第12章:狂気の芸術と、色彩の
天才の誕生
放課後。
俺はコンパスが示す方角――北校舎3階の美術室へと向かった。
背後には、なぜか綿貫なのはさんがついてきている。
「ねえねえ古田くん、美術室に何があるの? やっぱり動く石膏像? それとも血の涙を流すモナ・リザ?」
「いや、人に会いに行くだけだよ。……多分」
俺は曖昧に答えた。
コンパスの針は、美術室に近づくにつれて激しく振れている。
やはり、ここに「何か」があるのは間違いない。
ガララッ。
美術室のドアを開けた瞬間、強烈なテレピン油(油絵具の溶き油)の匂いが鼻をついた。
そして、目に飛び込んできたのは、圧倒的な「量」だった。
「うわぁ……!」
なのはさんが歓声を上げた。
広い美術室の壁という壁、床という床に、無数のキャンバスが立てかけられている。
そのどれもが、写真と見紛うほど精緻な写実絵画だ。
リンゴ、花瓶、窓辺の風景。
ありふれたモチーフなのに、まるでそこに実物があるかのような、鬼気迫る質感で描かれている。
「よう! 来たか、我がミューズ(芸術の女神)の使者よ!」
キャンバスの山から、絵具だらけのツナギを着た男が飛び出してきた。
宇多川茂麻呂先輩だ。
以前の冷笑的な態度はどこへやら、今の彼はギラギラとした目に狂気じみた活力を宿している。
「あ、宇多川先輩。……これ全部、先輩が?」
「そうだ! あの日、お前がくれた『魔法のクッキー』を食べてから、手が止まらんのだ! 世界が輝いて見える! 描いても描いても、イメージが溢れ出して止まらないんだよ!」
先輩は俺に駆け寄り、絵具のついた手でガシッと俺の手を握りしめた。
ブンブンと激しくシェイクされる。
「ありがとう! 本当にありがとう! お前のおかげで僕は、本物の芸術を知った! あのクッキーはすごかった。一口食べただけで、脳みそが沸騰して、宇宙と繋がった気がしたんだ!」
「は、はあ……それは何よりです……」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
やはり、原因はあのクッキーだ。
魂の球根(純粋エネルギー)を過剰摂取した結果、先輩の感性がリミッターを外れて暴走してしまっている。
「すごいですね、先輩! これなんて本物のリンゴみたい!」
なのはさんが、一枚の絵を覗き込んで感嘆している。
宇多川先輩は「ふん」と鼻を鳴らした。
「それはただの写実だ。準備運動だよ。……僕が見せたい『真の世界』は、こっちだ」
先輩は部屋の奥、黒い布がかけられた数枚のキャンバスへと俺たちを案内した。
「写実なんて、目に見える表層をなぞるだけだ。僕が描きたいのは、あの時見えた『内側の色』……魂の叫びだ!」
先輩が、バッと黒布を取り払った。
ヤバい絵
そこにあったのは、先ほどまでの写実画とは似ても似つかない、混沌とした抽象画だった。
キャンバスは3枚。
原色が激しくぶつかり合い、渦を巻き、あるいは爆発しているような、理解不能な図形。
「きれい……」
なのはさんが、吸い寄せられるようにその絵に近づいた。
俺もまた、その絵を見た。
その瞬間。
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
寒い。いや、熱い?
平衡感覚がおかしくなる。
ただの絵具のはずなのに、その絵を見ていると、足元が崩れてどこか深い底へ落ちていくような、強烈な目眩がした。
(……なんだこれ。気持ち悪い)
理屈は分からない。
でも、俺の本能が全力で叫んでいた。
これを見てはいけない。これは、見ていいモノじゃない。
この絵の奥には、人間が触れちゃいけない「何か」が口を開けている気がする。
「あ、あはは……すごい……」
隣で、なのはさんの様子がおかしい。
焦点が合っていない虚ろな目で、ふらふらと一番右の絵に近づいていく。
その絵の中心には、赤と黒の渦巻きが描かれている。
「なのはさん! 見ちゃダメだ!」
俺は叫んだが、彼女には届いていないようだった。
彼女の手が、ゆっくりと絵に向かって伸びる。
まるで、絵の中の何かに手を取られようとしているかのように。
「素晴らしいだろう? 彼女には分かるようだね、この深淵が」
宇多川先輩は、うっとりと自画自賛している。彼は自分が何を描いたのか、それがどれだけ危険なものか、全く理解していないのだ。
なのはさんの指先が、キャンバスに触れようとした、その時。
絵の中の渦巻きが、ズルリと動いた気がした。
「!!」
俺はとっさにリュックを放り出し、なのはさんの腕を掴んで強引に引き剥がした。
「きゃっ!?」
なのはさんが我に返り、俺の胸に倒れ込む。
同時に、俺は自分の上着を脱ぎ、その危険な絵にバサリと被せた。
「……はあ、はあ」
視界を遮断すると、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
なのはさんは、顔を真っ赤にして俺を見上げている。
「ふ、古田くん!? 急に何するの……!?」
「ごめん! でも、今のは危なかった」
俺は宇多川先輩を睨んだ。
先輩は「何をするんだ、僕の傑作に!」と怒っているが、今は構っていられない。
「先輩。この絵……この3枚だけは、絶対に人に見せちゃダメです」
「なんだと!? これこそが僕の最高傑作だぞ!」
「傑作すぎて、普通の人間が見たら頭がおかしくなるレベルだってことです! ……俺が買い取ります。言い値でいいです」
俺は出まかせを言った。
理屈なんてどうでもいい。とにかく、この**「ヤバい物体」**をここから持ち出さなければならない。
コンパスが指していたのは、間違いなくコレだ。
「か、買い取るだと……? 中学生が?」
「ボランティア部の部費……じゃ足りないから、俺の小遣い全部と、あと……あのクッキーのレシピを教えます!」
宇多川先輩の目の色が変わった。
「あのクッキーのか!? ……よし、商談成立だ!」
チョロい。やはり芸術家だ。
俺はほっと息をついた。
だが、問題はどうやってこの危険物を処理するかだ。
燃やすわけにもいかない。物質として定着してしまったこの「ヤバい絵」は、百葉箱を通して向こう側へ送り、加藤先生や櫻子先輩に見てもらうしかない。
「なのはさん、ちょっと手伝って。この絵を布でぐるぐる巻きにして運ぶから」
「え、ええ? よく分かんないけど……古田くんがそう言うなら!」
なのはさんは、まだ少し顔を赤くしながらも、テキパキと梱包を手伝ってくれた。
俺たちは「狂気の抽象画」を抱え、逃げるように美術室を後にした。




