第29話 娘
その時、アリーゼは待っていた。
ただひたすらに父の帰りを待っていた。
夏が過ぎた。
父は帰ってこなかった。
秋が過ぎた。
父は帰ってこなかった。
冬が過ぎた。
父は帰ってこなかった。
春が過ぎた。
父は帰ってこなかった。
一年が経った。
父はいまだに帰ってきていない。
しかし、アリーゼは約束したのだ。
待っていると。
そして父は約束したのだ。
必ず帰ってくると。
なら待たなければならない。
信じて待つことが父への愛情だと信じて。
「お父様……。私はもう、11歳になりました」
ひとりぼっちの中庭でそう呟く。
いつもならおめでとうと言ってくれた父。
いつもならそんな父はいつも傍にいた。
「……アリーゼ様。侯爵家としての仕事が溜まっております。代わりにこなしていただけませんか」
中庭にやってきたセバスが遠慮がちにアリーゼにそう言った。
いつもなら厳しく同情しないセバスだが、こればっかりは気遣わずにはいられなかった。
「分かりました。私が代わりにこなしておきましょう。父がいつ帰ってきても大丈夫なように」
アリーゼはそれでも胸を張って前を向いた。
……昔のことが思い出される。
父に心配して欲しくて逃げ出すように家出をしたあの日。
あの時も父はこんな気持ちだったのだろうか。
だとすれば、本当に申し訳ないことをしたと思う。
それでも父はアリーゼだけを心配して助けに来てくれた。
……助けに来てくれた?
父は今、どうなっているんだろう?
大変な目に遭っているのではないだろうか。
アリーゼは自分が父からとても多くのものを貰っていたことを理解していた。
お披露目会の時も、家出した時も、反抗期になった時も、父はいつも自分を見守ってくれていた。
親孝行したい。
恩返しをしたい。
ありがとうだけでも、伝えたい。
感謝を伝えるにはどうすればいいか。
再び、昔の記憶が蘇ってくる。
『いつ何があっても後悔しないように』
シスターはそう言っていた。
いつ何があっても後悔がないようにと。
そうだ、後悔してからでは遅いのだ。
いなくなってからではもう、ありがとうは伝えられないのだ。
「――行かなきゃ。私、助けに行かなきゃ」
信じて待つなんて、もうしない。
それは父だってそんなことはしていなかったから。
私が家出した時、父は真っ先に迎えに来てくれた。
今度は私が、迎えに行く番だ。
***
夜。
みんなが寝静まった頃。
アリーゼは一人寝室を抜け出し、馬を借りて領地の外に出た。
確か西の森だと言っていた。
彼女はその記憶を頼りに西へ西へと駆け出した。
早馬で駆けて次の日の昼前にはその場所に到着した。
そこは騎士団の野営地だった。
しかし少し荒れている。
人が荒らした感じではなく、長年放置されていたような荒れ果て方だ。
おそらく長い間ここには戻ってきていないのだろう。
どういうことかと思って、アリーゼはテントの中を探索した。
どうやら一年前に〈時空の狭間〉に入って、それ以降戻ってきていないみたいだった。
何かあったのか。
アリーゼは不安になった。
地図を見つけた。
そこには〈時空の狭間〉の出現位置が記されていた。
行こう、とアリーゼは思った。
再び馬に乗り、アリーゼはその場所に向かった。
そこには巨大などす黒い、禍々しい穴が広がっていた。
ここが〈時空の狭間〉……。
怖い。
恐怖で足がガタガタと震えるのを感じる。
しかし……この先に父がいることを思えば一歩踏み出せた。
この先で父がピンチに晒されていると思えば、さらにもう一歩踏み出せた。
アリーゼは勇気を振り絞って穴の中に飛び込んだ。
***
「はあっ……はあっ……はあっ……」
〈世界迷宮〉に足を踏み入れたアリーゼは突如として現れたブラッドハウンドに追いかけられていた。
勝てるような相手ではないと思った。
だから全力で逃げた。
しかしその距離は徐々に縮まってきている。
……マズい。
もう飛びかかられたらお終いの距離だ。
死ぬかもしれない、とアリーゼは思った。
ごめんなさい、お父様……。
言いつけを破ってこんなところに来たばっかりに、お父様にありがとうと伝えられなさそうで――
その時だった。
――斬ッ、とブラッドハウンドの背後から斬撃が襲いかかり、一瞬の間に四等分された。
血飛沫が飛び散る。
それを掻き分けるように一人の人影が現れた。
「……アナタ、まだ子供でしょう? なんでこんなところにいるのよ?」
その血飛沫を浴びながら現れたのは、凜とした表情の一人の女性だった――。




