第46話 ハイエルフが到着しました
ハイエルフのラウラがやってくると知り、俺は少なからず動揺していた。
エルフの中でもとりわけ聖域のような存在が、わざわざ人間の領地、しかも個人宅まで足を運ぶなど、常識的には考えられない。
しかし、妻のレーアは驚く様子もほとんどない。
「ラウラが来るなら妊娠の件を相談できるわ」
と、どこか安堵の表情さえ浮かべている。
彼女にとってラウラは、よほど信頼のおける相手らしい。
***
「お見えになりました」
その翌日、屋敷の正面玄関で迎えの準備を整えていると、セバスが静かに告げた。
俺とレーア、そして少し離れた所にアリーゼも並んで立ち、門の方向をうかがった。
――ゆったりした足取りで現れたのは、線の細いたおやかな女性だった。
銀白の髪は背中までさらりと流れ、先の尖った長い耳が特徴的。
瞳は深い碧で、静かな湖面のような奥深さを感じさせる。
どこか人間離れした雰囲気が、その場の空気を一気に変えた。
「ラウラ、よく来てくれたわね」
レーアが進み出て、彼女の手を取る。
ラウラはかすかに微笑んだかと思うと、そっとその手を握り返し、言葉少なに応える。
「ええ、久しぶり、レーア。……あなたのおめでたい報せと知って、すぐに来たのよ」
若干、長旅のせいか疲れが見えるが、本人は苦にならないとでも言いたげだ。
俺はごく自然に頭を下げ、ハイエルフへの礼を示す。
「はじめまして。バタイユ侯爵のデニスです。遠いところをわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「あなたがデニス、ね。……初めまして。ラウラと呼んで」
ラウラは俺に目を向ける。
年齢不詳の端正な顔には、こちらを見透かすような落ち着きが漂う。
いかにも何百年何千年も生きているという伝承が嘘ではなさそうな、そんな雰囲気を感じさせる。
横に立っていたアリーゼは、その神秘的な姿に興味津々なようで、どこか落ち着かない様子だ。
「あっ、は、初めまして! 私はアリーゼ・バタイユと申します。お母様の娘で……あの……」
「ふふっ、知ってるわ、アリーゼ。レーアが何度も手紙であなたのことを書いてきたから」
ラウラはアリーゼの瞳をのぞきこむ。
アリーゼはすぐに照れくさそうに俯いてしまった。
それでも人見知りせずに話しかけたい気持ちはあるらしく、
「いろいろ教えてほしいことがいっぱいあるんです……!」
と小声で付け加えた。
「そう。私で良ければいくらでも答えるわよ」
少し冷たいようにも見えるラウラだが、その声音には優しさが含まれていた。
***
「気分転換もかねて、ちょっと庭を散策しない?」
応接室に案内しようとしたところ、レーアがそう提案した。
まだ朝の柔らかな陽射しが残る庭は、花々が咲き誇り、心地よい風が吹いている。
そこをゆっくり歩きながら、レーアはラウラに言った。
「……実は、あなたに話したいことが二つあるの」
「一つは、あなたが妊娠したことね。……もう一つは?」
「ええ。私が街で占い師に言われたことが少し気掛かりで……新しい出会いを限定するものを慎重にという言葉が、名づけ――子供の名前のことを指してるんじゃないかと思って」
「ふむ……。なるほど」
ラウラは興味深そうに頷き、ふと花壇に目を落とした。
鮮やかな花々の色味を一通り確認して、ややゆっくりした口調で話し始める。
「名には力が宿る、と私たちエルフは信じているわ。特にハイエルフの里では、名を授ける儀式が重要なの。もっとも、人間社会でどれほど影響があるかは未知数ね」
「そう……。やっぱり、名前には意味があるのね」
レーアが小さく息を吐く。
隣では俺が静かに耳を傾けていた。
ここまでエルフの命名観を聞く機会などなかったから、正直ちょっと興味深い。
「まあ、だからと言って占い師の言葉を鵜呑みにする必要はないわ。私から見ても、あなた方は十分幸せそう。……どういう名をつけても、きっと大丈夫」
ラウラの声にはどこか安堵の響きがあった。
レーアはその言葉に少し表情を緩めつつ、ありがとう、と短く呟いた。
***
庭を回った後、屋敷の応接室に落ち着いた頃には、アリーゼも含めた四人がテーブルを囲んでいた。
アリーゼはもう好奇心いっぱいでラウラに話を振る。
「ラウラさん! エルフには人間と違う治療法とか、妊娠中の過ごし方とか、そういう知識がたくさんあるんですよね!?」
「さっきレーアに話したように、森でしか採れない薬草もある。身体の負担を和らげるお茶のレシピなんかを教えることはできるわ」
「わあ……! 私、それ、すごく気になります! メイドさんやお母様と一緒に作ってみたいです!」
アリーゼが瞳を輝かせると、ラウラはわずかに目を細めて微笑する。その視線には、アリーゼを慈しむようなあたたかさがあった。
「あなたは勉強熱心なのね。大事なことよ。……ただし、エルフと人間は身体の構造が異なるから、何でも万能ではない。症状に合うかどうか慎重に確かめながら試すべきね」
「はいっ、分かりました!」
元気よく答えるアリーゼの姿に、俺も胸を撫で下ろす。
こうしてまっすぐ育ってくれていることが嬉しい。
レーアはというと、ラウラの言葉の端々をしっかりとメモしている。
占い師の件で不安を感じていた様子も、こうして具体的に話を聞けば少しは解消されるだろう。
「デニス、あなたもきちんと覚えておいてちょうだい。今度、薬草を調合する作業を一緒にやることになるでしょうから」
「あ、ああ、もちろん」
俺は照れ笑いしながら返事をする。
大事な嫁と子供のためなら、多少の苦労はいとわない。
そう思いながら、ラウラへ向き直ると、彼女はどこか真剣な面持ちになっていた。
「デニス。あなたがここまで家族を守り抜いてきたこと、レーアの手紙で少し聞いているの。……大変だったわね」
ハイエルフ特有の年長者のような口ぶりかとも思ったが、ラウラの瞳に偽りはなかった。
どうやら本当に心配してくれているようだ。
俺は軽く会釈して、笑ってみせる。
「ええ、まあ、いろいろありました。でもアリーゼとレーアがそばにいてくれたおかげで、乗り越えられたと思ってます。これからはもっと忙しくなるでしょうけどね、二人目が生まれれば」
「……いいこと。あなたたち家族は、必ず、とても幸せになれるわ。私が保証する」
ラウラのその言葉は、どこか断定的だった。
アリーゼは「必ず?」と首を傾げるが、ラウラは何も言い足さなかった。
***
応接室でしばらく会話を楽しんだのち、ラウラに客室を用意して一息つく。
日は落ち始め、屋敷には夕食の香りが漂いはじめる時間だ。
アリーゼは、レーアのために、まずは薬草茶を試してみたいとキッチンへ駆け込んだ。
メイドとともに張り切って材料を揃え、煮出し方を教わろうとしていた。
一方、ラウラは窓辺に立ち、城壁の向こう側、遠くの森のほうを見つめていた。
その横顔に、ほんのわずかな緊張が走る。
ちょうど廊下を通りかかった俺は、その表情を見逃さなかった。
「ラウラさん……何か気になることでも?」
声をかけると、彼女は振り返り、小さく首を振る。
「大したことではない、と思いたい。ただ、森から少し嫌な気配がしたの。妙な動きのような気配、とでも言えばいいかしらね」
「妙な動き?」
「ウルフ系の魔物が増えていたり、森の精霊が怯えていたり、そんな些細な話を仲間から耳にしてね。もちろん私は赤子の誕生を祝うために来ただけだけど、もし何かあれば力になりましょう」
ラウラが静かにそう語る。
その口調に大げさな様子はないが、経験の深いハイエルフの警戒は重みがある。
もし本当に森で何かが起こっているのだとしたら、バタイユ領に影響が及ばないとも限らない。
俺は胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「……ありがとう。あまり不安を煽るわけにもいかないから、ひとまずは様子を見させてもらおう。とはいえ、何かあれば遠慮なく教えてくれ」
「ええ、そのつもり。レーアやアリーゼを巻き込みたくはないから、私自身も調べられる範囲で探ってみる」
ラウラはそう言って視線を落とす。
穏やかだった日常に、ほんのかすかな影が差し込むような感覚があった。
しかし、俺はまだはっきりとそれをつかめない。
***
「人間式のお祝いとして一緒にどう?」
その夜、夕餉にはラウラを含めた家族が揃ってテーブルを囲んだ。
ハイエルフは食事を必要としないというが、レーアからそう提案され、ラウラも椅子に腰を下ろす。
アリーゼはキッチンでメイドと格闘した薬草茶を持ってきた。
もともとラウラのアドバイスを取り入れたものだが、慣れないレシピのため何度か失敗したらしく、微妙に苦い香りが漂っている。
「お母様、これ飲むと楽になるかもしれません! ちょっと苦いですけど……」
「ありがとう、アリーゼ。ふふっ、頑張ってくれたのね」
レーアはそう言いながらおそるおそる口をつける。
「ん……やっぱり苦いわね」
「つ、次はもっと上手に作ります!」
「あっ、いや、不味いって言いたいわけじゃなくてね!」
「ふふっ、分かっていますよ、お母様。でも、私はもっとお母様に喜んで貰いたいので!」
アリーゼは拳を胸の前で握りしめる。
その光景を見守っていたラウラが、ひそかに安堵の表情を浮かべた。
「アリーゼは積極的ね。いいこと。……あなたたちは本当に仲が良いのね。私まで少し嬉しくなるわ」
「ありがとうございます、ラウラさん。でも私、まだまだ勉強が足りないです! お母様と弟か妹を守るためにも、もっと頑張らないといけません!」
「その気持ちがあれば十分よ。その気持ちを忘れなければ、貴女は何も問題ないわ。……ね、デニス?」
ラウラが不意にデニスを振り返る。
その瞳にはわずかに好奇の色が混じっていた。
デニスは急に話を振られ、少し照れながらも頷く。
「ええ、アリーゼは本当に頼もしい娘です。俺もすぐに追い抜かされるかもしれません。父親としては嬉しいやら寂しいやらって感じですけど」
「お父様、何を言ってるんですか! これからもっともっと活躍して、私がお父様の鼻を高くしてあげますよ!」
アリーゼが得意げに胸を張ると、笑いが食卓に広がった。
妊娠の不安や森の不穏な気配など、いくつか気がかりはあるものの、この瞬間はただ穏やかで温かい。
***
こうして夕食を終え、アリーゼは日記をつけるため自室へ。
レーアはラウラとともに薬草のリストを点検しながら、ベッドに入る支度を進める。
俺は屋敷の廊下を歩きながら、セバスに夜の警戒を増やすよう軽く指示していた。
ラウラが言う森の異変が気にかかるからだ。
「デニス様、承知いたしました。夜番を少し強化し、裏門や庭の巡回を徹底させます」
「頼むよ、セバス。気のせいならそれに越したことはないけれど」
セバスはかしこまって頭を下げると、静かに廊下を後にする。
俺は残された灯をそっと消し、長い一日を振り返った。
子どもが増えるなんて、本当に夢みたいだ。
アリーゼのときも驚いたが、今回もやっぱり緊張するな……
占い師の言葉を思い出す。
名前を慎重に……今はそれくらいしかヒントはないが、レーアがあまり思い詰めないように、俺も支えていきたい。
***
一方、ラウラは客室の窓から夜空を眺めていた。
森の方向を淡く照らす月明かりの下、彼女は微かに目を伏せる。
「歪み……。大きな波にはまだならないと思いたいけど」
ラウラは自らの指先にわずかに魔力を宿し、周囲の気配を探るように静かにかざす。
しかし、月明かりの中、気になる異変は感じられない。
とりあえず、今宵は平穏なまま朝を迎えられそうだ――
そんな予感とともに、ラウラは窓をそっと閉じた。
同時期の深夜。
アリーゼは夢の中で、まだ見ぬ弟か妹の姿を思い浮かべていた。
小さくて、ふにゃふにゃで、きっと可愛いのだろう。
お姉ちゃんとして、どんなことをしてあげられるのか。
シャルへの手紙には、もう今夜のうちにしっかりと感想や決意を書き綴ろう。
アリーゼはワクワクしながらペンを走らせた。
やがて屋敷に静寂が下りる。
だが、その静寂の中で、ハイエルフ・ラウラの感覚は微かに森の奥をとらえていた。
すぐに派手な動きは起こらないだろう。
けれど、近い将来、彼女が抱く小さな違和感が現実のものになったとき、バタイユ家をはじめ、この国にどんな波紋を呼ぶのか――
誰もまだ、その全貌を知らない。
だが、アリーゼたちは、家族として、そして仲間として、きっと乗り越えていくはずだ。
その夜、月はやわらかな光を落とし、まだ小さな命の芽生えを、優しく照らし続けていた。
それからさらにいくつかの季節が過ぎ去った頃。
「奥様の様子がおかしいです! そろそろご誕生なされるかもしれません!」
屋敷にメイドのそんな声が響き渡った。




