第48話 新しい日常
すみません。
タイトルを元に戻しました。
フローレが生まれてから、バタイユ侯爵家はさらににぎやかになっていた。
アリーゼはお姉ちゃんになったことがまるで夢のようで、起床から就寝までのあいだ、ずっと妹の世話のことばかり考えている。
生まれたばかりの赤ん坊は、一日じゅう母乳を飲んだり、泣いたり、時折すやすやと眠ったりするだけなのに、アリーゼにはそれが何よりも新鮮で仕方がないのだ。
***
朝、食堂に入ってくるアリーゼの動きが、最近ほんの少し早くなった。
以前は髪をまとめるのに時間をかけていたりしたが、今や早くフローレの様子を見に行きたい一心で、朝の身支度をそそくさと済ませているからだ。
「おはようございます、お父様、お母様! 朝食をさっさと食べて、フローレちゃんのところに行ってきますね!」
「そんなに急がなくてもフローレは逃げないわよ」
アリーゼは椅子に腰を下ろすなり、楽しそうにスープを口にする。
レーアはそう言って笑いながら、まだ身体を完全には回復しきっていない様子でゆったりとスープを飲む。
「アリーゼ、ほどほどにな。おまえがバタバタ動いているとフローレがびっくりするかもしれないぞ?」
「気をつけます!」
デニスは苦笑まじりにそう言い、アリーゼは元気よく返事をしつつも、やはり落ち着きなく身じろぎしている。
そんな娘の姿を見ていると、こちらまで楽しい気分が移るから不思議だ。
朝食を終えたアリーゼが勢いよく妹の寝室へ向かうと、そこには既にメイドが朝のケアをしているところだった。
フローレはベッドに寝かされ、まだ生まれて間もないゆえに小さく、頼りない姿で泣いている。
「フローレちゃん、おはよう! お姉ちゃんが来たよ!」
アリーゼの声に反応したのか、フローレの泣き声が一瞬だけ止まったように思える。
実際は偶然かもしれないが、アリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「さあ、お着替えさせてあげましょうか。おむつの替え方も手伝いますよ」
メイドがそう言うと、アリーゼはやる気満々で袖をまくった。
生まれる前から私が率先してやると言っていたのだ。
「こ、こうやって……? わっ、あ、あ、意外と難しい……」
初めてのおむつ替えにチャレンジするアリーゼだが、メイドに教えてもらっても手際はぎこちない。
フローレの細い足を持ち上げるたびに「ご、ごめんね、痛くない? 大丈夫?」と声をかけては焦り、結局メイドが後ろからフォローして何とか形になった。
「ふふっ、でもすごいですね、アリーゼ様。最初からここまでできるなら、すぐに上手になりますよ」
「本当ですか!?」
メイドの言葉に、アリーゼは目を輝かせる。
フローレはおむつが替えられると安心したのか、小さくまばたきしながら、再び泣き声を上げる気配もない。
むしろほんの少し声をあげて喉を鳴らしたようだ。
「お母様が休んでる時間は、私がこうしてお手伝いできるといいな……!」
娘として、姉として、もう十分すぎるくらいに積極的だ。
そんなアリーゼの後ろから、レーアがそっと顔を出す。
「だいぶ慣れたみたいね、アリーゼ。ありがとう。フローレも喜んでいるんじゃないかしら」
「お母様、どうですか? 私の妹お世話スキル、合格ですかね?」
「ふふっ、合格よ。今後もいろいろ助けてね」
レーアはくすくす笑って頷く。
その姿に、アリーゼは心底嬉しそうに笑みを返した。
***
その後、アリーゼはカイとばったり廊下で遭遇した。
タオルやらミルクの準備やらを運んでいたアリーゼの両手はもう大忙しだ。
「よう、アリーゼ。……その荷物、俺が持つよ。危なっかしいぞ」
「へ、平気ですよ! 私、お姉ちゃんですからこれくらい……」
アリーゼは意地を張って両腕に抱えたままだが、結局扉を開けることすらままならない。
カイは無言でタオルの山をひょいっと受け取り、先に扉を開く。
「ほら、無理するな。……にしても、変わったな、お前。そんなに張り切ってさ」
「……そ、そんなにおかしいですか?」
「いや、別に。まあ、賑やかになっていいじゃん」
言葉少なに言い放つカイの様子に、アリーゼは最初不機嫌そうな顔をする。
が、次の瞬間「ありがとう、助かりました」と素直に頭を下げた。
その姿を見てカイは少しだけ顔を赤らめ、すぐにすたすたと立ち去っていく。
アリーゼはその背中を眺めながら、苦笑いを浮かべた。
***
昼下がり、フローレを寝かしつけた後、レーアはようやく落ち着いてソファに腰を下ろした。
俺は執務室の仕事を少し抜け出して、レーアの傍に座っていた。
「だいぶ身体は楽になったか?」
「そうね、だいぶ。アリーゼが手伝ってくれるし、使用人たちも張り切ってるから、私は寝てる時間が長くなってしまいそう……」
レーアは苦笑するが、その声音には穏やかな安堵がある。
アリーゼがたびたび様子を見に行ってくれるおかげで、母親としての負担がかなり減っているのだろう。
俺は窓の外に目をやる。
かつてはアリーゼが小さかった頃、こうして必死に育てた記憶がよみがえる。
今度はアリーゼも加わって、家族みんなでこの子を大きくしていく――
そう考えると、不思議な暖かさが胸に広がった。
「名前……本当によかったな、フローレにして。フローレらしい花のイメージがふわっと部屋中にあるようだ」
「ええ……。あの日、アリーゼが『お花みたいに咲いてほしい』って言ってくれたのがすごく気に入ったの。フローレにあの子の優しさが伝わってるといいわね」
レーアは微笑む。
占い師の名前を慎重にという言葉も、今ではあまり思い悩んでいないようだ。
それよりも、我が家に生まれた小さな命を守っていくという決意が強くなっている。
***
夜、俺が執務室で仕事をしていると、メイドが部屋に入ってきた。
「ラウラ様から手紙が届いております」
そう言って書簡を差し出してくる。
ハイエルフのラウラは森へ戻った後、どうやら再び森での様子を探っているらしい。
手紙には簡潔な文でこう書かれていた。
『森の異変は現状まだ大きな動きはない。ただ、かの地に潜む何かが徐々に活性化している気配。あなた方に直接危害が及ぶ可能性は低いと思うが、万一の場合は連絡してほしい。それよりも、フローレとレーアの様子をまた聞かせてちょうだい。近いうちに祝いの品を送るわ。――ラウラ』
「……何もなければそれでいいが」
俺は手紙を読み終えて、小さく息をつく。
森のことは気になるが、今は母子ともに健康である事実にまず安堵するほかない。
「ラウラにも一度近況を返事しなきゃな……」
手紙を机にしまいこみ、俺はそう呟く。
フローレの可愛い姿を記したら、さぞかしラウラは面白そうに読んでくれるだろう。
***
深夜、フローレがぐずる声が屋敷に小さく響いた。
アリーゼが、私が行くと起き出そうとしたが、さすがに眠気には勝てずにフラフラだった。
代わりにレーアがベッドを抜け出して、ふにゃふにゃと泣く娘を軽くあやす。
まだ腰に痛みが残っているが、こうして我が子の体温を感じると、どんな辛さも吹き飛ぶ気がした。
「フローレ、眠れないの? 大丈夫、ママがいるわよ……」
優しい声であやすと、赤子の泣き声は徐々に落ち着いていく。
月明かりが窓からこぼれ、母子をほんのり照らしていた。
その光景を俺は扉の隙間からコッソリと見守っていた。
声をかけずに静かにその場を離れ、あとは当人たちに任せることにした。
母と娘の絆をさまたげるのは無粋だからな。




