第一部
「会社の連中はほとんど下戸の集いだから正直誘ってくれるのは嬉しいよ。…だけど、そのお前が相も変わらず先にべろんべろんになられちゃ俺だって敵わないよ」
と、鈴木則行はうんざりした様子で肩を貸してやっている隣の石田信昭に小言を言った。
当の石田は鈴木の愚痴などお構いなしに、愉快げな様子でへらへら笑いながらおぼつかない足を動かしている。
本日、日曜の午前。
休みの時間を退屈そうに過ごしていた鈴木の元に、高校時代の同期だった石田から突然電話が来た。
「色んな同期を誘ったんだけど、どいつもこいつも酒が飲めないから…とか、俺に付き合うのだけは御免だね、とか言って断るんだよ。で、結局鈴木しか誘うやつがいなかったから、こうして電話したってわけ」
と、石田は受話器越しに言った。
鈴木は最初、返答に窮したがすぐにその誘いに乗った。
鈴木は酒が飲めないわけではないが、積極的に飲酒するほど特別好きというわけではなく、飲み会の誘いがあれば酒よりも世間話に花を咲かせたい意味で参加する程度だった。
高校時代からジョークを言っては仲間たちを笑わせていた石田との飲み会は鈴木も乗り気だったが、唯一げんなりさせられるのが酩酊後の石田の扱いだった。
普段は生真面目な常識人として通っている石田だが、いざ酒を入れるとキャラが一変するのだ。
今では高校の同期たちの間のみならず、彼が勤務する会社の同僚たちからもその変貌ぶりは有名だった。
それを知っていたため、鈴木は一瞬躊躇したのだ。
しかし、久しぶりの誘いだったこともあり鈴木は面倒臭くなる覚悟を決めてその誘いに応じた。
が、案の定、石田は鈴木を差し置いて一人泥酔してしまった。
幸い、石田が飲み会の場に選んだ居酒屋が彼の住むマンションから徒歩で行ける距離にあったため、それほど苦労はしなかった。
マンションに着くと、鈴木はエレベーターのボタンを押そうとした。
それを、酔っ払った石田が手で払ったのだ。
「痛いじゃないか」
「バッカヤロー、そんなもん必要ねえやいっ」
「だって、お前の部屋は六階だろ? しかも酔ってるんだしエレベーターを使わないとキツイぞ」
「アホ抜かせ、酔ってなんかいるか。ほれ、この通りーー」
と、石田は怒鳴りながら階段を登ろうとしたが、足を踏み外したたらを踏んでからその場で尻餅をついてしまった。
「ほうら、言わんこっちゃない。エレベーターに乗ろうぜ」
と、鈴木が腕に手をやると石田はそれを払い除けた。
「階段を使うっつっただろ!」
怒号を上げた石田は真っ赤になった両手で手すりを掴むと、重い体を強引に動かすような動作で段差を一歩ずつ上がり始めた。
鈴木は小さくため息を吐くと、階段から転げ落ちないように友人の背中に手をやりながら上がった。
およそ五分かかって、ようやく六階に到着した。
鈴木が肩を貸しながら石田の部屋へと向かう。
ドアの前に到着し、石田がフラフラしながら鍵を取り出そうとしたが、酔っているせいで悪戦苦闘している。
見兼ねた鈴木が代わりにバッグから鍵を探そうとしたとき、ふと視線を感じた。
横を見ると隣のドアがかすかに開き、一人の老婆がジッとこちらを見つめていた。
「どうも、騒がしくて申し訳ありません」
と、鈴木は苦笑を浮かべて会釈した。石田の声がうるさくて文句を言いに出てきたと瞬時に思ったからだ。
だが、老婆は慌てて顔を引っ込めると、ピシャリと勢いよくドアを閉めてしまった。
鈴木は首を傾げたが、気を取り直すと鍵を取り出しドアを開けた。
部屋に入った途端、石田は蹌踉な足取りで台所へ行き、コップに入れた水をグイッと飲み干した。三度ほど飲んだところでようやく酔いも醒めたらしく、フーッと息を吐いて頭を振った。
「石田があんまり騒がしいもんだから、お隣さんが不安そうな顔で出てきたぞ」
と、鈴木がリビングのソファに座りながら言った。
「お隣? …あぁ、片桐さんか。あの婆さんなら心配いらないよ。優しい人だから」
「そういう問題じゃないだろう。こんな時間に酔っ払いが大声出しちゃ近所迷惑だよ」
と、鈴木は壁にかけられた時計を見て言った。
時刻は午後十一時を優に過ぎていた。
「確かにその通りかもね。悪かったよ、お前にまで迷惑かけて。なにか飲むか?」
「いや、いい。アルコールを摂り過ぎてこれ以上なにも口に入らない」
「もう帰るのか?」
「そうするつもり。明日から仕事だしね」
「帰るんなら階段使えよ」
「ここ六階だろ? エレベーターに乗るよ」
「いいから、階段を使えって」
「さっきもだけど、なんでそんなにエレベーターに乗せたがらないんだよ?」
「電気代が勿体ないからだよ」
と、石田は少しの間があってから答えた。
いかにもとっさに思い付いた言い訳のような気がしたが、鈴木は問い詰めないまま石田の部屋を辞した。
エレベーターの前まで来て鈴木は立ち止まった。
エコロジストとも思えない石田の言葉が反って気になり、鈴木はエレベーターに乗り込みたい衝動にかられたが、小さなため息を吐くと言われた通り階段に向かって歩を進めた。
そのとき、ふと視線を感じて廊下の方を振り返った。
またしても隣人の老婆がドアの陰から顔を覗かせて見ていた。
(確か片桐って名前の…)
目と目があった鈴木はもう一度会釈をしたが、老婆の片桐はさきほどと同じく慌てて目を逸らすと、大きな音を立ててドアを閉めてしまった。
鈴木は思わずムッとした。
酔い潰れた同期を苦労しながらマンションに送り届けた挙句、初対面の老婆に不審な眼差しで見つめられた上に挨拶を無視されてしまったからだ。
鈴木はモヤモヤな気分に陥ったが、すぐに気を取り直して階段を下りた。