第22章:月光の猫舞踏会と、東西猫合戦
パンデミック・ニャン
6月4日、水曜日。
その日の朝、学校は未曾有のバイオハザード……いや、「ニャイオハザード」に見舞われていた。
「起立、礼。おはようございニャす」
号令をかける学級委員長の語尾がおかしい。
「はーい、席につくニャ。今日の数学は二次関数だニャ」
入ってきた数学教師(50代男性・強面)の語尾もおかしい。
教室中がざわついた。いや、ざわついている生徒たちの言葉もおかしい。
「マジかニャ?」
「ウケるニャー」
感染している。
しかも、当人たちは真面目な顔をしているのが恐怖を倍増させている。
俺は隣の席のなのはさんを見た。
「……綿貫さん、これって」
「間違いないわ、古田くん。昨日の『音楽室のピアノ』を聞いた人たちから感染が広がってるのよ。これは呪いのパンデミックニャ」
なのはさんも感染していた。
「うわ、綿貫さんまで!」
「平気よ。意識すれば止められる……ニャッ! ……くっ、油断すると出るわね」
なのはさんは口を押さえて赤面した。
これはまずい。学校の威厳が崩壊する前に、元凶を絶たねば。
マエストロの独奏会
放課後。俺はコンパスを片手に、汚染源である北校舎の音楽室へと向かった。
廊下に近づくにつれ、ピアノの旋律が聞こえてくる。
曲は『猫踏んじゃった』。
だが、そのテンポは異常だった。プロのピアニストが指をつらせるレベルの超絶技巧で、狂気的なワルツにアレンジされている。
俺は意を決して、音楽室の扉を開けた。
「そこまでだ!」
演奏がピタリと止まる。
夕日が差し込む音楽室。
グランドピアノの前に座っていたのは、人間ではなかった。
身長1メートルほど。タキシードを着て、シルクハットを被り、蝶ネクタイを締めた、二足歩行の黒猫だ。
その長い指(肉球付き)が、鍵盤の上で踊っている。
「……おや。まだ正気を保っている人間がいたのかニャ?」
黒猫は優雅に椅子から飛び降り、紳士的なお辞儀をした。
「初めまして。吾輩はケット・シー。誇り高き『猫の王』であり、この学校の新たな音楽教師だニャ」
「ケット・シー……西洋の妖怪か」
俺は身構えた。
「なんでこんな呪いを振りまくんだ!」
「呪い? 失礼な。これは『調律』だニャ」
ケット・シーは指揮棒を取り出し、振ってみせた。
「この学校は霊脈の上にあって、音響が素晴らしい。だから吾輩のコンサートホールにすることにしたニャ。生徒たちは吾輩の観客であり、合唱団だ。……猫の言葉で歌うのが一番美しいからニャ」
「ジャイアンみたいな理屈だな……」
「さあ、君も吾輩のしもべになるニャ!」
ケット・シーがタクトを振ると、ピアノが勝手に鳴り出し、衝撃波のような不協和音が俺を襲った。
「うわっ!」
頭がガンガンする。口が勝手に「ニャ」と言いそうになる。
ダメだ、物理的に距離を取らないと洗脳される!
俺はポケットの「風船ロシアンルーレット」を握りしめた。
一か八かだ!
バックドアの来客
パンッ!
運良く(?)一発で破裂した風船のショックで、俺は園芸部へ緊急退避した。
「……はぁ、はぁ」
床に転がった俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「あら、いらっしゃい」
櫻子先輩がいつものようにお茶を飲んでいる。
そして、その足元で、三毛猫のタマさんが皿に盛られた高級カツオブシを優雅に食べていた。
「ええっ!? タマさん!? なんでここに!?」
俺は叫んだ。ここはパラレルワールドだ。現実の猫であるタマさんが来られるはずがない。
「ニャッ(うるさいな小僧)」
タマさんは面倒くさそうに顔を上げた。
「ああ、この子? 最近よく遊びに来るのよ」
櫻子先輩が笑って解説した。
「ほら、先日あなたが紫陽花を移植したでしょう? あの時、現実とこちらの『根っこ』が強く繋がって、小さな『裏口』ができちゃったみたいなの。霊力の高いこの子なら、自由に通れるみたいね」
なんてことだ。俺たちのミッションが、セキュリティホールを作っていたとは。
「そんなことより、ふるふる君。あなた、猫臭いわよ?」
先輩が鼻をひくつかせた。
「ああ、そうなんです! 実は音楽室に……」
俺がケット・シーのことを話すと、カツオブシを食べていたタマさんの目の色が変わった。
「フシャーッ!!」
全身の毛を逆立て、二股の尻尾が青白く燃え上がる。
「ニャオン! ニャー!(生意気な西洋かぶれめ! ここを誰のシマだと思っている!)」
どうやら「猫の王」という自称が、地元のボス猫であるタマさんの逆鱗に触れたらしい。
「あらあら。東西猫合戦の始まりね」
先輩は面白がって、タマさんの首に赤いリボンを結んであげた。
「行ってらっしゃい、タマちゃん。日本の妖怪の意地、見せてあげなさい」
東西猫合戦
俺とタマさんは、現実の音楽室へと帰還した。
目の前には、まだピアノを弾いているケット・シー。
「おや、戻ってきたかニャ? ……ん?」
ケット・シーが手を止めた。
俺の隣で、巨大化した影――妖気を纏ったタマさんが、ゆっくりと歩み出る。
「ニャーーーッ!!(お前か、新入りの分際でデカい顔してるのは!)」
タマさんの咆哮が窓ガラスをビリビリと震わせた。
「ホウ……。日本の『ネコマタ』かニャ。野蛮で品がないニャ」
ケット・シーは鼻で笑い、タクトを構えた。
「よかろう。音楽と暴力、どちらが上か教えてやるニャ!」
開戦だ。
ケット・シーがタクトを振ると、ピアノの鍵盤が弾丸のように飛び出してくる。
タマさんはそれを青い炎のバリアで弾き返し、俊敏な動きで肉薄する。
「喰らえ、猫踏んじゃった・即興曲!」
「ニャンパラリン!(猫パンチの意)」
音楽室がめちゃくちゃになる。
俺は部屋の隅で、飛んでくる楽譜やピアノ線を避けながら叫んだ。
「タマさん頑張れ! そいつのシルクハットが弱点だ!(多分)」
一進一退の攻防。
だが、決定打となったのは「音」だった。
タマさんが、大きく息を吸い込んだ。
「ギャオオオオオオオオオン!!!」
黒板を爪で引っ掻いた音を千倍にしたような、猫特有の不快な喧嘩ボイス。
超音波攻撃だ。
「フギャアッ! 耳が、吾輩の絶対音感がぁぁぁ!」
繊細な芸術家であるケット・シーは、この「ノイズ攻撃」に耐えられなかった。
彼は耳を塞いで転げ回り、ピアノの椅子から落下した。
そこへ、タマさんの必殺・肉球プレスが炸裂した。
新たな手札
「ま、参ったニャ……降参だニャ……」
ボロボロになったケット・シーが、白旗を上げた。
タマさんは「フン」と鼻を鳴らし、俺の足元に擦り寄って「撫でろ」と要求してきた。はいはい、お疲れ様です。
「それで、どうするニャ? 吾輩を追い出すかニャ?」
ケット・シーが寂しそうにシルクハットを拾い上げた。
「この学校のピアノ……スタインウェイじゃないけど、なかなかいい音だったニャ……」
その背中が小さく見えた。
悪い奴じゃないのかもしれない。ただ、自分の音楽を聴いて欲しかっただけで。
俺はしゃがみ込み、彼に手を差し出した。
「なあ、ケット・シー。追い出しはしないよ。その代わり、条件がある」
「条件?」
「生徒への呪いを解くこと。それと……俺が呼んだら、そのピアノの腕前を貸してほしい」
俺の言葉に、ケット・シーが目を丸くした。
「……吾輩の演奏を、必要としてくれるのかニャ?」
「ああ。あんな凄い『猫踏んじゃった』、初めて聴いたよ。正直、感動した」
これは本音だ。技術は本物だった。
ケット・シーの目が潤んだ。
「……ニャンと。君は芸術が分かる人間だったのかニャ」
彼は立ち上がり、服の埃を払うと、恭しく俺の手を取った(肉球がぷにぷにしていた)。
「契約成立だニャ! 吾輩の名にかけて、君を『マエストロ(指揮者)』として認めるニャ!」
ケット・シーは懐から、小さな銀色の「笛(猫寄せの笛)」を取り出し、俺に渡した。
「用がある時はこれを吹くニャ。いつでも馳せ参じて、敵を音楽で眠らせてやるニャ!」
そう言い残すと、彼はピアノの中に吸い込まれるように消えていった。
エピローグ
翌日。
学校中の「ニャ」という語尾は綺麗さっぱり消えていた。
ただ、なのはさんだけは「あれ? 昨日の記憶がないけど、なんか無性に魚肉ソーセージが食べたい……」と後遺症を残していた。
俺の手元には、新たなアイテム「猫寄せの笛」が残った。
これで俺の手札は、
・冒険家のムチ(物理)
・猫の王の笛(精神干渉)
・狂気の画家(禁断症状中)
と、着実に(変な方向に)強化されていくのだった。




