桜の舞い散る頃、文壇の地平に新たな星が姿を現した
梅雨のとある夕暮れ時、大手出版社NEO文芸の編集部は慌ただしい雰囲気に包まれていた。編集部が誇る看板作家、ベストセラーを連発する小野崎青葉の最新作原稿の入稿期限が今日中に迫っているのだ。
18時を過ぎた頃、編集長の工藤咲絵は長い黒髪を後ろで束ねながら溜息をついた。小野崎からの連絡はない。東京を襲う豪雨のせいで、不安は募るばかりだ。
「小野崎先生、間に合いますよね……」
ディスプレイに視線を落としながら呟いた咲絵の背後で、若手のホープ、沢村亮が声をかけた。ラグビー部出身の巨漢。彼は編集部でも異彩を放つ存在だ。
「編集長、ご心配には及びません。小野崎センセイなら必ずや原稿をお届けになるはずです」
亮の言葉に、咲絵は小さく微笑を浮かべた。彼の楽天的な姿勢は、咲絵にとって新鮮な気持ちを与えてくれる。彼女もかつては、あのように希望に満ちていたのだろうか。
不意に、インターホンの呼び出し音が部屋に響いた。亮が弾むように応対に向かう。程なくして戻ってきた彼の手には、一通の封筒が握られていた。そこには、小野崎青葉の名が記されていた。
「ああ、よかった。無事届いたのね」
安堵の息を漏らす咲絵に、亮は喜色満面で頷いた。
「編集長、これで万全ですね。早速原稿の点検に取り掛かりましょう。小野崎先生からは校正のご依頼もありました」
封筒を受け取った咲絵は、デスクに向かって原稿に目を通し始めた。小野崎青葉の文章は、常に咲絵を別世界へ誘う。深遠にして濃密な森のような文章だ。だが今回、その叢林の奥底に潜む何かに、咲絵は不可解な既視感を覚えずにはいられなかった。
夜半、咲絵は最後のページを読み終えた。例によって玄妙な文章だったが、どこか違和感が拭えない。
「沢村くん、ちょっといいかしら」
まだ残業中だった亮を呼び止め、咲絵は尋ねた。
「この原稿、どこか変だと思わない? いつもの小野崎先生らしからぬ、歯切れの悪い文章が目立つのよ」
原稿に目を通し始めた亮もまた、咲絵に同意した。
「たしかに数か所、平板な表現が見受けられます。言い回しというか、推敲の余地がありそうですね」
深夜にも関わらず、二人は原稿の校正作業に没頭することにした。窓の外では、容赦ない雨脚が叩きつけている。
そのとき、編集部の電話が喧しく鳴り響いた。亮が受話器を取る。
「はい、NEO文芸編集部でございます」
亮の体が石のように硬直したことで、編集部内に沈黙が落ちた。そして彼は、震える声で言葉を紡いだ。
「……か、かしこまりました。ただちに、駆けつけます」
不安げな面持ちの咲絵に、亮は青ざめた顔で告げた。
「編集長、大変です。……小野崎先生が、急逝されました」
その知らせは、咲絵の胸を貫いた。
小野崎青葉の訃報は、NEO文芸編集部に衝撃をもたらした。才女の死因は過労とされる。デビュー以来精力的に創作活動を続けてきた彼女は、無念の最期を迎えたのだ。
*
通夜の日、会場に足を運んだ咲絵と亮は、小野崎の遺族に頭を垂れた。小野崎の母親は、愛娘の死を未だ受け容れられない様子で、ひっそりと涙を流していた。
「先生……どうして……」
棺の前で目に涙を溜める亮を、咲絵は優しく諭した。
「きっと、小野崎さんは最期まで小説に魂を捧げていたのよ。私たちに出来ることは、彼女の遺志を継ぐことだわ」
二人の脳裏に、小野崎が遺した最後の原稿の謎が去来する。あの違和感の正体とは何だったのか。今となっては本人に聞くすべもない。
その夜、眠れぬままに会社に向かった咲絵は、もう一度原稿を精読した。やはり奇妙だ。随所に、小野崎の文体とは異質な言い回しが見出せるのだ。あたかも、別人の手が加わったかのような表現が混在している。
翌朝、咲絵は原稿を手に、亮を屋上に呼び出した。
「ねえ沢村くん、この原稿をもう一度精読してみて。小野崎さんの文章に、誰かの影響が感じられない?」
幾度も読み返していた亮は、持論を口にした。
「編集長のおっしゃる通り、一部まるで別人の筆致のようです。しかもその影響元は、単独ではないような……?」
二人は視線を交わした。小野崎の遺稿に秘められた謎。それは、一体何を意味しているのか。
*
業務を終えた夜、咲絵は会社近くの小料理屋に足を運んだ。ふと、カウンターに見覚えのある男の後ろ姿が目に留まる。近づいてみると、その男は振り返り、驚きの表情を浮かべた。
「おや、工藤さん? 相変わらずお美しいですね」
男は、かつてNEO文芸に在籍していた元編集者、篠原誠だった。彼は10年ほど前に独立し、新興文芸誌の社長として活躍している。
「篠原さん、それ私以外だったらセクハラですよ? でも、お久しぶりです。ご活躍のほどは?」
「おかげさまで順調ですよ。あ、どうぞこちらへ」
軽妙に挨拶を交わした二人は、隣り合わせに着席し酌み交わし始めた。近況を語るうち、話題は自然と小野崎青葉に移った。
「小野崎先生の訃報、まことに残念でした。彼女の文章は稀有の才能に恵まれていましたからね」
しみじみと回顧する篠原に、咲絵は小野崎の最後の原稿について切り出した。
「篠原さん、実は私、先生の遺作に違和感を抱いているのです。まるで、第三者が加筆修正したかのような……」
その言葉に、篠原は複雑な表情を見せた。
「第三者……ですか。沢村くんにお願いして拝読させていただきましたが、確かに小野崎先生らしからぬ部分もありましたね。特に後半部分は。しかし、工藤さんは学生時代に数々の受賞歴がある。校正と校閲はお手のものでしょう? しかし……気をつけ――」
その時、篠原のスマートフォンが鳴り響いた。彼は電話に出ると、厳しい面持ちになり、席を立った。
「すみません、ちょっと外さないと……」
そう告げて店の外へ出て行った篠原。だが、しばらくしても戻ってこない。不審に思った咲絵が様子を見に行くと、そこには倒れ伏す篠原の姿があった。慌てて駆け寄り、彼を抱き起こす。
「篠原さん、大丈夫ですか! しっかりしてください!」
だが、返答はない。篠原の鼓動は、既に止まっていた。そしてその手には、小野崎の作品集が握られていた。
篠原の突然の急逝は、NEO文芸編集部にさらなる動揺をもたらした。警察の調べでは、篠原の死因は心不全だったという。だが、小野崎の死との関連性を看過できない。二人の死の背後に、何かが潜んでいるのではないか。
葬儀の後、咲絵は亮と共に小野崎の自宅を訪れた。遺族には訝しがられたが、遺品の整理の手伝いのためだと言って聞かず、無理矢理部屋へ上がり込んだ。
あちこちに積み上がった原稿の束が、二人の目に飛び込んでくる。
「先生は本当に、執筆が生きがいだったのですね……」
原稿に手を伸ばした亮の前に、一葉の写真が舞い落ちた。拾い上げてみれば、そこには若き日の小野崎と篠原の姿があった。学生時代のようだ。
「あの……写真の裏に、何か書いてあります」
写真の裏面を見せた亮。そこにはこう綴られていた。
「青葉、君の文章はまだまだだ。もっと情熱を持て。篠原」
二人は目配せした。師弟関係にあったのだろうか。そして亮が写真を持ち上げた時、背表紙に挟まれていた紙片が床に落ちた。一枚のメモだった。
「……これは、先生の遺言に違いありません」
メモの内容はこうだ。
「もし私に万一のことがあれば、この作品を世に出してください。私の秘密を、明らかにする時が来たのです」
二人は息を呑んだ。小野崎には、隠し事があったのかと。
記されていた場所を探ると、一編の原稿が置かれていた。それは長編小説だった。二人はタイトルを見た途端、絶句した。
「本当の私 ~ゴーストライターの告白~」
本文を紐解いていくと、そこには衝撃の事実が記されていた。小野崎青葉の作品の大半は、彼女自身の手になるものではなかったのだ。彼女は複数のゴーストライターを雇い、自らの名を冠して作品を発表していたのだった。
「ゴーストライターだって……まさか、先日亡くなった篠原さんも?」
頷く亮。原稿に挟まっていた取引履歴には、篠原の名前も記載されていた。遺稿にあった違和感の正体は、篠原ら複数の執筆者の影響だったのだ。
真相を知った咲絵は、愕然とした。小野崎はなぜ、ゴーストライターに頼らざるを得なかったのか。彼女の才能は、虚構だったというのか。
一方の亮は、小野崎の遺志に従うべきだと主張した。
「編集長、これこそが小野崎先生の本懐だったのです。僕たちに真実を託そうとしていた。だから……」
涙を滲ませる亮に、咲絵は葛藤した。そして決断した。
「……そうね。小野崎さんの、最期のメッセージを世に示しましょう」
1年後、小野崎青葉の遺作「本当の私」が、NEO文芸より刊行された。自らの秘密を赤裸々に綴ったその告白は、文壇に激震をもたらした。
同時に、小野崎自身の真作もいくつか公開された。ゴーストライターに頼る以前に書き上げられた、彼女渾身の物語だ。文章は洗練されていないが、そこには彼女の魂が宿っていた。
そう、小野崎青葉は最期の作品を、ゴーストライターに頼ることなく、一人の作家として自ら紡いでいたのだ。
創作に対する熱き思いを、最後まで誰にも打ち明けられなかった彼女。その心情を代弁するように、遺稿の末尾にはこう記されていた。
「私の人生は、小説と共にあった」
やがて歳月が流れ、ある日のこと。咲絵のもとに一通の書簡が届いた。差出人の名を見て、彼女は息を呑む。
――小野崎青葉。
震える指先で封を切ると、そこには一枚の手紙が収められていた。
「咲絵様へ。唐突な便りで驚かせてしまい申し訳ございません。実を申しますと、私はあの日、死んでなどいなかったのです。このことは家族すら知りません。どうやったのかは秘密です。そして咲絵様、あなたにはこれから先、私の作品を代筆していただきたいのです。いわゆるゴーストライターというやつですね。あぁ、そうそう、この手紙のことを誰かに漏らしたりすると、亮くんがあなたを始末します。おとなしく言うことを聞いてくださいね。小野崎青葉より」
拙い筆致の文面を読み終えた咲絵の背筋を、戦慄が走る。ゆっくりと振り返ると、そこには不敵な笑みを浮かべた亮の姿があった。
「その封筒、僕が届けたんですよ。消印ないでしょ? 実は、篠原が裏切りをほのめかして厄介でしてね。ゴーストライター協会のことをバラす、なんて言わなければ、彼も死なずに済んだものを。まあ、小野崎青葉の名で最後に一山当てさせてもらいましたし、これでよしとしましょう。彼女は別名義で作家活動を再開してますからね」
昼下がりの静寂の中、編集部には咲絵と亮の二人きり。この状況が周到に仕組まれたものだと悟った咲絵は、逃げ場のないことを思い知った。
「咲絵さん、あんたゴーストライターにならなきゃ、家族がみーんな心不全で死ぬんだぜ……。秘密が漏れねえよう、くれぐれも気をつけな」
亮は咲絵の耳元に顔を寄せ、豹変した低い声で囁いた。
かくして、NEO文芸編集部に新たな伝説が幕を開けた。表向きは小野崎青葉の遺作を発表し、次々とスマッシュヒットを飛ばす。だが水面下では、ゴーストライターとなった咲絵が、家族の命を懸けて小説を生み出し続けているのだった。
小野崎青葉の遺作の華やかな影に潜む、編集者――咲絵の知られざる苦悩。ペンを握る彼女の横顔に、亮は満足げに微笑んだ。かつて小野崎がそうであったように、今度は天性の才を持つ咲絵が、称賛の裏で身を削っている。そう、才能とは時に残酷な枷となり、芸術家を蝕んでいく。創作の神は、救いではなく救いのない試練を与えた。
時は静かに流れ、咲絵が紡ぎ出す新たな物語が、「野﨑青葉」というペンネームで世に送り出された。もはや、その作品が誰の手によるものなのかを知る者はほとんどおらず、しかし確かに小野崎の魂が息づいていた。桜の舞い散る頃、文壇の地平に新たな星が姿を現したのである。
(了)作者人狼参加作品