第7話 外は危険がいっぱい
「ごめん、なさい……デ、ニス……夫婦らしいこと、あまり出来なかった、わよね……。もっと、夫婦らしいこと、を、しておくべきだった、ってのは、少し残酷な物言い、かしら、ね……」
妻、レーアは途切れ途切れにそう言った。
俺は彼女の手を必死に掴もうとする。
が、いくら頑張っても、いくら伸ばしても、彼女の手は掴めない。
遠い、遠い場所へ行ってしまうのだ。
そこは俺では想像もつかないほど遥か遠くで、とても過酷で残酷な場所なのだろう。
それでも俺は、その事実が受け止めきれない。
「そんなこと言うな、レーア! これからだろ! 子供も産まれたばかりじゃないか! これからもっともっともっと! 夫婦らしいことをたくさんする予定があるんだろうがッ!」
しかし、いくら叫んでも意味はないのだ。
言葉だけで理不尽な現実が変えられるのなら、とっくに人は今よりも大きな声を手に入れている。
「ああっ……レーア……レーア……レーア……ッ! ――ッ! ああああぁああ、レェエエエエエエエアァアアアアアアアアアッ!」
そして、完全に彼女の存在は潰えてしまった。
終わりを迎えたのだ。
それは、5年目までの平穏だった日常に、もう戻ることが出来ないことを意味していた。
――ガバッ!
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
目が覚めた。
周囲を見渡すと、いつもの変わりない寝室。
どうやら悪夢を見ていたみたいだ。
昇りかけの朝日が顔を覗かせている、爽やかな日常がそこにはあった。
「……5年、か」
レーアがいなくなり、同時にアリーゼが家族になってから、もう5年が経つ。
月日が経つのはもの凄く早い。
そして時間の流れというのは、とても残酷だ。
あれだけ覚えていたレーアの顔、声、表情、しぐさ、そのほとんどはモザイクがかったように薄らぼんやりとしか思い出せない。
代わりに覚えているのは、彼女とともに過ごした風景だけだった。
出会った時の曇天の校舎、付き合い始めた頃よく行っていた盆地の草原、結婚式をした日の澄み渡るような青空。
そのいずれも鮮明に思い出せるのに、その風景には誰もいない。
俺もいなければ、一緒にいたはずのレーアもいなくなってしまった。
……どこに行ったのだろうか。
いつ、そこに彼女は戻ってきてくれるのだろうか。
「考えても、無駄か……」
昔のことだ。
今さら後悔したところで、いくら考えたところで、何も変わりやしない。
大事なのは、これからだ。
……アリーゼ。
もう、あんな後悔は絶対にしないように、彼女だけは何としてでも守り通す。
そのために、毎朝、素振りを続けている。
そのために、彼女とたくさんコミュニケーションを取っている。
「——よしっ! 今日も一日、頑張るとしますか!」
こうして俺の日常は、いつも通りの始まりを迎える。
***
「明日、街に散策に出てみないか?」
ある日の午後、アリーゼと遊ぶために庭で集まった時に、俺は彼女にそう提案した。
すると彼女は目を輝かせ、前のめりになりながら声を弾ませた。
「いいんですかっ!?」
「ああ。もう5歳になったわけだからね。お披露目会を終えたら、外に出てもいいって決まりになってるんだ」
「じゃ、じゃあ、お外に出てみたいです!」
興奮したようにそう言うアリーゼに、俺はにっこり頷いてこう言った。
「よし。なら外に出る時に気を付けなければならないことを教えよう」
「そんなものがあるのですか?」
「ああ。ある。例えば、街にいる人間の中には、悪い心を持っている人もいたりする」
俺が言うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「悪い心?」
「そうだ。例えば、アリーゼ、君は侯爵家の長女だね?」
「は、はい」
「その、侯爵家の長女というのは、とっても美味しいものかもしれない、と思って連れ去ろうとする人も中にはいるんだ」
「そんな人がいるんですか!?」
俺の言葉に驚き目を見開くアリーゼ。
実際のところは、身代金目当てだったり、奴隷落ち目当てだったりなわけだが、いきなり5歳児に言って聞かせる話でもないだろう。
それにまだ幼いアリーゼにとって、お金よりも美味しいもののほうがよっぽど重要だ。
だから、そう思って、俺はお金ではなく、美味しいという比喩表現を使ったわけだ。
そしてその効果はとても絶大で、アリーゼは恐怖で顔を強張らせながらこう言った。
「お外は怖いものばかりなんですね……」
「やめておくかい?」
「いえ、やめません! お外がどんなところか、ずっと興味があったんです!」
その言葉を聞いて、俺はふと子供の頃の記憶を思い出す。
それは俺がこの世界転生するよりもずっと前、現代日本の長閑な田舎で過ごしていた時のことだった。
小学生の頃、自分の住んでいる場所が閉じた世界に思えていて、もっと広い外の世界を見てみたいとずっと思っていた。
外にはどんな人がいるのだろう。
どんな世界が広がっているのだろう。
このつまらない閉じた世界から抜け出して、早く外に行ってみたい。
たくさん面白いものがあるんだろうなぁ、とそんな風に、好奇心と憧れが入り混じって、俺は上京を夢見ていたものだった。
しかし結局、大学生になって上京してみて、実物の東京の薄暗さや希望のなさに触れて、いったん失望してしまったっけ。
アリーゼには同じ気持ちを味わってほしくないとは思うが、それは無理な話なのだろうとも思う。
そういった外の世界への希望と失望が、俺たちに現実を教え、一歩大人にしてくれる機会になっているのは間違いない。
そして、その機会を奪ってしまうということは、大人への歩みを妨げてしまうことになる……と俺は考えている。
「それじゃあ、明日は街に行って、色々な人と話してみような」
「はい! とても楽しみです! ありがとうございます、お父様!」
まあそんな小難しいことを考えなくても、こうして感謝の気持ちを忘れていない彼女ならば、案外すぐに大人になってしまうかもしれないと、俺はそう感じ取るのだった。