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第五部

 鈴木が部屋を出たと同時に、隣からバタンッという大きな音がした。

 鈴木はドキッとしたが、隣を見てすぐに音の正体を察した。

 音は、片桐という老婆が住んでいる隣からだった。

 大方、またこっそりドアの隙間から様子を伺っていたのだろう、と鈴木は思った。

 鈴木は気にも留めず廊下を渡り、エレベーターの前に立った。

 岡村が体験したのはあくまでエレベーターの不調による不運な恐怖体験だと鈴木は信じているものの、ボタンに伸ばそうとする手が自然と躊躇してしまう。

 この世は科学的な根拠を基に成り立っている。それ以外の不可思議な超常現象など絶対に存在し得ないと鈴木は本気で信じ切っていた。

 しかし、そういう信念を抱きつつもわずかな恐怖心を抱いているのも事実だった。それはきっと、目の前のエレベーターでかつて一人の女性が無残に殺害されたという忌まわしい記録が残っているからだろう。

 実験を始めたいものの中々手が動かない。

 鈴木が困っていると、不意に背後から視線を感じた。

 ハッと振り返ると、また例の片桐という老婆がこちらを覗いていたのだ。

 案の定、目が合った途端にドアをピシャリと閉めてしまった。

 そろそろ鈴木の我慢も限度を越えた。

 扉の前に行くと、一旦気持ちを落ち着かせてノックした。

 少しの間があって扉が開き、老婆の片桐が顔を出した。

 片桐は相手が鈴木と知るや否や血相を変えて扉を閉めようとしたが、それを鈴木が隙間に足を差し込んで防いだ。

 痛みで思わず顔をしかめた。

「ちょっと、落ち着いて下さい。僕はただ、あなた…片桐さんでしたね。片桐さんが僕を見ては驚くのが気になって仕方がないだけなんです。ハッキリ言わせてもらうと、危ない人間を見ているような感じがしてとても不愉快なんです」

 と、鈴木は柔らかい口調だが非難を込めて訴えた。

 片桐は数秒目を泳がせてから、

「どうも、申し訳ありません。とんだ失礼を…」

 と、ゆっくりと頭を下げた。

 よく見ると着物姿の恰幅の良い老婆で、声も意外と低かった。

「僕は鈴木と言います。隣に住んでる石田信昭の高校時代の友人です。時々今日みたいに彼の所へ遊びに来る普通の男ですから、もしなにか怖がっていたのなら心配はいりませんよ。こちらこそ、失礼しました。乱暴なことをして申し訳ありません」

 と言い、鈴木はドアに挟まれていた足をゆっくりと抜いた。

 鈴木は会釈して廊下を歩き始めた。

「あ、あの、鈴木さん」

 俄然、片桐に呼び止められ鈴木は足を止めた。

「ひょっとしてエレベーターに乗るつもり?」

「え? …えぇ、そのつもりです」

「悪いことは言わないから、それだけはやめてちょうだい。それが彼女の為でもあるし、あなた自身の為でもあるのよ」

「彼女? …もしかして、足立順子さんのことですか?」

 鈴木が聞くと、片桐は廊下をキョロキョロと見回してから手招きした。

 どうやら、部屋へ入れと言っているらしい。

 鈴木は言われるがままに片桐の部屋へと向かった。

 中に招かれると、石田の部屋と全く同じ居間が目の前に飛び込んだ。

「今、お茶を淹れますからね」

「いえ、お構いなく」

 と、鈴木は言うが、間もなくして片桐が二人分のお茶を持って戻って来た。

 テーブルを挟んで鈴木と片桐は向かい合って座った。

「鈴木さんはお隣の石田さんの友だちとさきほどおっしゃっていましたね?」

「ええ、そうです。今でもたまに飲みに行く仲です」

「それじゃあ、石田さんから足立順子さんの名前を?」

「ええ、聞きました。エレベーターで遺体が発見された事件についても一緒に」

「そう…」

「…あの、差し支えなかったら教えて頂けませんか。さっき、エレベーターには乗らない方が身の為だとおっしゃっていましたが、どういう意味ですか?」

 鈴木が遠慮がちに尋ねると、片桐はフーッと小さく息を吐いた。

「岡村という配達員がエレベーターに閉じ込められた話はご存知ですか?」

「今朝の新聞で知りました」

「あれはきっと…いえ、間違いなく足立さんが引き起こしたものです」

「つまり、足立順子さんの霊がエレベーターの怪現象を起こしたということですか?」

「そうです」

「とても信じられませんね」

 と、鈴木は苦笑を浮かべた。

「ええ、誰もがそう思うのが当然です。でも、五階に住んでいる方からお話を聞いて私は足立さんが起こしたものだと確信しました」

「その五階の人からなにを聞いたんですか?」

「岡村という配達員は、彼女の元に荷物を届けに来たようなんです。その際、彼女は岡村さんにエレベーターを使わないよう忠告をしたとおっしゃっていました。ところが、岡村さんはその忠告を無視してエレベーターに乗り込んだ。きっと、なにが起こるのかを楽しむつもりで乗り込んだと思うんですが、それが過ちだったんでしょうね。興味本位で乗った人に対する不快感で溢れた足立さんが、彼に想像以上の恐怖を与えたのだと私は思いました」

「エレベーターに漂う足立順子さんの魂が面白半分で乗った人間に怒りを覚えて脅かしたと、片桐さんはそうおっしゃるんですか?」

 片桐はゆっくりと頷いた。

 しかし、鈴木は今の話を一笑に付した。

「あり得ませんね。それはきっと、エレベーターの不調が原因の不運な事故ですよ。決して、足立順子さんの霊によるものなんかじゃありません」

「どうしてそう言い切れるんです?」

「根拠はありません。でも、僕がこれからそれを実証してみせますよ」

「実証? なにをなさるつもりなの」

「簡単な実験ですよ。夜、僕があのエレベーターに乗り込むだけです。もし足立順子さんの霊があのエレベーターにいるのなら、乗り込んだ僕もきっと岡村さんのように大変な目に遭わせられるでしょう。でも、僕は全く恐れませんね。なにせ、そういう説明の付かない現象がこの世に存在するとは思っていませんから。あれはエレベーターの誤作動であって、怪現象じゃありません。それを身を以て証明してみせますよ」

「それだけはダメ!」

 突然、片桐が野太い声で大声を上げたので鈴木はビクッと身震いした。

 片桐は我に返るとお茶を一口飲んで小さく息を吐いた。

「お願いだから、それだけはやめてちょうだい。あなたがそんな理由だけでエレベーターに乗ったら、それこそ足立さんは恐ろしいことをするかもしれないわ」

「岡村さん以上にですか?」

「そう。鈴木さんだとなおさら…」

「言葉の意味が分かりませんね。どうして僕だともっと恐ろしい目に遭うんです?」

 片桐は言うべきかどうかで悩んでいるような様子を見せたが、意を決したのか咳払いをしてから口を開いた。

「お気に障るかもしれませんが、ハッキリ言いましょう。鈴木さんの顔が、足立さんを殺害した男の顔と似ているからです」

 鈴木は目をパチクリさせた。

「僕が足立順子さんを殺した男と顔が似ているですって?」

「そうです。だから、私もあの日酔った石田さんを支える鈴木さんの顔を見たとき、思わず驚いてしまったんです」

「ということは、片桐さんはその男の顔をご存知なんですか?」

「もちろん。足立さんがまだ生きていらっしゃった頃、あの男と一緒に歩いているのを何度か見かけましたから。あれほど仲睦まじかった二人なのに、あの男は非情にも足立さんに何度もナイフを突き立てて刺し殺してしまいました。そいつと鈴木さんの顔立ちが、どうしても似ているんです」

「………」

「足立さんは真面目な方で、仕事や近所付き合いも積極的でした。とにかく適当に物事をするのと、面白半分でいい加減に取り組むのを嫌う性格の人でした。ですから、好奇心でエレベーターに乗った岡村さんの軽い気持ちに彼女は怒ったんでしょう。でも、あの男と似ている鈴木さんが実験のつもりでエレベーターに乗ってしまった場合、きっと彼女は岡村さん以上の恐怖をあなたに味わわせてしまうかもしれない。私は、それを懸念しているんです。だから、容易な気持ちであのエレベーターに乗るのだけはおよしなさい」

 と、片桐は険しい顔で諭すように言った。

 あまりの凄味に鈴木は思わず息を呑んだ。

 さっきまでの温厚でお淑やかだった雰囲気がガラッと変わり、片桐は凄味を利かせた剣幕で必死に鈴木にバカな真似はやめるように訴えた。

 しかし、今の鈴木には片桐の必死な訴えとは真逆の決意が固められていた。

 やるなと言われれば逆にやりたくなる、それが人間の性だった。

 岡村、そして鈴木も然りだった。

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