そして骨だけが残った
人の最期と悪魔の最期
この世にしかない輝きがある。ここに生きて知ったことは、その輝きを見ることの素晴らしさだ。
彼らの世界が美しいと思い、惹かれたのはそれ自身が輝かしいからであろう。だから悔いはない。
この手が震えている理由は嘆きではなく、より純粋でそれこそ“らしくない”感情によるものだ。
そうであってほしいと、そう思っている――――。
|オレらはモンスター!!|
冷たい風が吹きすさぶ。渓流は清らかに流れ、やがて草原の地へと続いていく。
良くも悪くも、活気を失った渓谷には平穏の時間が流れていた。
渓谷の森林奥。そこにひっそりと館が存在する。構えは立派なもので、貴族や金持ちの別荘といった趣。実際に過去はそうであったが……今は別荘でなどではなく、“これぞ我が家”といった具合に人が住んでいるらしい。
そこで生まれ育った“少女”は一度街へと出でたものの、過大な夢に呆れて現実を知り、ここに戻ってきた。そうして老婆となった現在まで、このしんみりと静寂な地で時を過ごしている。
かつての少女はかつてに志した夢の名残りを捨てきれず。伴侶となった男と生まれた時から知る執事だけを客として、作品を生み出し続けた。
彼らは「よくなっている」と気を遣うが……そのことが腹立たしくて、結局いつも機嫌を悪くした。というか“彼”は気を抜くと「相変わらずヘタクソだね」と正直になるので、それがまた悪い。
作品を生むたびに嫌な思いをするなら作らなければ良い……そう思いながらも、止められない。
それは「嫌な思い」が勝気な性格からくる自尊心によるものであり、その反発に悩みながらも続けているのは「彼らに見て欲しい」からである。
嫌だと思った感情の根幹である自尊心が薄らいだ年頃。筆を手にすることが単なる習慣だと、そう捉え始めてからようやくに気が付いた。
夫と執事に自分の好きなことを見てもらう――好きな彼らに好きな存在を共有してもらう――ただ、それだけで良いのだ。だから自分は続けているのだと、それが解った。
解ったのは彼が居なくなったから。以後も同じく“絵を描き続けて”……それが苦痛に感じられた。
親愛なる執事は健在である。だが、彼女にとって真に必要な人はやはり“彼”でしかない。
色々な「好き」を描いていたはずなのに……気が付くと、“彼”ばかりを描くようになっていた。描く感動が「好き」ではなく、描く固執による渇きであるからこそ、満たされない。どれだけ並べても、異次元の彼は何も語らず、触れてもくれない。
描いた「好き」を彼と共有できないことが苦痛の原因だったのだと……何年も経ってから理解できた。
それからも乾き続けて、シワだらけとなって幾年月。老いて記憶に不安を抱き始めた頃――――“あの日”、彼らは館を訪れた。外は雨が降っていたと、そのことを覚えている。
それから初心にかえり「好き」を描くようになった。動物や植物、風景など……自分の過去に見てきた良いものや“想い”を形にする。当然、“彼”も描く。何故ならそれが一番「好き」だから。
不気味と言われた部屋にはいつしか、花咲く景色や華のある都が色合いとして満ちた。風景に立つ2人、時折混じる人々の姿……きっと、それは自分以外の誰が見ても「よく解らない」と言われるだろう。――そう、下手だからだ。
だけどきっと、“彼”は自分が何を描いているのか理解してくれるはずだ。共通する知識の光景だから、解りやすい。そしてだからこそ、「オイラの記憶より随分と不細工に描くなぁ」と正直に苦笑いするのだ。
このまま先細り、枯れ木のように朽ちるばかりだと思っていたのに……少しだけ輝きを取り戻すことができた、描くことができた。そのことは――喜ばしい。
だが、時間の流れは他の何より止まらない。少し伸びたが、その身が枯れゆくことに違いはなかった。そのことを、誰よりも自身が理解していた。
かつて少女だった今の老婆は日に日に実感する。それでも頑張ろうと思っていたのは「もう一度」の思いがあったからだろう。だが……この世界に、人間1人というものはあまりに抗いがたく、時間は渓谷の風より冷たいものだ。
車椅子上の老婆は言う。
「――ローゼンハックや。今朝は準備が遅いのね……お腹が空きましてよ?」
顔色の悪い執事が答える。
「……お嬢様。失礼ながら、朝食は先ほど済みました。ですが、何か軽くご用意いたしましょうか?」
「何をッ?! ……ああ、あら、そう。そうなの? いいわ、なら……何もいらない」
反射的に興奮を覚えたが、違和感と信頼から自身こそが何かおかしいと解る。まるでそんな気はしないがきっとそうなのだと、記憶にない現実を受け入れた。
車椅子の車輪を漕ごうとして力むが、前に進まない。それがそっと、ゆっくりと動き始めたのは執事が押してくれているからである。老婆はそのことを咎めない。それが解らない。
そしてこの一連の流れは週に1度となり、やがて週に3度、そしては毎日と……頻度を増していく。
時間の流れも解らなくなってきた。そうした頃に、ベッド上の老婆は思う。
自分は変わってきている。それはゆっくりと、次第に、しかし確実に……。
自分が自分では無くなっていく。そしてその事実すら、解らない時がある。
「…………思い出せないわ」
手にしている筆を見て、それが長く用いてきた馴染みあるものだと、そこまでは解る。だが、“使い方が解らない”。
昨日は解っていた。一昨日は解らなかった。先週は大体理解できていなかった。それらの事実を、老婆は思い出せない。
自分の中で線が切れそうになっていると実感がある。生きる内に知識として、幾重にも張り巡らされた紐がほつれて、完全に切れてしまったものもある。そしてそれが何かはもう、知れない。
「…………フっフフ、なんてね。そう、これは筆よ。これを使って描くの……解るもの。油を使うのよ、絵の具を用いるの。キャンパスを前に腰かけて……ウフフ、今日は大人しく被写体になってくれるかしら? 彼ったらせっかちだからね……」
自分は大丈夫だと言い聞かせ、確認する。言葉に出して確認して……そこがもう、矛盾していると理解する。
「――――彼はもう、いない。ええ、随分と前に…………死んだのよ」
震える手から筆が落ちた。シワだらけの指を眺め、顔を手にうずめる。
「もう……私は…………私は、何もかも…………」
機械のようにスイッチを切り、それで終われるのなら楽だろうにと考えた。
ただ、そうまで思いつめても……。
「ここまできても……ああ、“怖い”のね。それが、人間なのね……」
たとえスイッチがあっても押せないだろう。自分は強い人だと思っていたのに……ここにきてまさか、“弱さ”に気が付くとは思わなかった。恐怖に怯える自分が意外だった。
老婆は考える。怖いのは、きっと“惜しい”のだと。今まで見て、聞いて、触れてきた……その全てを失うことが、“怖い”。
悪い記憶なら失った方がよい。しかし、輝かしい記憶は失いたくない。思い起こして描けなくなることが――――たまらなく嫌だ。
「……でも、忘れてしまうもの。生きていても、私は忘れていく……きっと、自分の中のどこかにはあるのだろうけど、探せなくなってしまった。だから……怖いよ」
揺らぐように身体を倒し、天井を見上げる。
色彩に満ちた居室。そこに置かれた椅子にはもう、誰も座らない。いつかの名残で今も2つ、置いてあるだけだ。凹んだ床を執事が修理しようとしたが、止めさせた。
「……私って、我がままよね? 誰だって最期はあるのに……みんな、失う恐怖と戦って、立ち向かうだろうに…………」
1人だけの空間。それは彼女にとっての当然。しかし、彼女の当然は今も揺らいでいる。
「ああ、私はなんて……我がままなのかしら?」
『・・・・・我がまま、か。それって実に君らしいでねぇの?』
たとえ、今。そこに“彼”が座っていたとしても……老婆は疑うこともないだろう。
「私らしい? まぁ、そうかもね。だって私、お嬢様ですもの……かのキャラバック家令嬢でしてよ?」
『そうだな。だっけよ、いいんかな~って。……そりゃ、声を掛けたのはオイラだけどさ。正直、知ってビックリしたのは確かよなぁ』
ぼんやりとした意識だ。ぼんやりとしていて……もう、夢の中に入ったようだ。
「いやね、まだそんなこと気にしているの? お父様も言っていたでしょう……“君を当主として迎えよう”と。ま、私のご機嫌をとって仲直りしたかったというのが一番でしょうけどね!」
『それはほんと、嬉しかったけど……それで苦労することもあったさ。今も気まずいんよね……』
彼女の瞳から涙が溢れている。眠くなってきたのだろう。欠伸がでたから、きっとそのせいだと言い聞かせる。
「ところであなた…………なんでこんな時だけ遅いのよ。行く時はせっかちなくせに、こうして迎える時ばかり、い~~~っつも。そもそも時間にルーズなのよね、きっと。あなたはマイペースすぎるわ!」
『あちゃ~~、まぁだ言ってんの? だっけさ、あの時はほら、ダンスの衣装なんて知らねぇもの。選ぶのも時間かかるし、受付も何すんのか解んねぇし……』
「いや、普通に“パーティの参加者です”って言いなさいよ。あと、衣装だって私が見立ててあげるって言ったのに!」
『そ、そんなん……オイラだって君に相応しいんだって、オイラの感性だってバカにしたもんじゃねぇって……それを証明したかったからよ』
「その結果が、コレ? その恰好……どこの奇術師が紛れ込んだかと思ったわ?」
『・・・・・いいでねぇの。これだって、キラキラしててよく目立ちそうだろ??』
「ハァ…………まぁ、そういう変に度胸あるところが気に入ったんだろうね。今思えばさ……」
『ハハハ、よせやい。照れるだろぉが~~、ヒっヒヒ♪』
「でも、初めて言われた言葉は永劫忘れないから。他の何を忘れても、これだけは忘れない」
『う……その件につきましては、ごめんなさい。いや、でもさぁ~~、だってあんなん並んでたら一言申したく……あっ、はい。黙ります』
気品というか、圧力である。彼女の放つ強烈なプレッシャーは“誰も座らない椅子”に向けられている。
“少女”は立ち上がった。気品あふれる出で立ちに、ドレスの裾を正す。
“青年”も立ち上がった。派手な毛皮が襟に目立つタキシードを整えた。
しばらく目線を合わせて……青年から手を差し出す。そこに、手袋越しの手を重ねて……三つ編みの少女は軽く会釈する。
『――――先に行って悪かったな。寂しい思いをさせちまっただろう?』
「ええ、寂しかったわ。あのね、私がどんな想いで――」
『おっと、続きは先で聴こう。もう、“時間が無い”……』
「……そう、ね。ああ、でも…………」
少女の瞳から溢れる涙。その頬に触れる指は頼もしく、体格の良い彼は優しく微笑んで――――。
「ありがとう、迎えに来てくれて。あなたが……あなたと一緒なら、私…………」
『ああ……“逝こう”、ユリーシャ。オイラが君をエスコートする。決して、もう――――この手を離さない』
我慢ができなかった。堪らなくなって、彼の胸元に飛び込んだ。
静寂な寝室。彩り豊かなその一室に、昼時の日差しがある。
柔らかな陽に照らされて眠る老婆。
その表情は実に穏やかなもので……。
ただ、1つだけ。彼女の心残りは――――
「――――お嬢様?」
そう言うと、万年筆を置いた。顔色の悪い執事は書類作業を行っていたらしい。だが、彼は唐突に作業を中断して天を見上げた。
自分の中で何かが途切れた感覚がある。執事は立ち上がると、確認……よりは確信によって襟元の蝶ネクタイを整えた。
焦ることなく執務室を出る。紅いカーペットの階段を登り、閉じられた端の扉を目指した。
もう、何度となく経てきた行程だ。いつもと変わらない、いつもならここで「そろそろ昼食にいたしましょうか?」と、声を掛ける。今日が異なるのはその声掛けが必要ないということだけであろう。
油臭の零れる扉を開く。そこには小さな窓から僅かに差し込む日光。
居室内に並び、飾られた色彩。そこには歪ながらも愛らしい、自分の姿も描かれている。
執事は居室の入口で立ち尽くす。そして彼女の姿を――主だったその姿をしっかりと見据えた。
解っていたこと。執務室を出る前から……それこそ、もうずっと以前から「いつか来る時」だと解っていた。覚悟もあったからこそ、準備も行ってきていた。
気品と栄光高き“キャラバック”に仕える者として、凛と胸を張って送ろうと……それも務めであると考えていた。
なのに溢れてくる。なんてらしくないのだろうと、自分でも思う。
しかし取り乱さず、表情は穏やかに……。片付けの苦手な主だったが、ここ数か月は筆をまともに使わなかったので、足場は良い。
ベッド脇に立つと、無意識に片膝を着いていた。まだ暖かい彼女の手を両手でしっかりと支えて、額をつける。
まるで女神に祈りを捧げるような光景。それはこれ以上なく、らしくないものだろう。
――キャラバック家10代目当主、ユリーシャ=フォン=キャラバックはこの日に他界した。同時に10代続いた魔役士の名門、“キャラバック”の家名はここに潰える。
国家の暗部として畏れられ、禁忌を晒して栄華を掌握し、強大な力によって没落した悲喜交々(こもごも)な名家――。
その最期は家の栄枯盛衰を全て知る者によって見取られた――――。
|オレらはモンスター!!|
キャラバック家は魔役士――つまりは悪魔使いとしてその名を馳せた。これまで多くの悪魔を用い、良くも悪くも帝国の歴史に関与してきた一族である。
その中でも「キャラバックの悪魔」と言えば、知識ある者は真っ先に【ローゼンハック】を思い浮かべる。彼が初代からこれまで、常にキャラバックを支えてきたことは紛うことなき事実。没落しても尚、彼は家に仕えることを止めなかった。
命じられて無理にこの世へと繋ぎ止められているわけではない。当主の誰もが1度は「戻ってもいいよ」と声を掛けたことがある。しかし彼は頑として頷かず、いつも笑ってはぶらかしていた。
悪魔ローゼンハックがキャラバックの家を見捨てなかった理由は同情でも使命でもない。それはすごく単純なことで……「ここに居たい」、ただそれだけのことである。
たとえ建物は変わっても、彼はこれまでずっとキャラバックに尽くしてきた。彼にとってはほんの数百年に満たない期間だが、それでも人間から見たら「随分と長く仕えたものだ」と関心もする。
彼が悪魔だと知る者の中には「何か目的がある」と訝しむ者もあった。過度に国家の警戒を受けたこともあるが……何を勘繰られようと事実は変わらない。
しかし疑いも無理ない。言ってしまえば“家族愛”だなどと……異界の存在たる悪魔がそのような生ぬるい感情を抱くなど、誰が信じようか。それこそキャラバックの人間や近しい人でなければ「気色悪い」とすら思うだろう。
なんと思われようがローゼンハックは気にも留めなかった。「まぁ、そうだろうな」と人間の考えに理解があったので真摯に応ずるのみである。
――だが、いくら人間臭くあっても彼は“悪魔”だ。根本から人間とは異なる。
考え方が人間のそれであっても身体は人間とは別物であり、広く言って運命もまた、人間とは別にある。
人間は死ぬと何処かへと行くのであろう。誰かは天に昇ると言い、誰かは生まれ変わってこの世に戻ると言う。いずれにしても、それは人間だからである。
悪魔は死ぬと何処へも行かない。少なくともこの世で死んだのならば、何も残らない。魂だろうが肉体だろうが関係なく、全て灰となって微塵もなく消え失せる。それが道理であり、自然の仕組みであり……もっと言えば自然の仕組み外にある悪魔など、本来在ってはならないということであろう。
歴代のキャラバックが気を遣ったのはそこである。もし、この世で潰えるようなことがあれば……「何も残らない」のだと、特に悪魔を良く知る彼らは心配していたのだ。
だが、ローゼンハックにしてみればそれこそ、家を半端にしてこの世を去るなど……「何も残らない」と同じなのである。むしろ、残したくない“後悔”を得て、故郷で永遠の時を苦しむことにもなる。
完全に消えてなくなろうとも。それまで眩いばかりの輝きを寸時も見逃したくない、もっと見ていたい!――という「欲望」。そういった“感情”によって、ローゼンハックはこの世に留まり続けた。
そしていざ、家の最期を見届けて――――得たのは喪失感と満足感。同時に相反するものを得た時、彼の指先から灰が零れた。
だが、もう少し…………本来ならとうに崩れている運命に「待った」をかけて。往生際悪くも、やり残したことを成す。
書類を作り、ようやく物品を整理して、遺された領土の処遇を調整し、知るべき人に知るべき最期の時を伝える。
日に日に視界が霞む時間が増えていく中。階段から滑り、しりもちをついた時には「ハハハ、歳ですかな?」と亡き主に同意を求めた。
―― 悪魔は眠らない。ただ1度の例外を除いて…… ――
気を抜くと寝てしまいそうになる。崩れそうになる身体を堪えて、執務をこなす。書類に書き込む万年筆の先が震えても、押さえて気を取り直す。尽くした家の最後を半端にして放棄はできない。
たった1人の館。渓谷の森林奥にひっそりとある館に、たった1人で過ごす日々。帝都からの使い達は誰もが「なんて紳士的な悪魔なのだろう」とその凛とした姿に関心する。たとえ堕ちてもキャラバックは凄い家なのだな、と。執事の振る舞いから家の格式を知った。
たった1人の日々がしばらく続いた後……。
キャラバックの悪魔はその日、最後の書類にサインを書き入れた。万年筆のキャップを閉めてテーブルに置く。長く愛用した1本である。
立ち上がって肩を叩き、霞む眼を擦って窓の外を眺める。昼時を前にした森林の、豊かな緑が目に優しい。
「――――確かに、受け取りました」
執務室には悪魔の他に人間が1人ある。
軍服らしい律儀な服装……帽子には竜の牙を象ったアプルーザンの紋章があるので、帝国の人間であろう。胸元に下がる剣の勲章は3本、中堅の兵士らしい。年の頃合いは30に至るかどうか、というところ。
青年兵士は書類を確かめてから鞄に仕舞った。視線の先に立つ老いた執事は窓の外を眺めて動かない。客人の存在を軽々しく忘れるような人ではないと解っている。仕事を終えて感傷にあるのだろうと、悟ってしばし待った。
数分してから「ハッ」とした様子で執事のローゼンハックが振り返る。彼は咳払いをした。
「これは失礼した。渡すものはそれで最後……どうか、よろしくお願い致します」
少し恥ずかしそうにも見える。珍しく呆然とした姿を晒してしまったと、自分を戒めたい気持ちがあるのだろう。謝られた兵士は「気になさらず」とむしろ頭を低くした。
「お任せください。先方には間違いなく、お届けいたします」
「頼みました。道中、お気を付けください……道が悪いので。ハハハ、何度もご足労頂いて申し訳なかった」
「いいえ、こうしてあなた様と関わることができてよかったです。それでは、これにて……」
「ええ、ごきげんよう」
別れの挨拶を終えて、兵士が執務室の扉を開く。そして、そこで彼は振り返った。
「――――ローゼンハック様」
「……ん、何かな?」
役目を終えた机に手を置き、労わる様に摩りながら執事が応える。
穏やかな視線だ。全てを終えて安堵した表情がそこにある。
穏やかに、紳士な悪魔を前にして――兵士は帝国の帽子を脱ぐ。
「私は一介の帝国兵士として、同じく仕える者として……あなたに敬意を表します。長くをキャラバックと共に過ごした悪魔よ。どうか、今後のご自愛を……」
「――――ハハハ、これはありがたい。ええ、そうですね……善処しましょう。そちらにも良き未来を願っております、若き英雄よ……」
「――――ではッ、失礼します!!」
敬礼して部屋を後にする兵士。彼は悪魔の横顔に自嘲を見たのであろう。余計なことを言ってしまったかと、少し慌ててその場を去った。
別に慌てることなどない、感謝は本心だ。ただ、まぁ…………余計と言うより、無理な話だとは思っている。
「サラサラ」と、灰が落ちた。赤紫の肌から色合いが失せ始める。
この場で最期……それでもいいのだが、悪魔は自分が最後に在る場所を決めていた。
一通り、館の中を見て歩く。
ほとんど空っぽの大広間。何もない部屋の天井には年季が入っている。引き取り手がつかなかった絵の数々だけはここに置いておくことにした。それが自然だとも納得していた。
毎日使っていた厨房。それも1人になってからは用いず、せめて清掃するにとどまっていた。……誰しも好みが違って、口うるさいことは同じ。嫌味は血筋なのだろうと微笑んでいたことは内緒である。
――あの日以来、変わっていない。ただベッドに眠る者が無いだけの、色彩に満ちた寝室。ここは特に最近であるため、しばらく眺めていた。思えば歴代でも一番長く生きたのは、当主として唯一の女性ということもあるだろう。人間はそういった傾向にあると、これも学んだ知識である。
全てが惜しい。名残惜しいが…………もう、そろそろ時間だ。
館を出る。「これが本当に最後の仕事です」と1人呟き、花壇に水をやった。花そのものが好きではない当主もいたが、大体皆、好みの1種くらいはあったものである。6代目など、一番口うるさいものだった。
離れて館を眺める。何度も修繕して、掃除して……隠れ家の1つがいつしか本家になってしまったことはなんとも複雑。その経緯もまた、懐かしい思い出である。
ふと、森の方に目をやると……そこに手を振る2人の若い姿が見えた。
また会う……そう言った彼らの想いに応えられないと、それは残念なことである。
「あれからきっと、より立派に成長なさっているでしょうね。お嬢様も気にかけておりましたが……申し訳ない。どうやら約束は、果たせそうにありません。どうか、お2人共健康に、健全に……」
幻を見た。何もない虚空に手を振ると、足元が揺らぐ。「ハハハ」と自身の身体を笑い、黒い霧と化して森林を突き抜ける。
悪魔の力を振り絞り、向かう先。それは――――
最も悔いがある場所。唯一最期を看取れなかった当主。彼が命を落とし、キャラバック没落の切欠ともなった……黒岩の城。
話に聞いたが確認はしなかった。彼女が言ったように、そもそもボロボロだったのだから、盗賊さえ失せればそれでよいと思っていた。
だから、実際に目にして驚く。
「いやぁ“傾いた”とは聞きましたが、まさかこれほどまでガクッと……それほど強大なものなのでしょうね、彼らの力というものは……」
あまりの有様に「あらまぁ」とばかりに呆ける。人間は敏感なので、少しの傾きでも居住できなくなる。だからそういった程度かと思っていたが……砦の有様からして、物理的に住むことができないということだったらしい。だから驚いた。
見るからに斜め。傾いた砦の壁面を歩き、迷いなく“向かう”。
建築から携わっていたのでよく知っている。角度が変わっても、間取りが変わることも無い。だから悪魔は容易く、“大広間”へと着くことができた。
ぽっかりと半分も抉れた天井。正午の日差しがそこから差し込んでいる。
「ああ、もう少し早く気が付くべきでした。メルギアス様……まさか魔神を使おうとなされるとは……」
ガックリと肩を落とす。過去の失態に頭を抱え、有頂天にあった当時の主を想い、また頭を抱える。
済んだことだと気安くできない。護れなかったことがずっと、後悔としてあった。その負い目から、また初めて人間を育てる拙さから……5代目がえらく無気力な人となったこともまた、悔しい。悪い人ではなくとも、やはりキャラバックの当主としては気迫が無さすぎた。
1つ思い出せば、また1つ思い出す。引き出しを順に開くように、好ましい絵を集めた画廊を巡る様に――――崩壊した砦に1人、いつしか表情は恍惚となっていた。
だからこそ涙が止まらない。どれも全てが掛け替えのない記憶。自分の中にだけある、美しい輝き。それはつまり……自分が消えることで同時に全て消滅することを意味している。
思い出すほどに微笑ましい。何一つ零したくない記憶が、器である自己の崩壊と共に霧散して無くなることが……“惜しい”。思い出せなくなることが、“悔しい”。
チラリと、傾いた床の先に見えた。キラキラと眩いので、それは良く目立つ。
見えたのは“椅子”。それもどうしてか黄金で作られたようで……この有様にある宮殿としてなんとも不相応なものだ。
「いやいや、いくらあの4代目とはいえ、さすがにこのようなものは用いていなかった。つまり盗賊が置いて去ったものか? それにしてはなんと豪奢で……生意気なものだ」
盗賊の忘れ去った品としてはあまりに豪華な椅子。そんなものに腰かけるのは気が引けるが……身体が重い。床に寝そべって終えるよりは、せめて楽な姿勢でありたいものだと、妥協する。
座り心地があまり良くない豪華な椅子に腰を降ろして、半壊した天井を見上げる。射し込む日差しを浴びて、それが心地よい。
「本当に、“悪魔らしくない”。我ながら、そう思うよ……」
眩しい日差しを浴びて心地よいなどと、健康的な人間そのものな感想である。――そしてそう、実際に眩しいのだ。
眩しいはずなのである。
「……おや? 陽が陰ってきましたね。都合の悪いことだ」
煌々と射しこむ日差しに、高々と空に輝く太陽。それらを見上げて、呟く。
曇ったかのような視界が、次第に、次第に……光を薄めていく。
ぼんやりと、まるで暗がりで灯るロウソクの残り火のように。
やがて夜を迎えたかのように、暗がりへと沈む視界。空は曇ってなどいないことを理解した。
「ああ、そうか。空ではなく、私が……ああ……そう、か…………」
見える世界は色を失い、赤紫の身体も完全に色味を失った。
この期に及んで悪魔が抱く感情。その理由は何処にあるものか。
(……ええ、失いたくない。もう、思い出せなくなることが……私がここで過ごした日々が……全て無くなることが、怖い)
口が動かない、だから思う。視界の幕はもう、ほとんど下りている。
(怖いですよ、ええ。何も無くなることは知っていました。覚悟もしていましたし、それについて後悔もない…………ですが、怖いことは怖いのです)
この世における悪魔の最期。そこには血肉も骨も、魂すら残らない。
人間はどこに逝くのか? あやふやなところはある。それでもどこかには逝く。
悪魔の道理にそれはない。はっきりと、“消えるのみ”である。
悪魔の執事は恐怖で震えた。消滅を前にして、必死に思い描いた。
失いたくないと、消えかけるキャンパスの数々を……必死に修繕する。
せめて思い出していたい。尽きるその時には、彼ら全員の姿を――そこに映る自分の姿を――見つめながら、消えたい。
悪魔は眠らないものだが、それにはただ1度の例外がある。それは“最期の瞬間”……そこに悪魔は夢を見るのだろうか?
(――――――。)
幕が下りた。そこは何もない暗闇……その暗闇すら、じきに見えなくなるだろう。
闇すら無い、完全に何も無くなって、消える――――そのはずなのだ。それが道理であり、この世の理。女神と男神が作った法の仕組みである。
ましてや光など、二度と見えるはずもない。思い描けるはずもない。
『…………なんだ?』
思わず手をかざした。閉じた目に“光”を感じて、開く。そしてあまりの眩しさに思わずまた閉じる。
あるはずのない光に驚き、恐る恐ると半目を開く。
薄っすらとした視界の中に、眩いほどの光。
それを背にして立つ人影。
『――――何をしている、ローゼンハック?』
影といっても、それ自体は真っ白な様相である。得体が知れず、悪魔からしても不気味なものだが……。
それが発した“声”はあまりに馴染みあり、懐かしいものだった。だから反射的に悪魔は応じる。
『何をしているも何も……最期の時を迎えているのです。……いや、待てよ? そんなはずはない。そんな……あなた様の声が、聞こえた気が……?』
あるはずのない声に戸惑う。何故ならそれは、数百年も前に別れたはずの声である。
声の持ち主は悪魔の事情など構わずに続けた。
『いいから立ち上がれ。キサマ、そうして太々しく座って私の前にあるとは……随分と偉くなったものだ。椅子もやたらと豪奢ではないか……皇族共に毒されたか?』
その口調は威圧的で、冷徹なまでの自尊心に満ちている。
『あっとと。いや、これは・・・・・んん???』
慌てて立ち上がって、呆然となる。白い影はその全容が判然とせずとも、それが何者か解った。
『いや、何故でしょう? どうして貴方様が我が前に在るのです……?』
『なんだ、気づきが悪いな。だから、迎えに来てやったのだろう。いいからさっさと来い、置いていくぞ?』
「だから」と言われても困る。悪魔は益々に顔をしかめて額を掻いた。
そうしたもどかしい様子が癪に障ったのだろうか?
白い影の存在は『ええいっ、もういい!置いていく!』と吐き捨てて背を向けた。そして本当に歩き始めてしまう。
ワケも解らずその背中を眺め、どうすればよいのか解らず――立ち尽くす。
そうして離れる背中を眺め、視野を広くすると――――そこには他にも白い人影がある。
それらはどうも9体、並んでいるらしい。
『あ、あれ? 皆様お揃いで……これは何事??』
自分が観ている光景が理解できず、ローゼンハックはそれぞれを見渡している。そうしているうちに、白い影の1つが慌てて駆け出した。他の何体かも呆れたり大声で笑ったり、手招きしたりと。様々に反応しながら歩き始める。
『え、あの……え……???』
彼らに背を向けられてローゼンハックは狼狽えた。……そこに2体だけ、歩み寄ってきた影がある。やはりどちらも真っ白で表情はよく解らない。
体格に差がある2体は手をつないでおり、その内の小柄な1体は三つ編みが特徴的だ。その小柄な影がそっと、手を差し出してくる。
差し出された手。茫然としたまま、ローゼンハックはその手に触れる。
触れた手の感触……暖かみを覚え、その瞬間に色づく世界。
“彼女”の微笑みを間近にして、“執事”は――――
『お、お嬢さっ――!?』
理解して涙が溢れる。止まらない、止まるわけがない。
両手でしっかりと彼女の手を握り、跪いて角のある額をつけた。
何も納得はできていない。どうしてこのような光景が……? 何故、あり得ない者達を目にしているのかは解らない。
ただ、どうにか意味だけは理解できた。そして強い喜びと同時に深い悲しみが全身を襲う。
『……わ、私は……しかし、逝けません。だって、だって私は……人間ではない、から……。異界の道理に在る私があなた方に着いていくこと……それは、叶いません……“彼女達の道理”が許さない……許してくれない……』
涙を流した。「うぅぅ」と情けなく、声が零れる。
悪魔がそのように呻き、泣いていると……。
不意に胸倉が掴まれる。蝶ネクタイを引き寄せるようにされたので、思わず執事は目を見開いた。
そこには先ほど去ったはずの“やたら威圧感のある白い影”が、今はハッキリとした深紅の瞳で睨みつけている。
『ええいっ、相変わらずくどい奴めが……! ここまで来たのだ、キサマはもうキャラバックの一員なのだよ!!』
『ら、ライゼンバルト様……! しかし…………しかしっ!!!』
『しかしも何も無い――――まだ解らんか? この世の道理は私が越えておいた。だから、些末事など気にすることはないのだ。解ったら黙って……付いて来い!!!』
『・・・・・・は?』
『……おい、返事は?』
『アっ、は……ハイッ!! しょ…………承知ッ!!!』
『それでよい。……フンっ、くだらぬ手間をかけさせる。まったく、困った使い魔だよ……』
何故か憤慨したようにして再び光の先へと歩いていく男。それに従って、他の7人も歩いていく。
突き飛ばされるようにして倒された。そうして尻もちを着いている悪魔は――――【キャラバックの執事、ローゼンハック】は呆然自失の後……顔を歪ませて泣いた。
泣きながら、涙を流しながらも立ち上がる。そうしてから執事は目元を拭い、凛として胸を張った。
気高き一族に仕えるものとして……何より、そこに迎えられたことが誇らしく。顔を上げずにいれば、それこそまた怒られてしまう。
歩く白い影達。その中の1人、唯一女性らしい三つ編みの影が何度も何度も振り返る。
振り返って後ろ向きに歩く彼女が心配なので……執事ローゼンハックは駆け出した。追いつくと、微笑む少女に小突かれる。執事は照れくさそうに笑った。
11人が揃い、光の中に消えていく。それは幻のような光景だ。
……きっとそれは、悪魔が最後に見た“夢”なのであろう。
せめて最期に、良い夢を見ながら……。
傾いた栄華の名残。名家没落の象徴たる悲劇の地。
そこに眠る、穏やかな表情をした悪魔の姿――――
――――それから数年。観光というわけではないが……旅人が1人、かの地を訪れた。どうやら大陸の歴史を探る若者らしい。
歴史好きな若者が苦労しながら傾いた砦を探索していると……そこで奇妙なものを目にした。
やたらと豪華な黄金の椅子。それ自体も奇妙と言えばそうである。しかし、本当に奇妙なのは……そこに座る“モノ”。
それは人骨のようだが形状は異様で、色合いも薄く赤黒い。頭蓋骨には角も牙も見える。
明らかに異様で不気味な人骨のようなモノ。これを見た若者は怖気を覚え、慌てて逃げ出した。
時代から忘れ置かれたような黒岩の砦。
そこに眠る異形な骨の正体。
それを知る者など、この世には存在しない――――。
「オレらはモンスター!! ~そして、骨だけがのこった~」――END
~グランダリアにおける悪魔という存在~
グランダリア大陸及び、その世界とは別の領域。そこに住まう高次的存在が『悪魔』と呼ばれている。
悪魔を使役することは禁術であり、使用したとしても扱いきれず、破滅するのが常……そうした常識をひっくり返したのがキャラバックである。その初代たるライゼンバルトは戦火と騒乱が生んだ時代の革命児と言ってもよいだろう。
キャラバックはしばし、影にあるとはいえ繁栄を享受していた。そうして三代目のハロルドまでは大人しくしていたのだが……四代目のメルギアスは大変な野心家であったらしく、彼は一時に帝国を揺るがすほどに飛躍したものの、最後は尊大すぎる野心によって潰えた。
悪魔は人間とは異なり、最期を迎えると“灰になる”。灰となって風に紛れ、最も小さい存在の群れとなって次元に消える。行先は悪魔たちの住む世界(一般的な略称は魔界)なのであろうが、彼らなりのあの世だったり、そもそも完全に消えてしまうとされる。少なくとも、人間と同じくこの世の道理に混じることはない。
人とその世を水とすれば、彼らは油なのであろう。つまりは生まれ変わろうがなんだろうが、二度とこの世(=グランダリア)には戻ってこない。
もちろん、例えば魔界に帰るとして、そこでまた悪魔として生まれ成長(概念肥大)し、再び人間に召喚されれば別である。だが、そもそもグランダリアのある世界だって無数につながる世界の1つに過ぎず、魔界そのものが途方もない限りなく無限に近い有様なので、まずまず戻ることはないだろう。そうだとしても、どうせ生まれ変わっていれば情報など微塵もなく、思い出すも何もない。
魔界の悪魔にもいろいろあるが、知性と爵位のようなものをもつ存在は上位と言ってよい。また、基本的に真の名前(=魔名称)はグランダリア等の世界において用いられない。これは召喚に際する契約によるもので、本人も忘れている。
そして、その名が文字なり言葉なり、世に放たれると悪魔は魔界へと強制帰還させられる。これの問題は召喚術者自身が未熟だと、召喚と同時に召喚者も名を忘れてしまう場合があること。そうなると誰もその悪魔を故郷に戻せなくなる。何らかのメモなどにしていればそれだけで帰ってしまうので、頑張って覚えているか、よほどに複雑な暗号化して記録するしかないのである。
キャラバックの当主は代々、1つの魔名称を血統に暗号として組み込んである。これは彼の希望があればいつでも還せるように、という初代による意外で粋な計らいと言えよう。
|オレらはモンスター!!|