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第5話:神様はリップクリームから現れた

 急な腹痛時に駆け込んだトイレは天国だ。

 苦しみから解き放たれた開放感。


 社務所の横にある小さなトイレの洗面台にて、俺は満ち足りた気分で手を洗っていた。

 1つも曇りなく磨き抜かれた洗面台の鏡を見ると、見飽きた顔が映っている。特筆すべき点などない、平々凡々な俺の顔。


 平凡だが、適度なトレーニングと健康的な生活を送っていたので身体は引き締まっている。風呂上がりの肌の手入れの賜物か、肌艶もいい。

 自分で言うのは憚られるが、鏡に映った顔は人並みには整っている、と思う。

 化粧を施し、髪型を整え女性服を着れば人前に出ても恥ずかしくない水準には届くはずだ。


 女装するのも有りじゃないか。


 女性向け美容雑誌を購読していたので、化粧品の知識や、ヘアメイクの心得は持ち合わせている。

 可愛い女性服が買える店は、休日にファッション街を1人で歩きながら探したので調査済みだ。体型的にも女性服は着れる。


 女装してもいいが、ただ可愛くなりたい訳じゃない。


 ―俺は、美少女になりたい


 ―美少女になって、友達とショッピングして、一緒にアイスを食べながら談笑したい


 ―どうせならアイドルになって、武道館の声援を独り占めしたい!


 ふぅ・・・。

 漏らした溜息が、蛇口から流れ出る水とともに洗面台の排水溝に吸い込まれていく。


 悩むには虚しすぎる場所だ。手を拭くためにハンカチをポケットから取り出す。


 かちっ・・・


 爪の先に硬い物が当たって音を立てた。ハンカチと一緒に入れたリップクリームに爪先がぶつかった音。


 リップクリームを取り出し、掌に乗せて凝視する。


 ―神様の落とし物か


 きゅっぽん・・・

 蓋を外すと、誰の唇にも触れていないリップクリームが露わになった。

 真っ直ぐ斜めに切り揃えられた汚れなき乳白色の先端を見ると、思わず口につけたくなる。


 拾ったリップクリームだが、使いたい気持ちを抑えられず、先端を口に近づけた瞬間。

 声が聞こえた。


『み、ず・・・ほ』

 地の底から響く地鳴りに近い声が耳に届く。周波数が合わない無線通信のように、途切れ途切れで雑音混じりだが、人の声に聴こえた。


 思わず周りを振り返る。

 狭いトイレの中に居るのは俺1人。

 後ろに並んだ個室の扉は2つとも開いている。入っている人は、いない。

 誰もいないトイレから声は聞こえない。

 聞こえる筈がない声を捉えてしまった恐怖が襲ってくる。聞き間違えだと何度も自分に言い聞かせた。


『みずほ・・・』

 今度は明確に聞き取れた。俺の聞き間違えではない。遠くまで届きそうな高く透き通った女性の声。

 ここは男子トイレだ、なぜ女性の声がする。


 ―声は、みずほと言っていた?


 ―瑞穂(みずほ)は俺の名前


 ―なぜトイレで俺の名前が?


 名前を呼ぶ人は他にはいない。用を足すのが長すぎると待つ人もいない。聞こえた声は、飛鳥のものとも違う。


 考えても分からない。

 古い木造の壁の隙間から吹く風のせいではないだろう、背筋が凍るほど寒くなってきた。

 目を背けつつ恐怖を抑えながら目の前の鏡を確認する、映っているのは俺の顔だけ・・・

 恐怖のあまり、左右の耳を両手で塞ぐ・・・



「瑞穂!聞こえているのであろう!返事をせい!」


「わぁっ!」

 耳元に響く突然の大音量に驚き、叫び声を出してしまった。

 手で塞ぐ耳元から声がした。

 耳を覆っていた掌を洗面台の上に広げてみる。

 左右の耳と手の間にあるものは1つずつ。左耳にはハンカチ、右耳にはリップクリーム。

 大声が聞こえたのは右耳の方。


 ―リップクリームが喋った!?


 いや、俺の持つリップクリームは大音量を発したにも関わらず振動していないので、聴覚に響く声ではない。脳に直接流れ込む声かもしれない。

 聴覚が捉えた音でないなら、音源の方向は認識出来ない筈だが、声は右耳から感じた。届いた音信号は指向性を持つ可能性がある。


 大音量に驚き、感じていた恐怖心は掻き消された。少し落ち着いて考えても、リップクリームが喋るとは思えない。

 混乱した頭では冷静な判断が下せず、俺は返事をしてしまった。


「名前を呼んだのはお前か?」

 手元のリップクリームに話しかけた。


「やっと聞こえたようじゃな、瑞穂。なぜもっと早く返事をしない。お主がわしを拾ってから、ずっと呼びかけていたのじゃぞ」

 喋っていたのは、リップクリームで正解らしい。


「やれやれ、力の弱い者に声を合わせるのは大変だったぞ。

 お主がリップクリームと呼ぶ、その薬筒から聞こえるように声を出して、意識まで伝えるのにどれだけ苦労したことか。少しは労って欲しいのう。

 お礼は・・・そうじゃな、大福でいいぞ。もちろん甘い粒餡がたっぷりと入ったやつじゃ。手で持つと溢れるくらい粉がまぶしてあって、柔らかい皮に齧り付くと中には小豆色が見えて・・・。想像したら食べたくなってきた。とにかく、わしの大好物は大福だからな、覚えておくがよいぞ」

 明瞭に声が聞こえるようになると、今度は饒舌に喋り出した。

 時代劇がかった口調から、戦国武将好きの女の霊が取り憑いているに違いない。憧れる余り、自分のことを武士だと思い込み、剣を極める旅に出るも志半ばに倒れた、そんなところだ。


 それより、大福を欲しがっているのが気になる。

 リップクリームが食べるのか?


「大福をあげても、その姿では食べられないだろ。そもそも、お前は誰だ?リップクリームに取り憑いた悪霊か?それなら残念だったな、俺には巫女の知り合いがいるんだ。飛鳥に頼んでお祓いしてもらおう」


 ―悪霊

 口に出した後に想像したら、吹き飛んだ恐怖が戻ってきた。恐怖で再び頭が混乱する。


 大福好きの悪霊は聞いたことないが、存在しないとも限らない。

 しかし姿を現さずリップクリームから話すことがあるのか。

 もしかして、俺の幻聴?

 お賽銭箱に鼻水を垂らした罰が当たった?

 あまりに美少女になりたいと願ったから頭がおかしくなった!?

 リップクリームは呪いのアイテムで、拾ったせいで呪われた!?


 ―考えても分からない


 悪霊、呪いときて、自分でも分かるほど恐怖で取り乱していた。血の気が引き、頭から倒れそうになるのを必死で堪える。

 隙間風が吹き込んでくるのでトイレは寒いが、リップクリームを持つ手は薄らと汗が滲んできた。


 ―今すぐ捨ててやる


 手に持つのが怖くなり、喋るリップクリームを洗面台横のゴミ箱に捨てようとした刹那。


 ―身体が、動かない


 リップクリームを握りしめ、ゴミ箱の上で静止する自分の手が見える。

 身体が動かないことが分かるので意識はある。自分の手が見えるので視覚は正常。起きている状況も理解できるので思考回路も動作中。

 経験したことはないが、まるで金縛りに遭ったように身体の動きが停止している。


「まったく、慌て者じゃのう。少しくらい話を聞くことも出来んのか。このまま捨てたら困るのはお主じゃぞ?ほれ、考える猶予を与えるために動きを止めてやった。わしには時間がたっぷりあるから、好きなだけ考えてよい。

 ふむ、もしかしてこの姿じゃ、ちと話しづらいかの。それならば・・・」

 一瞬、リップクリームを握る手から眩い光が放たれた。目に突き刺さる光に当てられ、金縛り状態の中で唯一動く目を瞑る。

 瞼の裏側から薄く光が見え、目を閉じても防ぎきれない光量に覆われているのが分かる。


「お主よ、目を開けるがいい。閉じていてはわしの神々しくも麗しい姿が拝めないではないか。ついでに、身体も自由にしてやろう」

 声に従って目を開ける。

 視界が開けた瞬間、身体の動きが戻る。長く堰き止められていた川が勢いよく放流されるように、全身の隅々に血が駆け巡り熱くなる。


 目を開けると、手の上に幼い少女が浮いていた。


 少女は艶のある黒髪を持ち、長さは肩にかかる程度。前髪は眉の高さで水平に整えられている。

 神社で見かける雷に似た形の白い紙飾りを模したものだろう、同じ形の髪飾りが頭についている。

 着ている服は最近では見ることが少ない和服。くるぶしまで届きそうなほど丈が長く、花柄が入った赤色の布が目を引く。

 自ら麗しいと形容したのに間違いはなく、真っ直ぐ伸びた前髪の下には切れ長の眼が据えられ、鼻筋の通った顔の造形美は、着物が似合う大和撫子というより、人間国宝が創り出した人形に近い。

 背丈は小さいが、類するものがない形容し難い美しさと、触れてはならない禁忌的な印象を併せ持っている。

 少女を見ると、人ならざるもの、神の領分に踏み込んでしまった感覚を覚える。


 ―正直、かなり可愛い


 例え少女が幽霊や人を化かす妖怪でも、命令されたら言うことを聞いてしまいそうだ。


「どうしたのじゃ?惚けてしまって。さては、わしの姿に見惚れてしまったのであろう。それも仕方ないこと、わしは美しすぎるからの」

 少女は宙に浮いた状態で話を続け、時折笑うと和服の裾が漂い揺れた。


「さて、瑞穂よ。わしはお主の祈りの強さに応じて出てきたわけじゃが、こうして姿を見せたからには名乗っておこう。

 わしは、香鳥神社の御神木を依代とする神の一柱。

 上総(かみつふさ) 甕速命(みかはやのみこと)じゃ。

 とても長い名じゃ、気軽にカズサと呼んでおくれ」

 幽霊や妖怪の類いではなく、神ときた。

 初対面で神と名乗られて気軽に信じるほど俺はお人好しではないが、カズサと名乗る少女からは信じさせるだけの圧倒的な神聖さを感じる。


 だが、もう少し話をしてみよう。話す間に何かボロが出る可能性もある。


「少女ではなく、カズサ・・・でよかったか。一旦、カズサが神だと認める。だが俺の前に現れた理由は?それに御神木が依代なら、なぜリップクリームから出てきた?」

「お主は、なかなか疑り深い性格じゃな。神を身近に感じぬ現代の子では仕方がないかの。

 先程も申したが、わしが出てきたのは、お主が祈ったからじゃ。先刻、本殿に向かって熱心に祈っておったろう。運のいいことに積年の願いとやらが、わしのもとに届いたのじゃ。願い自体は素っ頓狂なものだが、お主とわしは少々縁があるのでな、叶えてやろうと思ったのよ。

 神の気まぐれとでも言っておくれ。

 じゃが、いきなり媒介物なしに御神木から話しかけたらお主も驚くじゃろう。そこで、薬筒の登場じゃ。お主はリップクリームと呼んでいたかの。

 これを創るのも大変じゃった。お主の記憶をちと覗かせてもらい、興味を引きそうで、かつ持ち帰りに適したものを選んだのじゃ。

 依代の御神木だけでは、わしは動ける範囲が狭められてしまうからのう。神といっても難儀なもの。使える力は限られるが、これで自由に動けるようになる。久しぶりの人の世じゃ、色んなところに連れて行っておくれ」

 俺はカズサを知らないが、多少なり縁があるらしい。


「縁、と言ったが何のことだ。カズサと今まで会ったことは無いが」

 記憶を掘り起こしても、縁に繋がる糸口は見つかりそうもないので聞いてみる。


「気付かぬか、わしの名前じゃよ。上総(かみつふさ)と書いて、カズサと読むじゃろう。お主が暮らしていた生家はここから南東に離れたところだが、そこは昔、上総国(かずさのくに)と呼ばれておった。

 わしも遠い昔は上総国にいた神での。

 祀られていた神社が分祀されることになり、彼の地は他の神に任せ、わしはこちらに来たのじゃ」

 縁とは地元が同じことらしい。同郷の友人ならぬ同郷の神。偶然の縁にしては畏れ多い。


「さて、これでわしが神だと分かったであろう。それで、お主はどうするのじゃ?お主の願いを叶えるために苦心して出てきたのだが、気持ちは変わっておらんだろうな?」


 ―願い?もしかして、美少女になる願いか?


「俺の願いは、本殿で願ったものか?」

「そうじゃ、何度も言わせるでない。めんこい女子になりたいと、そう願ったじゃろう」


「めんこい女子?白塗りお歯黒の平安美人に生まれ変わったりしないよな。なりたいのは美少女だ」

 しつこいと思われるが、念押しで聞く。


「安心せい、お主の記憶を覗いたと言ったろう。ちゃんと分かってるわい。心配なら、お主が理想とする美少女像とやらを、わしの口から説明してやろうかの。

 それに、お主は生まれ変わることもなければ、別世界に飛ばされることもない。今の人間界で美少女になれるのじゃ。わしの力とて、違う世界にまで影響は与えられん。

 1つだけ忠告しておくが、お主は美少女になれるが一定の制限が付くはずじゃ。その制限はお主の日常生活に悪影響を及ぼすものかもしれん。大切なものを失うかもしれん。こればっかりは、やってみないと分からんが、それでも構わんな?」

「美少女像を説明するのは恥ずかしいからやめてくれ!もう、美少女になれるなら何を失ったって構わない。それで、どうやったらなれるんだ?」

 美少女になれる。考えただけで心が踊り狂いそうになる。長年の願いがようやく成就する時が来た。

 一時でも早く美少女になりたい。なれるのなら早く方法を教えてくれ。


「簡単じゃ、もう手に持っているであろう。お主が大切に握りしめているリップクリームを唇に塗ってみい。塗った後には立ち所に美少女に変化するはずじゃ」

 美少女になる方法は簡単だった。リップクリームを唇に塗る。それだけだ。

 金縛りが解けた後も俺の手の中に握りしめられているリップクリームを見つめる。


 ―こいつを塗れば美少女になれる?


 ―騙されていないか


 カズサの正体は実は狐で、化かされた俺が与太話に振り回されている可能性もある。唇に塗った瞬間に我に還り、目覚めたら顔が泥だらけになるかもしれない。


 だが騙されたなら、それでもいいか。

 長々と話に付き合ってきた。神と名乗る少女に一丁乗ってやろう。


 覚悟を決めてリップクリームの蓋を外す。


 きゅっぽん。

 蓋が外れる音は相変わらず小気味いい。


 未使用のリップクリームの先端を唇に近づけるとカズサが話しかけてきた。


「覚悟はよいのじゃな。神の力を使うのじゃから、後戻りはできないぞ」


 ―後戻り?


 ―そんなこと考える必要はない


 ―だって美少女になれるんだろ?


 ―後に戻ったら美少女になれない世界しかない


 もはや俺に迷いはない。

 目の前の鏡を見据え、塗りつける唇への軌道が外れないように確認する。


 ―よしっ


 覚悟は固まったはずが、リップクリームを握る手が細かく震え始めた。

 深く息を吸い込み無理やり呼吸を整え、震える手を落ち着かせる。


 ゆっくりと、唇の中心に当たるように、手でリップクリームを誘導していく。

 リップクリームが唇から小指一本分も離れていない距離まで近づいてきた。


 饒舌に話していたカズサは口を塞がれたように静かになった。神秘的な両眼は瞬き一つせず俺の方を見つめている。

 他に音を立てるものはなく、高鳴る心臓の鼓動だけが耳に響いてくる。


 ―美少女になってやる


 心を決めて手を引き寄せると、リップクリームが俺の唇に当たった・・・


読んで頂きありがとうございます!

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楽しい物語にしていきたいと思いますので、感想もお待ちしております!

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