。
「西野園、先輩……」
花畑の中心。先週と全く同じ場所に、西野園櫻子さんが立っていた。
彼女は片手にジョウロを持ったまま、意地悪そうに微笑んだ。
「あら、ごきげんよう、古田くん。また来たの? 今度は机の角に当たったみたいだけど、ずいぶん集中力が高いのね、あなた」
俺は思わず、ぶつけた頭に手をやった。痛くない。全く痛くない。
彼女はやはり、俺がどうやってここに来たか、正確に把握している。
「ええと、その……また来ちゃいました。わざとじゃ、ないんですけど」
「そう。知ってるわよ。あなた、自分の好きなことになると、周りが見えなくなるタイプでしょ。律儀でよろしい」
彼女は歩み寄り、俺の制服についた埃をパンパンと払った。それから俺の顔を覗き込み、少し顔を近づけた。
「……長いのよ、あなたの名前。フリタコウタ。フリタコウタ……もう面倒くさいわ」
彼女はパッと顔を離すと、片手で髪を払い、決定的な一言を放った。
「決めた。あなた、今日からふるふる君ね」
「えっ、ふるふる? いや、フリタですけど……」
「いいのよ、ふるふる君。どうせ、あなたはまたくしゃみで帰っちゃうんでしょ? それまで、私の部屋で遊んでなさい」
呪いと報復の花壇
せっかく命を懸けるほどの(くしゃみ一つで忘れるほどの)苦労をしてこの場所に来たのだ。ただ話を聞くだけではもったいない。
俺は立ち上がり、周囲を見渡した。
「西野園先輩、せっかく園芸部に来られたんです。もしよかったら、何か俺に手伝えることはありませんか?」
俺の提案に、櫻子先輩は「あら?」と目を丸くした。
「ずいぶん律儀なのね、ふるふる君は。いいわよ。じゃあ、そこにいくつか苗があるでしょう? それをプランターに移す作業を手伝ってくれる?」
彼女が指さした先には、黒い小さなビニールポットに入った苗がいくつか並んでいた。その苗は、どれも背が低く、葉が濃い紫色や黒っぽい色をしていて、少し不気味な印象を受ける。
「ありがとうございます!」
俺はすぐにちょうど置いてあった長靴に履き替え、言われた通りに作業に取り掛かった。苗をポットから出し、培養土を敷いたプランターに植え替えていく。土の感触は心地よかったが、漂ってくる花の香りは、やはり現実世界の花とは比べ物にならないほど濃厚だ。いつくしゃみが出てもおかしくない。
しばらく作業を続けていると、櫻子先輩が俺の背後に立った。
「ねえ、ふるふる君。あなた、その花が何ていう花か知ってる?」
俺が今植え替えているのは、暗い紫色の、まるでベルベットのような質感を持つ、上品だが影のある花だった。
「ええと……すみません。花の名前は全然わからなくて」
「そう。これはね、**クロユリ(黒百合)**よ」
櫻子先輩はそう言って、俺の横にしゃがみ込み、植え替えられたばかりのクロユリの小さな花を指先でそっと撫でた。
「じゃあ、この花の花言葉は知ってる?」
「花言葉、ですか。なんでしょう。黒いから、『秘密』とか、ちょっとミステリアスな言葉でしょうか」
俺がそう答えると、櫻子先輩はクスクスと、楽しそうに笑った。
「残念。正解はね、『呪い』。そして、**『復讐』**よ。可愛らしい見た目をしているのに、ずいぶん物騒な花言葉でしょう?」
俺はギョッとして、思わず手を引っ込めた。
「呪い……って」
「それに、あなたが次に取り掛かっているトゲトゲの葉っぱの花。これはアザミ(薊)。これもまた強烈な花言葉でね」
櫻子先輩は、俺が次に植え替えようとしている、葉に鋭いトゲを持つ苗を指した。
「『報復』。あるいは、『独立』。どちらも、誰かに対する強い意志を感じさせる言葉ね」
先輩は立ち上がり、くるりと背を向けた。
「面白いでしょう? 私がこの教室で育てている花はね、たいていそういうものばかりよ。美しさの裏に、ちょっと毒がある」
櫻子先輩は、宙に浮いていくジョウロから手を放し、頭上の雨雲に水を注いだ。
「――ふるふる君。あなたは、そんな不穏な花言葉を知らずに、誰かの呪いや報復の苗を、せっせと育ててくれてるってわけ」
そう言って、彼女は満足そうに微笑んだ。その瞳の奥には、花の美しさとは裏腹の、何か秘密めいた冷たさが宿っているように見えた。
「その花言葉を知って、ゾッとした? それとも、興味を持った?」
俺は土に汚れた手を握りしめ、言葉が出なかった。西野園先輩のいるこの教室は、ただの夢物語ではない。何か、現実の裏側にある、切実で、危険な場所なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、また鼻がムズムズし始めた。
「あらあら、もう帰る時間?」
「あの、先輩! 次はいつ会えるんですか? またアクシデントに遭えば来られますか?」
俺の真剣な問いに、櫻子先輩の表情からからかいの色が消え、一瞬、真剣な眼差しになった。
「ふるふる君。命は、大事にしてね。無くしてからじゃ、遅いから」
「え……先輩、それってどういう……」
「くしゅんっ!!」
俺の体は制御不能なくしゃみに襲われ、世界が白く歪んだ。




