2月9日(3)
彼女はシャワーを浴びるだけだったので、お鍋を見ている時間はそこまで掛からなかった。
時間にして十分強といったところか。
「出たよー。お鍋を見ていてくれて、ありがとう」
ラフな部屋着に着替えた芽衣が髪をタオルで拭きながら戻ってくる。
温水を浴びて血行が良くなったのか、頬がほのかに上気していた。
「ああ、これくらい安いもんだ」
「もう火を止めても大丈夫だよ」
「わかった」
つまみを回して火を止める。
彼女はリビングのソファに移動していたので、俺もそっちに向かった。
「ねえ、いつものお願い」
彼女はソファの前に腰を下ろしていた。
「ああ、もちろん」
いつもの、という言葉で彼女が何を望んでいるのかが分かった。
ソファに腰を掛け、ドライヤーを手に取る。
電源をオンにすると、ドライヤーから柔らかい温風が吹き出した。
空いた手で彼女の髪を撫でながら、温風を当てていく。
「やっぱりわたしはこの時間が好き」
「ああ、俺もだ」
彼女の繊細な髪が指に絡まる。
お風呂上りのシャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。
「彰の手が優しくって、わたしを大切にしてくれているって感じられるから。自然と心が落ち着く」
「俺もこの瞬間が芽衣を一番近くに感じられる」
「……ほんと?」
ぐるんと彼女は顔を上向けた。
「おっと」
驚きながらも温風を直接顔に当てしまわないよう、ドライヤーの向きを変える。
「こんなにも無防備で、こんなにも素を見せてくれるのは俺だけなんだなって」
「あはは、そうだよ~。彼氏の彰だけ特別~」
彼女は笑い飛ばす。でも、恥ずかしがっているのがバレバレだった。
見ているこっちも恥ずかしくなってくる。
「……ねえ、わたしってロングは似合うと思う?」
唐突に彼女が尋ねてきた。
「ん、いきなりどうした?」
「いいから、答えて」
どうやらこちらに質問権はないらしい。
そうだな、と言いながら髪が伸びた彼女の姿を思い浮かべる。
活発な印象が強い彼女がロングにしたらどうなるのだろうか。
落ち着いて大人っぽくなるのか?
大人しい芽衣……、なんかあんまり想像がつかないな。
あ、でもそんな芽衣も見てみたいかも……
「なかなか返答しないけど、やっぱり似合わないってこと?」
返事が遅かったのか、彼女は不満そうに問いかけてきた。その声音には若干の不安も混ぜ込んで。
「あ、ごめん、ごめん。いいや、今も髪型も可愛いけど、ロングも可愛いと思うぞ」
「ほんと?」
「ああ。というか、新しい芽衣を俺が見てみたいだけかも」
「~~っっ」
途端に彼女の顔が真っ赤になった。
耐えられなくなったのか顔を伏せる。
ちょうど髪が乾いた。
温風を止め、ドライヤーを隣に置く。
髪を乾かし終えても俺たちはその場を動かなかった。
「そういえば、芽衣って髪を長くしていた時期とかあったのか?」
「えーっと、たぶんないと思う。昔のアルバムとか見てもどれもショートだったし」
「やっぱりショートの方が怪異と戦いやすいとか?」
「うん、そう。動き回るとき邪魔だし、汚れとかも気になるから」
「ああ、そうか、たしかに怪異と戦っていると砂とか埃とかもたくさんつくよな」
「そうそう。まあ、ちゃんと手入れをすればいいんだけどね」
面倒くさくなってドライヤーをしなくなった彼女のことだ。そういった手入れも絶対面倒くさがるに違いない。
もしかしたら、彼女の母親はそういった娘の性格を熟知した上でショートにさせていたのかも。
「それならどうして突然、髪を伸ばそうと思ったんだ? 聞いている感じ、結構大変なんだろ?」
「……から」
「えっ?」
彼女の声が小さくて聞こえなかった。
「ごめん、よく聞こえかった」
彼女の声を聞き取るべく、顔を寄せる。
「……もっと長く、彰に髪を乾かしてもらいたいから」
よほど恥ずかしいのか、彼女は膝を抱えながら身を縮こまらせた。
なるほど、たしかに今の髪の長さだとどうしてもすぐに乾かし終えてしまう。ロングにすればもっとこの特別な時間を続けることができるだろう。
「ぷっ、はは……」
「えっ、な、なにっ、お、おかしいっ⁈」
いきなり俺が吹き出したので、彼女は焦りながら顔を振り向かせた。
ちょっと不安そうな彼女を後ろから抱きすくめる。
「~~っっ⁈」
突然腕を回されたことに彼女は戸惑っていたが、何らの抵抗もしなかった。
それどころか、健気に両手を俺の腕に添えてくる。
「俺の彼女が可愛すぎただけだよ」
彼女の耳元でそっとささやく。
「……ばか」
彼女は小さくそう呟くだけだった。