第13話 泥だらけで働いた日
その孤児院はスラム街の寂れた教会の隣にあって、朝っぱらから子供たちの喧噪に包まれていた。
「おーい、お前たち! 帰ったぞー!」
少年がそう叫ぶと、孤児院の子供たちはわらわらと集まってくる。
上は10歳ほどで、下は3歳ほどだ。
みんな貧しい格好をしているが、その表情は服装の貧困さに対してとても豊かだった。
「パン! パン! 焼きたてのパンは!?」
「ほぅら、ここにちゃんともらってきたぞ! カイ兄ちゃんが頑張って働いてきたからな!」
そう胸を張って大切に抱えていたパンを見せびらかす少年。
どうやらこの少年はカイという名前らしい。
「「「おお~っ!!」」」
その温かそうなパンを見て、みんな感嘆の声を上げた。
「しかし! コイツは昼飯まで取っておくぞ! やっぱり働いた後に食いたいからな!」
「「「ぶぅ~!!」」」
カイの言葉に、今度はブーイングが巻き起こる。
みんな今すぐにでも食べたいみたいだった。
そんなことをしていると、奥から一人のシスターが姿を現した。
シスター、といっても白髪が増えてきている初老の女性だ。
彼女は穏やかな表情をしていて、子供たちを見る目はとても温かかった。
そのシスターはふとアリーゼの姿を視界に入れ、首を傾げた。
「カイ? その子はどなたかしら?」
「ああ、コイツは家出少女だ。まだ帰りたくないらしいから、それまでここに置いておこうと思って」
「あらあら。それは大変ね。別に居てくれるのは構わないけど、後でちゃんと帰るのよ?」
そう優しい口調で言われて、アリーゼは気まずそうに視線を逸らして頷いた。
そんな態度を取るアリーゼにも、彼女は変わらず穏やかな視線を向けていた。
「貴女、名前は?」
「……アリーゼ、です」
「アリーゼちゃんね。じゃあ、孤児院に体験入院ということで、今日はビシバシ働いてもらおうかしらね」
そう言われ、アリーゼは一瞬目を見開くが、すぐに胸の前で拳を握って頷いた。
「もっ、もちろんです! ここに居させてもらうためにも、働かせてください!」
「ふふっ、真面目ね、アリーゼちゃんは」
真面目。
その言葉に何故かアリーゼは恥ずかしくなって、頬を赤らめて俯いてしまった。
今、自分がしているのは家出だ。
父にも、そしてこの孤児院にも迷惑をかける行為だ。
自分のことが真面目だなんて、全く思えなかった。
「あの……それで、働くって何をすれば……?」
「そうねぇ……それならまずは……畑仕事でも、してもらおうかしら」
***
アリーゼにとって、土にまみれて仕事をするということは、とても新鮮な体験だった。
確かに剣術の訓練で倒され土がつくことはあれど、自分から土と触れ合っていくのは初めてだった。
教えられた通りに、えっさ、こらさ、と、雑草を引っこ抜いていく。
どうやらこれからの季節で作物を育てるらしく、今は畑の手入れをしている最中みたいだった。
汗をかいた。
袖で拭うと、顔に泥がついた。
最初はそれがとても不快だったが、必死になって働いているうちに徐々に気にならなくなっていった。
汚れというものは努力、必死さの証なのだ。
温室育ちで、少し潔癖気味だったアリーゼは、ひたむきさというものを知ったような気がした。
周りを見てみると、子供たちは楽しそうに雑草を刈っている。
もちろん、どれだけ泥だらけになろうが、汗まみれになろうが、気にした様子はなかった。
そして、かなり長い時間、雑草刈りをしていたと思う。
気がついたら日が高くまで昇っていた。
「みんな、もうそろそろお昼の時間にしましょう」
シスターがそう言った。
子供たちが一斉に彼女の方に寄っていき、アリーゼもそれに倣った。
「あらあら、アリーゼちゃん。頬に泥がたくさんついてしまっているわよ」
そう言ってシスターは近づいてきて、頬の泥を拭ってくれた。
それまで彼女は、自分の頬に泥がついていることすら、気がつかなかった。
「あっ、ありがとうございます」
「いいのいいの、アリーゼちゃんは頑張ってくれたんだからね」
そう言ってシスターは微笑んだ。
……お母様が生きていたら、こんな感じだったのかな。
ふとアリーゼはそう思った。
父は、確かに優しいし、とてもアリーゼのことを大切にしてくれている。
が、間違いなく母親ではない。
それは、間違いなく、父親の優しさ、父親の愛なのだ。
シスターの接し方に、アリーゼはどことなく憧憬を覚えた。
「それじゃあ、みんなでパンを食べましょうか。ほら、アリーゼちゃんも」
シスターの言葉に孤児院の室内に駆けていく子供たち。
アリーゼはパンを貰っても良いのか分からなくて立ち竦んでいたが、シスターがそう言って彼女を促した。
どこか後ろめたく思いながら、アリーゼは一切れのパンを貰った。
普段、いくら食べても文句を言われないような、普通のパンだ。
もう焼きたてだったパンも、少し冷めてきてしまっている。
家に帰れば、より温かくて美味しいパンなんて、いくらでも食べられるだろう。
しかしアリーゼにとって、それらのパンより、この一切れのパンの方が重要な気がした。
これは、自分が頑張った証であり、必死な努力の結晶なのだと、実感を持って知ることが出来た。
部屋の片隅でモソモソとパンを食べていると、シスターがちょいちょいと手をこまねいていた。
アリーゼは何だろうと思いながら、そちらに向かう。
「アリーゼちゃん。アリーゼちゃんはどうして家出をしたの?」
シスターにそう聞かれて、アリーゼは思い返すように話し始めた。
「私は……お父様にいきなり怒られて……それでビックリして、自分のことがよく分からなくなって、気がついたら家に居たくないって思ってて……」
つたない説明だったが、シスターは辛抱強く聞き出してくれた。
何度か問答した後、彼女は納得したように頷いた。
「つまりアリーゼちゃんはお父様に怒られたのがよほどショックだったのね」
「……そうかもしれません」
「お父様からはとても愛されているのでしょう?」
「はい……。とても大切にして貰ってます……」
「うんうん。いつも優しい父が、突然怒り出して、嫌われたんじゃないかって、そう思っちゃったのね」
シスターのその言葉はすんなりとアリーゼの心に入っていった。
嫌われたんじゃないかと思った。
確かに冷静になって思い返してみると、そう感じていたかもしれない。
「で、家出をすればお父様が自分を探してくれるはずだと、それで愛を確かめようとしたのだと思うの」
アリーゼはただ黙ってその話を聞いていた。
シスターの言葉はとても的確に、自分の心を示しているように思えたからだ。
「でもね、それじゃあ駄目よ。貴女は自分が悪いことをして怒られたって自覚はあるのでしょう?」
「……はい」
「アリーゼちゃんに自分の非を全て認めろなんて、まだ言わない。それはもっと大人になってからでもいいから。でもお父様にとても心配をかけていることは、知っておいた方が良いと思うの。いつ何があっても後悔しないように」
アリーゼはただ黙って頷いた。
強い口調じゃない、優しく諭すような口調だ。
だが、その言葉はアリーゼの心の奥底まで染み渡っていった。
「……ごめんなさい」
「ううん、私に謝ったって仕方がないわ。謝るべきなのは、他に居ると思わない?」
アリーゼはもう一度頷いた。
早く帰ろう。
帰って、お父様に謝らなきゃ。
そう思った。
そう思った直後、ドンッと孤児院の扉が蹴破られた。
「おい。ここに白髪のガキと赤茶髪のガキがいると思うんだが、出てこいよ。俺たちの仲間を殺してくれた罰を与えなきゃなんねぇからな」