鎖に繋がれた羊
そして、翌朝。
午後の記憶が妙に薄い。いや、薄いというより、何も残っていない。ただの平凡な一日だったような気がする。
しかし、登校中、俺は立ち止まった。
いつもの通学路。潰れたタバコ屋の前。
そこを掃除している、いつものお婆さん。俺の通学班のみんなも、空気で察して挨拶する、この通学路の一部のような存在だ。
「おはようございます!」
「ああ、降太ちゃん。おはよう。今日も元気だねぇ」
お婆さんはニコニコと笑うと、首を傾げた。
「そうそう。降太ちゃん、昨日はどこかでいい匂いを嗅いだのかい? なんだか、季節外れの花の香りがするよ。あんたからはいつも優しい匂いがするけど、昨日の夜は特別だったよ」
「え、そうですか? 何の匂いでしょう。洗剤かな?」
俺は鼻をクンクンさせたが、特別な匂いはしない。きっと、昨日お婆さんの家のそばに咲いていた花が、俺の服についたのだろう。俺は深く考えることなく、お婆さんに挨拶をして学校へ向かった。
そして、放課後。
ふとリュックの中を整理していると、奥から一冊のメモ帳が出てきた。
表紙をめくると、殴り書きされた文字が目に飛び込んできた。
『【5月10日(水)の記録】アクシデント:昼休み、廊下で運動場からの硬球が飛んできて頭に直撃』
「え、何これ!? 硬球? 俺が書いたのか……?」
脳裏に、強烈な花の香りと、雨が降る教室の映像が一瞬フラッシュバックした。
『人物:西野園 櫻子先輩。黒髪ロングの高校生くらい。』
――ああ。思い出した。そうだ。あの教室。あの先輩。あのくしゃみ。
昨日、命の危機に瀕した俺は、あの不思議な世界に飛んでいたんだ。そして、くしゃみで戻ってきて、一晩経ったらその記憶が綺麗さっぱり抜けていた。
俺は慌てて、今日の分の記録を書き込んだ。
【5月11日(木)の記録】
• 忘却: 昨日の出来事を完全に忘れていた。日記を読んで思い出す。
• 備考: お婆さんに**「季節外れの花の香り」を指摘された。匂いは現実世界にも残っている?
つまり、俺が次に「死の危険があるアクシデント」に遭遇しなければ、櫻子先輩に会えない。そして、会えても、すぐにくしゃみをしてしまったら、また記憶がリセットされてしまうかもしれない。
「よし」
俺は静かにメモ帳を閉じた。
もう一度、あの花畑とあの先輩に会いに行く。そのために、俺は次なるアクシデントを探さなければならない。
目標は、「安全に危険な目にあうこと」**になった。




