第10話 そして、親の心を子は知らず
「あっ、いけね。そろそろ孤児院に戻らなきゃ。それじゃあ、またな。もしもう一度会ったとしても、もうあんなこと言わないでくれよ」
スラムの少年はそれだけ言って駆け足で去って行ってしまった。
その背中を見ながら俺たちはしばらく黙って立ち尽くしていたが、俺はふと思い出してアリーゼにこう言った。
「……さっきはいきなり怒鳴ってしまって、すまなかった、アリーゼ」
あれは本当に良くなかった。
言い訳がましいかもしれないけど、反射的に声を荒らげてしまったのだ。
反省しなければならない。
死亡フラグ云々の前に、親として、アリーゼには幸せになれるような育て方をしてあげたい。
俺の謝罪の言葉を聞いたアリーゼは、少し目を見開いて視線を逸らすと、こう小さな声で呟いた。
「何で、お父様が謝るんですか? 悪いことをしたのは私なのに……」
そう言うが、彼女は目を合わせようとしてこない。
その様子に、俺は少なからずショックを受けてしまった。
完全に失敗したと思った。
間違えた、やらかしたと思った。
しばらく俺たちの間に会話は生まれず、周囲の喧噪だけがやけに遠くから聞こえてくる。
「……あの、お父様。私、疲れました。そろそろ帰りたいです」
ふとそう言ったその声は、とても固かった。
ああ……何でこうなっちゃったんだろうな。
今まで、とても順調に接することができていたと思っていたのに。
たった一回の失敗で、こうも簡単に崩れていってしまうなんて。
「そうだな……。帰ろうか」
俺の考えてきたプランは半分くらいしか達成できず、急遽帰ることになった。
俺もアリーゼも、今日のことをとても楽しみにしていたのだ。
でも、間違えてしまった。
あれだけワクワクしていたさっきまでとは反転して、陰鬱な気持ちで俺たちは屋敷に帰るのだった。
***
「なあ、セバス。俺はこれからどうするべきかな……?」
次の日。
俺は午前中に仕事をしながらも堪えきれなくなって、傍に控えている執事のセバスにそう悩みを吐露した。
彼は直立不動のまま、視線だけをこちらに向けて言った。
「デニス様。それは自分で考えた方が良いかと存じます」
「……そうだよなぁ。お前は昔から、俺に厳しかったよな」
俺はセバスの突き放すような言葉に、思わず昔を思い出してそう呟く。
セバスはそれを聞いても尚、しばらく黙っていたが、気まぐれか、ふとこんな独り言を零した。
「厳しさというものは、愛の形になりえないのでしょうか?」
俺はその言葉を聞いて、ハッと心の底で何かが切り替わるような感覚を覚えた。
俺がデニスに転生した時、俺はまだ14歳で、転生という理不尽や、現代日本に対してこの世界の過酷さに、少々グレてしまっていた。
そんな時、一番俺に厳しくしてくれたのは、何を言おう、このセバスだった。
彼には甘えなんて言葉は一切なかった。
毎日、泣きそうになるくらいまで鍛えられたし、勉学も脳みそが沸騰しそうになるくらいまでやらされた。
でも、おかげで今の俺があるといっても過言ではない。
こうして領主と育児を両立して頑張れているのも、彼のシゴキの経験があるからだった。
「デニス様は大変だろうと思います。普通の家庭なら、厳しくするのと優しくするのを夫と妻で分担できますから。しかしデニス様は一人でそのどちらもこなす必要がある。時に厳しく、時に優しく接するというのは、とても難しいことだと思いますので」
時に厳しく。
時に優しく。
確かに優しくするだけなのは良くないということは、心の何処か分かっていたことだった。
しかし、優しく接すると、アリーゼが喜んでくれて、それが俺にとっても嬉しくて、つい優しくしてしまうのだ。
厳しさを持って相手に接するということは、それだけ自分自身にもダメージが返ってくるものだから。
普通なら厳しさなんて持たずに調子の良いことばかりを言っていた方が、ストレスを感じることもないし、絶対に良いに決まっている。
でも、それでも、アリーゼの辛く歪んだ顔を見ることになってまでも、厳しく接する場面も必要なんじゃないだろうか。
思えば、あの叱り方も本当に悪かったのだろうか。
俺が全て道を示してしまえば、アリーゼは自分で考えて相手の気持ちを想像する、という能力を失ってしまうのではないか。
セバスは俺に必要以上のことは何も言わなかった。
ただ、間違っていることは間違っていると言い、でもそれが何故間違っているかは自分で考えるように促していた気がした。
何が正解かなんて分からない。
でも、分からないなりに、俺は藻掻くしかないのかもしれない。
俺は筆ペンを置いて、立ち上がった。
アリーゼと話をしなければならない。
ここで逃げたら、俺は親として完全に失格になってしまう。
そう思った直後、勢いよく執務室の扉が開いてメイドが入ってきた。
彼女は慌てたような調子で、俺に向かってこう言った。
「デニス様! アリーゼ様が、アリーゼ様が、見当たりません!」