第二部
翌日。
業務を終えた鈴木がアパートに着くと、部屋の前に石田が立っていた。
昨日、泥酔した自分に代わって立て替えてくれた料金を支払いに来たという。
「一応の常識を身に付けていたみたいで安心したよ」
「俺だって社会人の端くれだからね。…それより、中に入ってもいいか?」
「言っておくけど酒はないぜ?」
「酒はいいよ。話したいことがあって来ただけだから」
と、石田は何故か神妙な面持ちを浮かべていた。
鈴木は妙な気持ちになりつつも石田を中に招じ入れた。
鈴木は座布団を出すと、石田と自分の分のお茶を淹れた。
あぐらをかいていた石田はお礼を言って一口含んだ。
「…で、話したいことって?」
鈴木も向かい合う形であぐらをかいた。
「たいした話じゃないよ。ただ、鈴木が気にしていたら悪いと思ってね」
「どういうこと?」
「エレベーターのことだよ。昨日、俺が階段を使えって言ったことで、もしかしたらお前が気にしているんじゃないかと思ってね」
鈴木は思わず失笑してしまった。
「なんで笑うんだよ」
「いやいや、ごめん。なにかと思えばそんなことかと思ってね。友達付き合いを大切にするやつなのは分かっていたけど、その程度のことまで気にしていたんだと思ったらなんとなくおかしくなってね」
と、鈴木が笑いながら言うと、石田はフンッと鼻を鳴らしてお茶の残りを飲み干した。
「笑って悪かったよ。俺は別に気にしてないから安心しろよ」
「確かにお前が気にしてたんじゃないかという心配もあったけど、俺が本当に話したかったのはそれだけじゃないんだよ」
「というと?」
「エレベーターを使ってほしくないれっきとした理由を説明したかったんだ」
「なにかいわくつきなのか?」
「まあ、外れてはいないかな」
「なにがあったんだ?」
「…殺人だよ」
湯飲み茶碗を手にした鈴木の手が止まった。
「それも、あのエレベーターの中でね」
「マジかよ。気味悪いな…」
「だろう? だから、俺は普段からあのエレベーターを使わないようにしてるんだ。もし使って殺された人間の霊に憑かれでもしたら敵わないからね」
「石田はその事件について知ってるのか?」
「事件自体は俺が住み始めるより前に起きたらしいけど、昔からそこで暮らしてる住民から大抵の話を耳にしたよ」
「興味本位で聞くけど、誰が殺したんだ?」
「男」
「殺されたのは?」
「女」
「詳しく聞きたいな」
「殺された女性、確か足立順子って名前の人だったかな。その人と殺した男は相思相愛の仲だったらしい。足立順子はあのマンションの住民で、男はちょくちょく彼女の部屋に訪れていたらしい。当時から二人を知る住民によると理想的なカップルのような印象を受けたらしい。でも、ある日その二人の間に亀裂が生じたらしく、頻繁に部屋の中やマンションの前で言い争いを繰り返していたらしい。それから間もなくして、足立順子の無残な刺殺体が発見されたんだ。その現場があのエレベーターの中なのさ」
石田はいつの間にか怪談を聞かせるような身振り素振りで語っていた。鈴木の顔が心なしか青ざめたのを見て得意気になったのかもしれない。
実際に鈴木は背筋がゾワッとしていたが、すぐに気を取り直し、
「なんでそんな忌まわしいマンションに住むんだよ」
と、呆れ顔で言った。
「立地条件がよかったからさ。それに、別に被害者が住んでいた部屋に住むわけじゃないから、さほど気にならなかったんだよ。…だけど、あのエレベーターだけは未だに使う気になれないね」
「違いない。その話を聞いちゃあ、俺も階段を使うのが無難だと思うよ」
「よかったな。忠告してくれる友達想いの俺がいて。もしあのままエレベーターに乗ってたら、幽霊になった足立順子が現れていたかもしれないぞ」
と、石田がニヤニヤしながら言った。
「お生憎様。俺は一切信じてないんだ。幽霊とかオカルト現象とかそういう類のものは」
「でも、今さっきエレベーターに乗らなくてよかったと言ってただろ?」
「それは単に、あのエレベーターが殺人現場だからという意味でだよ。いくら幽霊を信じていない人間でも、人が殺された現場に行くのは怖いだろう。それだけのことであって、俺は足立順子という女性の霊が出るのを恐れているわけじゃない」
「頭が固いなぁ」
「現実主義と言ってほしいね」
「…ところでさ」
「ビールも無いよ」
「………」