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第19章:雨のち晴れ、紫陽花の結界


腐りゆく聖域

 5月30日、金曜日。

 タバコ屋のお婆さんが亡くなってから、数日が経った。

 俺の通学路である商店街のアーケードは、この数日で急速に様子が変わってしまった。

 ゴミが目立つようになったのだ。

 風で飛んできたビニール袋が端に溜まり、空き缶が転がり、何より空気が淀んでいる。

「……なんか、汚いな」

 俺は眉をひそめながら、タバコ屋の前を通った。

 シャッターは降りたままだ。その前には、誰が置いたのか分からないコンビニ弁当の空き殻が捨てられている。

 以前は、お婆さんが毎朝竹箒で掃き清めていた場所だ。

 あるじを失った場所というのは、こうもあっけなく荒れてしまうものなのか。

 俺は胸の痛みを感じながら、落ちているゴミを拾ってゴミ箱へ入れた。

 だが、翌日にはまたゴミが増えていた。

 それだけじゃない。夜になると、アーケードの照明が頻繁に切れたり、酔っ払いの喧嘩が増えたりと、明らかに治安が悪化しているのだ。

 まるで、今までそこにあった「蓋」が外れて、見えない下水が溢れ出してきているような、嫌な感覚だった。

プロの診断

 その夜。

 俺が夕食の席でその話をすると、祖母が箸を止めた。

「……降太。食事が済んだら、少し話があるよ」

 祖母の顔は、いつもの優しいお婆ちゃんではなく、霊媒師のそれだった。

 食後、俺は縁側に呼ばれた。

 外はシトシトと冷たい雨が降っている。

 祖母の膝の上には、三毛猫のタマさんが座り、二股に分かれた尻尾をゆらゆらと揺らして夜の庭を睨んでいる。

「あの商店街はね、昔から『霊道』の交差点なんだよ」

 祖母が静かに切り出した。

「人の念や、行き場のない霊が吹き溜まりやすい場所さ。それを今までは、あのご隠居(タバコ屋のお婆さん)が抑えていたんだ」

「お婆ちゃんが?」

「ああ。あの人は霊能者じゃなかったが、毎朝の挨拶と掃除、そしてあの凛とした立ち振る舞いで、強力な『結界』を張っていたのさ。……だが、そのかなめが消えた」

 祖母は庭の闇を指差した。

「結界が消えれば、魔が差す。ゴミが散らかるのも、人が荒れるのも、その予兆だよ。このまま放っておけば、じきに事故や病気が増えるだろうね」

「そんな……どうすればいいの?」

「新しい結界を張るしかない。……それには、清浄で、かつ強力な霊力を持った『依りよりしろ』が必要だ」

 祖母は俺を見て、ニヤリと笑った。

「この時期、雨に打たれても色褪せず、邪気を吸って美しく咲く花といえば?」

「……紫陽花アジサイ?」

「ご名答。それも、こっちの世界のひ弱な花じゃダメだ。あのご隠居が守り続けた場所を継ぐんだ。それ相応の格を持った、『あちら側』の紫陽花が必要だよ」

 俺はゴクリと唾を飲んだ。

 櫻子先輩の園芸部だ。あそこなら、間違いなく最高級の紫陽花があるはずだ。

 だが、ここで致命的な問題に気づいた。

「でも、ばあちゃん。百葉箱は『生きたもの』を通さないんだ。花を持って帰ろうとしても、こっちに着く頃には枯れちゃうよ」

「知ってるよ。だから、今回は『ジカ』にやる」

「直?」

「百葉箱なんて便利なポストは使わない。旧校舎の裏庭……あそこは今、境界が薄くなっている。そこを利用して、あっちで植えた花を、こっちへ無理やり引っ張り出すのさ」


雨の日のスリップ事故


 深夜0時。

 俺と祖母、そしてタマさんは、雨合羽を着て旧校舎の裏庭に忍び込んだ。

 冷たい雨が降りしきる廃墟は、不気味な静けさに包まれている。

「降太。場所はここだ」

 祖母が指差したのは、かつて花壇だったであろう、今は雑草と泥にまみれた一角だ。

「あんたは向こうへ行って、櫻子さんという魔女に頼みな。『この場所と同じ位置に、紫陽花を植えてくれ』ってね」

「わかった。……でも、どうやって行こう。今日はびっくり箱も持ってきてないし」

 俺が濡れた地面で足踏みをして悩んでいると、

 ツルッ。

 苔むした石に足を取られた。

「あ」

 ドスンッ!!

 俺は受け身を取る間もなく、後頭部を花壇のレンガに強打した。

 視界が白く弾ける。

 薄れゆく意識の中で、祖母の「やれやれ」という声が聞こえた。


魔女との契約


 雨音が変わった。

 激しい雨音から、優しく葉を叩くような、心地よいリズムへ。

 目を開けると、俺は傘を差して立っていた。

 目の前には、霧に煙る幻想的な園芸部があった。

 そして、雨に濡れた花壇の前に、傘も差さずに佇む少女がいた。

 櫻子先輩だ。

 彼女の周りには、青、紫、ピンクと、宝石のように発光する紫陽花が咲き乱れている。

「あら、ふるふる君。雨の日のお散歩?」

 先輩は振り返り、雨に濡れた黒髪をかき上げた。その姿は、この世のものとは思えないほど美しく、そしてどこか寂しげだった。

「先輩。お願いがあります」

 俺は事情を説明した。

 タバコ屋のお婆さんのこと。商店街が荒れていること。そして、祖母からの伝言。

「……なるほどね。あの場所を守るために、私の花が欲しいと」

 先輩は、足元の立派な青い紫陽花を見つめた。

 その花弁の一枚一枚が、淡い光を放ち、雨粒を受けるたびに輝きを増している。

「いいわ。あのお婆さんは、良い話し相手だったもの。私の花が代わりになるなら、本望でしょう」

 先輩は園芸用シャベルを手に取ると、手際よくその紫陽花を掘り起こした。

 そして、俺が指定した場所――現実世界で祖母が待っている場所と同じ位置――に、丁寧に植え替えた。

「いいこと、ふるふる君。植物の移植は、根が命よ」

 先輩は植え替えた紫陽花に手をかざした。

「私がこちらから、念(水)を送る。あなたのお婆様が、向こうでそれを受け止める。……タイミングを合わせなさい」

「はい!」

 俺は頷いた。

 先輩が、雨空を見上げた。

「さあ、お行き。……雨に濡れるのは、私一人で十分よ」

 先輩が紫陽花の花を指先で弾いた。

 その瞬間、雨の中だというのに、むせ返るような濃厚な花の香りが舞い上がった。

 雨の匂いと、紫陽花の甘い香りが混ざり合い、俺の鼻腔をくすぐる。

「……っ、むずっ」

 いつもの感覚だ。

 俺は大きく息を吸い込んだ。

「へっ、くちゅん!!」

 盛大なくしゃみが弾けた。

 視界が白く歪み、雨に濡れる美しい先輩の姿が、霧の向こうへと溶けていく。

顕現

「――っ!」

 ガバッと起き上がると、そこは現実の裏庭だった。

 雨は激しさを増している。

「戻ったね」

 祖母が、目の前の泥だらけの地面を見据えていた。

 タマさんが、低く唸り声を上げている。尻尾の青白い火が、雨の中でも消えずに燃え上がっている。

「来るよ。……タマ!」

「ニャァァァァァァン!!」

 タマさんが叫び、地面をドンと踏みつけた。

 同時に、祖母が柏手かしわでを打つ。

 パンッ!!

 その瞬間、泥の中から、青白い光が漏れ出した。

 ズズズッ……。

 まるで早回しの映像を見ているかのように、何もない地面から、緑色の芽が吹き出し、茎が伸び、葉が茂る。

 そして。

 ボッ、ボッ、ボッ!

 いくつもの青い手鞠てまりのような花が、爆発的に開花した。

 それは、現実の紫陽花よりも遥かに色が濃く、雨の中で自ら発光する、幽玄な花だった。

「成功だね。……根付いたよ」

 祖母が額の汗を拭った。

 百葉箱を通さず、境界の薄い土地を利用して、情報の書き換え(移植)を行ったのだ。

 目の前に咲く紫陽花は、紛れもなく「あちら側」の生命力を宿していた。

継承される朝

 俺たちはその紫陽花を鉢に移し替え、深夜の商店街へと運んだ。

 タマさんが青い炎で周囲の淀みを焼き払い、祖母が清めの塩を撒く。

 そして、タバコ屋のシャッターの前に、その鉢植えを置いた。

 不思議なことが起きた。

 紫陽花が置かれた瞬間、アーケード全体を覆っていた湿っぽい空気が、サァーッと引いていったのだ。

 まるで、強力な空気清浄機を回したかのように、空気が澄み渡る。

「これでよし。……あのご隠居ほどじゃないが、魔除けにはなるだろうさ」

 祖母は満足そうに頷いた。

 翌朝。

 登校中の生徒たちが、タバコ屋の前で足を止めていた。

「わあ、すごい綺麗なアジサイ」

「誰が置いたんだろう? 光ってない?」

 生徒たちは、誰に言われるでもなく、その花に向かって笑顔を見せている。

「おはようございます!」

 一人の生徒が、ふざけて花に挨拶をした。

 すると、周りの生徒たちも、つられて挨拶をし始めた。

「おはよーっす」

「綺麗だねー」

 挨拶の声が、アーケードに響く。

 その声の波動が、紫陽花の霊力と共鳴し、商店街の空気をさらに明るくしていくのが見えた。

 お婆さんの姿はない。

 けれど、お婆さんが守りたかったものは、形を変えて、確かにここに受け継がれたのだ。

「……おはようございます」

 俺も花に向かって、小さく頭を下げた。

 青い紫陽花が、雨上がりの朝日に照らされて、ニコニコと笑ったお婆さんの顔のように見えた。

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