第10章:空の傷跡と、影の不在証明
境界の綻び
俺の報告を聞き終えると、園芸部に重苦しい沈黙が流れた。
いつもは陽気な加藤先生も、今は険しい表情で腕を組み、空になったマグカップを見つめている。
「……屋上から見た空の亀裂、か。しかも、そこから『視線』を感じたと」
「はい。気のせいじゃないと思います。あれは、明らかにこっちを見ていました」
俺は震える手でコーヒーカップを握りしめた。あの「巨大な目」の記憶は、網膜に焼き付いて離れない。
「ふむ……。俺たちが頻繁に物質をやり取りしたり、お前が行き来しすぎたせいで、境界線が磨耗してきているのかもしれんな」
先生は顎をさすった。
その顔は、園芸部顧問というよりは、何か重大な事件現場を検分する捜査官のような鋭さを帯びていた。
「本来、この世界と現実は交わらない。百葉箱という細いパイプがあるだけだ。だが、お前が見た『亀裂』は、そのパイプ以外の場所から、あちら側の泥が漏れ出そうとしている証拠だ」
先生は立ち上がり、窓の外の吹雪(まだ少し寒い)を睨んだ。
「まずいな。このまま綻びが広がれば、現実世界の方にもっと深刻な『バグ』が出るぞ。……お前が感じた『嫌な空気』どころの騒ぎじゃない」
影の正体と、突然の告白
先生の言葉に、俺はゴクリと唾を飲んだ。
だが、俺にはもう一つ、確認しなければならないことがあった。
「あの……それと、もう一つ。旧校舎の裏庭に、人影を見たんです」
俺は恐る恐る、正面に座る櫻子先輩を見た。
先輩は、いつものように優雅に紅茶を啜っている。
「セーラー服を着た、髪の長い女の子でした。空の亀裂を見上げて、何か……親しげにしていて。俺、てっきり先輩が現実世界に来たのかと……」
「まさか」
先輩はカップを置き、クスリと笑った。
その笑顔は美しいが、どこか冷ややかな「否定」を含んでいた。
「ありえないわ。私が現実世界に行けるはずがないもの」
「え? でも、先輩なら何か不思議な力で、一時的に実体化するとか……」
「無理よ。だって私――」
先輩は、とんでもないことを、天気の話でもするかのように口にした。
「本当に死んでるもの」
「……は?」
俺の思考が停止した。
死んでる? 誰が? 先輩が?
「え、あ、あの……冗談ですよね? だって、こうして話してるし、お茶も飲んでるし、オバQクッキーだって作ったじゃないですか」
「ここは『あちら側』の世界だからね。魂があれば形になるわ」
先輩は、自分の胸に手を当てた。
そこには、心臓の鼓動があるのか、ないのか。
「私ね、もう何十年も前に死んでるのよ。この旧校舎が現役だった頃にね。だから、ここから一歩も出ることはできない。私が現実世界に行けるなら、とっくに原宿でクレープでも食べているわ」
「そ、そんな……」
俺は言葉を失った。
薄々は、感じていた。
この常識が通じない不思議な空間。
昭和の話題に妙に詳しく、年齢不詳な加藤先生。(先生も、もしかしたら別の時間軸や、異次元から来たタイムトラベラーか何かなのかもしれない)。
そして、あまりに浮世離れした美しさを持つ先輩。
でも、はっきりと言葉にされると、その事実はあまりに重かった。
目の前にいる美しい先輩は、この世の住人ではない。幽霊なのだ。
「だから、その『影』は私じゃないわ。……私の姿を真似ただけの、虚像(影)よ」
先輩は指先で、テーブルに落ちた自分の影をなぞった。
「強い光には濃い影ができる。この世界(園芸部)の存在が濃くなればなるほど、その反動として、現実世界に『私たちの形をした影』が投影されることがあるの。……迷惑な話ね」
「はあ……虚像、ですか」
俺は納得しようと努めたが、まだ「先輩が死んでいる」というショックから立ち直れずにいた。
先輩は、そんな俺を見て、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
(……この笑顔も、死者のものなのか?)
俺は胸が締め付けられるような思いがした。
新たな指令
「よし、湿っぽい話はそこまでだ!」
加藤先生がパンと手を叩き、空気を変えた。
先生もまた、先輩が死者であることを知っている。その上で、こうして明るく振る舞っているのだ。
「原因が何であれ、空にヒビが入ってるのは事実だ。放置すれば、現実の学校生活に支障が出る。……それは、校長……いや、顧問として見過ごせん」
先生はビシッと俺を指差した。
「ふるふる君。お前に新たな任務を与える」
「は、はい! 次は誰をくっつければいいんですか?」
「違うわよ」
櫻子先輩が、いつもの調子で呆れたように突っ込んだ。死んでいようがいまいが、先輩は先輩だ。
「今度は『掃除』よ。現実世界に漏れ出した『歪み』を特定して、塞ぐの」
「塞ぐって……どうやって?」
先生が、棚から古びた**「方位磁針」**を取り出し、俺に投げ渡した。
それは真鍮製で、文字盤には東西南北の代わりに、奇妙なルーン文字のようなものが刻まれている。
「これは**『魔探知コンパス』**だ。……まあ、俺が作ったガラクタだがな」
先生はニカっと笑った。
「こいつは、この世界(園芸部)と同じ波長を持つ場所、つまり『境界が薄くなっている場所』に反応する。お前が屋上で見た亀裂の真下……あるいは、その亀裂を生み出している**『楔』**となる場所を指し示すはずだ」
「楔……」
「そうだ。おそらく校内のどこかに、あちら側とこちら側を繋ぐ『異物』が紛れ込んでいる。それを見つけ出し、百葉箱に入れてこっちに送り返せ。そうすれば、空の傷も塞がるはずだ」
俺はコンパスを握りしめた。
ずしりと重い。
これは、ただのパシリじゃない。世界の崩壊を食い止める、重要なミッションだ。
「わかりました。やってみます」
「頼んだぞ。……ただし」
先生の声が低くなった。
「深入りはするなよ。その『異物』の周りには、お前が見たような**『影』**や、良くないモノが溜まっている可能性がある。危ないと思ったら、すぐに逃げろ。……死ぬなよ、少年」
その言葉は、いつもの冒険家の軽口ではなく、かつて人の生死を見届けてきた者の、重みのある警告だった。
「はい!」
俺は力強く頷いた。
帰還の手順
「よし。じゃあ、こいつを送るぞ」
俺たちは廊下を出て、裏庭の**百葉箱**の前に立った。
先生が百葉箱の扉を開ける。
「いいか、手順を忘れるなよ。このコンパスも『物質』だ。お前がポケットに入れたまま帰還しても、現実世界には持って行けねえ。ただの幻になって消えちまう」
「はい。百葉箱に入れて、一時間待つんですよね」
俺はコンパスを慎重に百葉箱の中に安置した。
真鍮の輝きが、薄暗い箱の中で鈍く光る。
「……よし」
俺は扉を閉め、鍵がかかったことを確認した。
これで準備は完了だ。
あとは、俺自身が帰るだけだ。
その時、園芸部の方から、濃厚な花の香りが風に乗って漂ってきた。
クロユリ、アザミ、そして先ほど咲かせたばかりの沈丁花。
様々な花々の香りが混ざり合い、俺の鼻腔をくすぐる。
「むずっ……」
鼻の奥がむず痒くなる。
いつもの合図だ。
「気をつけてな、ふるふる君」
「良い知らせを待ってるわ」
加藤先生と櫻子先輩に見守られながら、俺は大きく息を吸い込んだ。
「へっ、くちゅん!!」
盛大なくしゃみが弾けた。
視界が白く歪み、二人の姿が霧の向こうへと溶けていく。
次に目が覚めたら、一時間待って、あのコンパスを回収しなければ。
俺たちの、長い夜が始まる。




