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第130章:6月の退職願と、人形の目覚め


雨の日の訪問者


6月中旬。梅雨の雨が降りしきる放課後。 俺は、屋上のドアノブを使って裏世界の園芸部へ来ていた。

「よく降るわね……」

櫻子先輩が、花畑の中で傘をさして佇んでいる。 加藤先生がメカ化して現世に行ってしまったため、この世界には今、先輩ひとりぼっちだ。 俺はできるだけ顔を出すようにしていた。

「先輩。今日は紫陽花が綺麗ですね」

「ええ。雨に濡れると、色が深くなるの」

穏やかな時間。 しかし、その静寂は唐突に破られた。

「ヒャッハー!! お待たせしましたァァッ!!」

空が割れ、派手なスーツの男が降ってきた。 ニャルラトホテプだ。 いつになくテンションが高い。手には旅行カバンのようなものを持っている。

「な、なんだ急に!?」

「吉報や! 吉報中の吉報やで少年!」

ニャルラトホテプは、満面の笑みで親指を立てた。

「新しい死神ちゃんの着任日が決まった! 明日や! 明日来るで!」

「明日!?」

「せや! つまりワテの代行業務は今日で終わり! 晴れて自由の身や! 宇宙へ帰れるでぇぇ!」

彼は踊り出したいくらい嬉しそうだ。 本当に、嫌々やっていたらしい。


最後の業務命令


「そこでや。櫻子ちゃん」

ニャルラトホテプは、真剣な顔 (でもニヤけている)で先輩に向き直った。

「新しい死神は、マニュアル通りの堅物らしい。お前みたいな『システムのエラー(地縛霊)』が残ってると、即座に消去されるかもしれへん」

「……消去」

先輩の顔が強張る。

「せやから、ワテが最後に責任持ってお前を『処分』する」

「えっ」

俺が止めようとするより早く、ニャルラトホテプはカバンを開けた。 中から出てきたのは、等身大の、驚くほど精巧な球体関節人形だった。 肌は陶器のように白く、髪は先輩と同じ黒髪。まるで眠れる森の美女だ。

「これが、ワテからの退職金代わりのプレゼントや。『魂の器』。イ=ス人の職人に特注した最高級品やで」

彼は人形を先輩の前に立たせた。

「これにお前の魂を移せば、お前は『人間』として現世で生きられる。戸籍も記憶も、全部上手いこと偽装しといたる」


躊躇いと、強行


「……生きられる」

先輩は人形を見つめた。 それは、彼女が心の奥底で望んでいた「古田くんと一緒に生きる未来」への切符だ。 しかし、先輩は迷っていた。

「でも……私、本当にいいのかしら。こんな幸せを、私が受け取っても……」

「あーもう! グダグダ言うなや!」

ニャルラトホテプが痺れを切らした。

「お前は十分に働いた! 被害者ヅラしてここに留まるのも、もう終わりや! ほら、行けッ!」

彼は先輩の背中を、ドン!と突き飛ばした。 物理的にではない。魂を、人形へと押し込むように。

「きゃあっ!?」

先輩の霊体が、光の粒子となって人形へと吸い込まれていく。

「先輩!!」

「安心せえ少年! 上手くいったわ!」

ニャルラトホテプは満足げに手を叩いた。 光が収まると、そこには目を閉じた人形だけが残っていた。 しかし、その頬には微かに赤みが差し、胸が上下している。 呼吸をしているのだ。

「あとは、そいつを現世に連れて帰るだけや。……大事にせえよ」


さらば、迷惑な神様


「あんた……」

俺はニャルラトホテプを見た。 理不尽で、勝手で、迷惑な神様。 でも、最後には最高の贈り物をくれた。

「……ありがとう。元気でな」

「おう! 二度と呼ばんといてな! ほな、さいなら!」

ヒャッホォォォウ!!

ニャルラトホテプは、ロケットのように空の彼方へと飛び去っていった。 やかましい笑い声だけを残して。

「……行っちゃった」

残されたのは、俺と、眠っている櫻子先輩(人形)。 そして、主を失った裏世界は、徐々に霧に包まれ始めていた。

「帰ろう、先輩」

俺は先輩を――いや、今はもう実体のある彼女を、背負った。 驚くほど軽い。でも、温かい。 俺は屋上のドアノブを回し、現実世界へと踏み出した。


現実での目覚め


現実世界。旧校舎の園芸部。 俺は先輩をソファに寝かせた。 雨は上がっていた。夕焼けが差し込んでいる。

「……ん……」

長い睫毛が震え、先輩がゆっくりと目を開けた。 その瞳は、いつもの深い黒色。 彼女は自分の手を見て、それから俺の顔を見て、涙をこぼした。

「……ふるふる、君?」

「はい。……お帰りなさい、先輩」

「私……触れるのね?」

先輩が手を伸ばし、俺の頬に触れた。 冷たくない。温かい、人間の体温だ。

「はい。触れますよ」

俺は先輩の手を握り返した。 49年間の孤独と、地縛霊としての時間が、今ここで終わった。 これからは、同じ時間を、同じ速さで歩いていける。

「……ただいま」

先輩は、花が咲くように笑った。 それは、今まで見た中で一番美しい、「生きた人間」の笑顔だった。

(第130章 完)


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