2月14日(5)
理性が本能に負け、琢磨はビルの中に足を踏み入れる。
廃ビルの中はいろいろな物が散乱していた。
服屋がテナントに入っていたのだろうか布切れがたくさんある。
文房具屋もあったのか色とりどりのペンが入り乱れている。
にゃー
猫は上階への階段で一声鳴く。
どうやら階段を昇れ、と言っているらしい。
「もう、ここまで来たら、どこ行っても一緒だよな……」
自分に言い訳をしながら、琢磨は猫に続いて階段を昇る。
猫は二階に出ることなく、さらに上の階を目指した。
琢磨も猫の後を追うように上への階段を昇る。
そして、三階へと到着すると、猫はさっと暗闇に消えた。
「え?」
猫が一瞬でいなくなったことで戸惑ってしまう。
「もしかして、お前が連れてきたかったのはここなのか……?」
ここに何かあるのだろうかと首を傾げていると、
「アハハ……」
不気味な嗤い声が聞こえてきた。
「っっ⁈」
背筋が凍る。本能的に恐怖を感じさせる、そんな嗤いだった。
「いいねぇ……。こんなにも活きがいい素材は久しぶりだ……」
ねっとりとした声が奥から響いてくる。
「……素材? この嗤い声の主は何を言っているんだ?」
大きな疑問が頭を擡げる。
同時に、そいつが一体何をしているのか強い好奇心にかられた。
怖くないといえば嘘になる。しかし、こういうときは往々にして確かめてみたい、という衝動に駆られるものだ。
「……ちょっとくらい、いいよな」
琢磨は嗤い声がした方向に足を向ける。
「アハハ……、さて、この子はどんな子になるかな……」
どうやらここから声が聞こえてくるようだ。
琢磨は息をひそめて柱に身を隠す。
さて、そいつはこんな廃ビルで一体何をしているんだろう。
この好奇心の正体がいよいよ明かされる。
琢磨は逸る気持ちを押さえながら、そっと柱から顔を覗かせた。
そして、琢磨の目に映ったのは――――
――――ベッドの上で解体される死体と心臓を片手に恍惚な表情を浮かべる男の姿だった。
「っっ⁈」
驚きのあまり言葉を失う。
目の前の光景が信じられなかった。
もしかして、目の前のあいつが一連の事件を起こした犯人なのだろうか。
だとしたら、ヤバい。ものすごくヤバい。
本能が鋭く警告する。
逃げないと――――
琢磨は踵を返す。
しかし、今朝の自転車のパンクを大きく上回る不運が琢磨を襲った。
パキッ
「え?」
足元を見ると、ボールペンが踏んづけられて割れていた。
「誰だっ」
直後、男の声が響き渡る。
「っっ‼」
とっさに体が動いた。
全速力で階段に向かって駆け出していく。
男は琢磨が逃げていく姿を目にして、
「やった……、今日はツイている……」
そう言って、その顔に嗜虐的な笑みを浮かべた。
一方、琢磨は必死に足をフル回転させていた。
ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい………………。
捕まれば確実に殺される。あの死体のように解体され、心臓をくり抜かれる。
恐怖心に駆られ琢磨は全力で足を動かす。
昨日が雨だったからだろうか。どこかからピチャン、ピチャンと滴のしたたる音がする。
琢磨にとっては、その音さえも死神の足音のように聞こえた。
「はあ、はあ……」
階段を一つとばしで駆け降りる。
一階に到達すると、一目散にビルの出口へと向かった。
出口までの距離があと五メートル――――。
四メートル――――
三メートル――――
二メートル――――
一メートル――――
そして、待ちに待った外の世界に飛び出した。
目の前には雑踏としたビル群が立ち並ぶ。まるで、異世界から現世に戻ってきたような感じがした。
「はあ、はあ……」
息も絶え絶えに後ろを振り返る。
しかし、あの男の姿はない。
そのことを確認すると、
「はあ~、た、助かった~~」
大きく息を吐いて、その場にへたり込む。
もう全身に力が入らない。
恐怖でアドレナリンが出まくっていたため気がつかなかったようだが、どうやら、体の方はとっくに限界を迎えていたらしい。
「あっ、そうだ」
そこで琢磨は今やるべきことを思いだす。
そう、このことを警察に連絡しないといけないのだ。
警察がここに来てくれれば、あの男を逮捕してくれるだろう。
「そうと決まれば早く警察に連絡をしないと……」
ポケットの中に手をつっこむ。
「あのう……、私、警察の者ですが、何か御用ですか?」
携帯をポケットから取り出した瞬間、そう声を掛けられた。
琢磨は運が良かったと心から思った。
これならわざわざ電話しなくてもいい。この警官に今あったことを伝えるだけだ。
しかし、琢磨は気がついていなかった。
――――その声は背後から聞こえてきた、という事実に。
「あの、俺、今さっき、このビルで――――」
とっさに琢磨は振り返る。
彼が見た最期の光景は、ついさっき見た男の顔に喜悦が張り付いている姿だった。