「異世界グランダリア生活記(7.55)~異世界トイレ~」
白衣の若者……ジェット=ロイダーが“面倒”を押し付けて部屋を去った後。
白髪の老人……ダーミエンス=レイディンガーは自分の世界に浸りながら語り、踊っていた。たぶん2時間くらいはそうした光景を私は呆然と眺めていたのだと思う。
時折、「そうだろう!?」とか同意を求められたので「はい……」と相槌を打つ。たぶんそうした私の反応はあんまり関係なく、白髪の【ダニー】は恍惚として空想を続けた。いや、それが空想なのかは解らないがそのように見えた。
冷めた紅茶の存在を思い出した私はそれに口を付けながら呆然とし、やがて催す。
そして私は聞いたのだ。当然、水分を摂ったのなら……そうでなくとも絶対知る必要があることだろう。
「あの……すみません。ここってトイレ……ありますか?」
今にして思えば若干違和感ある発言だ。「ありますか」ではなく、「どこですか」が普通ではないだろうか? 見たところ普通に家屋の一室といったところだし、「トイレがない」可能性など考慮する必要などないだろう。
思い返すと……その時点の私はまだ異世界を警戒、もしくは特別にでも思っていたのであろう。無意識にそうした不安や心配が現れたのかもしれない。
まぁ……当時はそうした違和感など覚えることもなく、とにかくモジモジとしていたのであろう私。その様子を見て・質問を聞いた老人のダニーはピタリと動きを止めた。
そして口元に手を置き、分厚いレンズで湾曲した瞳をこちらに向ける。彼は「まぁ!」と言ってから答えてくれた。
「そうだね!? トイレ……トイレだ!! 大丈夫かな、同じなのかなぁ……ほら、こっちだよ。試しに見てくれないかね??」
これまた違和感あるものだ。大丈夫かと心配しながら「試しに見てくれ」とまるで自分からトイレを誘ったかのような文言……。
ともかくダニーはこの頃、私のことを友人というよりは……“珍しい実験体”くらいに思っていた節がある。いや、他人をそのように冷たく扱う人ではないと今では解るが……興味本位の接し方をしていたことは間違いないだろう。
半ズボンのダニーは少年のようにワクワクと、見るからに興奮した様子で私をトイレへと案内しようとした。状況だけを文章にするとなんとも変態チックだが、当時の私としてはそんなことを思う余裕もない。
考えてもみてほしい。異世界……それもまだそこに至ったばかりで何も解らない状態で尿意を我慢しているのだ。そんな状況で余裕なんてもてる人間がいたらそれは精神的な超人であろう。もしくは何かが壊れている。
私は健全として尿意を我慢していた。おそらくもっと早い段階で身体(主に膀胱)は「溜まってるよ!」とメッセージを脳に送っていたのだろうが……混乱と喪失感によって呆然としていた意識に伝わるまで時間がかかってしまった。だからその時、かなりギリギリな状況だったと記憶している。
ダニーは「丁度いい!」とテーブル上に置かれた球体のランプを手にした。彼は台座ではなく球の部分を直に握ったが、おそらくそうすることを予期して耐熱加工してあったのだろう。その辺りはいかにもジェット=ロイダーといった配慮である。
球体のランプを掲げたダニーは「こっち、こっち!」と手招きする。私はそれに従い、モジモジとしながら屋内を案内された。
開かれっぱなしの扉の先。そこもまた本棚の居室と同じく散らかっていた。書物やらメモやらがそこらに落ちており、壁を見るとそこにも数式や文章が書きなぐられている。
ハッキリ言ってダニーは「変人」だ。陶酔状態で自分の世界に入ると“検証と考察”に全ての意識がもっていかれてしまい、それが片付くと“納得・感動”によって今度は愉悦に至り、場合によってはそれらを繰り返す。そこからは特定のリセットスイッチとなる事柄がないと“戻ってこない”。
ダニーは学内時代に「変人」として避けられていた……というか放置されていたと後に聞いた。可哀そうだと思ったが、まぁそれも仕方がないのではないかとも思う。平常時はただの物静かな老人なのに……。
まさにその時は絶好調に陶酔状態だった分厚い眼鏡のダニー。無邪気な老人は細い扉の前で立ち止まると、満面の笑みで私を見た。
「ウヘヘ……ここッ♪ ここがこちらのトイレさ!! さぁ、見てくれよ……どうだい!?」
笑顔の老人が扉を開く。隙間だらけの歯並びが携帯ランプに照らされて……それはそれは不気味に思われた。
だが、私には余裕がない。「ありがとうございます……借りていいですか!?」と、おそらく目を見開いて聞いた。
笑顔の老人は言う。
「もちろん、使いなよ!! でもそうさ……解るかい、使えるかい!? ほら、見て見て!!」
まるでこちらの必死な様子など解っていない。彼はそんなことより興味が先走っていた。
私は「何を言っているんだこの人は……」と思いながら開かれた扉の先に入る。
入るとそこは――
「・・・・・あの、扉……閉めてくれますか?」
「えっ? ああ、ごめんごめん……それよりでも、どうかな? 見てどう思う??」
「いや、どうって…………っと、このレバーが流すやつですよね?」
「おっ……うんうん、そうだよ! それで何を流す!?」
「いや、何って……水っすよ? それと…………おしっこ、っす」
「おぉお~~~~!! よぉしよし、なるほどねぇ~~!? あ~~~ッ、素晴らしいッ!!! はい、これ置いとくからどうぞごゆっくり……ウヘヘ♪♪」
「はぁ、ありがとざいます・・・・・もう、閉めていいっすか??」
と、私の言葉を待たずに扉が閉められた。小さな棚の上に置かれたランプがトイレを照らしている。
私は閉められた扉を確認してようやくにズボンのチャックを下げた。座ってしようとも思ったのだが……どうにも“和式のトイレ”というものに不慣れで、少し腰を落として用を足す。
流れる液体と共に緊張感も抜けていった気がした。極度の緊張や混乱、「非日常」が押し寄せて苦しんでいた精神。そこに一時の安らぎを覚えた私は脱力したように溜息を吐く。
そうして一仕事を終えると、私はトイレのレバーを押した。
レバーを押すと水が流れる。ランプに照らされた水流が便器を洗って煌めく様子がそこにあった。それは見慣れた光景だ。
何も変わらない、水洗式の和式トイレがそこにある。もっとも、それは見た目だけのことで機能としては違いがあるのだけど……その時に私が気づくはずもないことだし、知ったところでどうということでもない。ただ、こっちのほうがこの分野に関しては清潔なのだろうとは思う。除菌意識とかはともかく。
私は何の疑問もなく洗面台で手を洗ってから、球体のランプを手に(台座の部分を)する。ちなみにタオルはパっと見て怪しい感じがしたので仕方なくシャツで水気を拭った。
扉を開くとそこには……変わらず、満面の笑みで老人が立っていた。
茶色いセーターのダニーは言う。
「どう!? どうだった、何か気がついたかね!?」
扉を開いていきなりそのように詰め寄られたので私は困惑した。
困惑したままに「気がつくって?いやぁ、とくには……」と答える。それに対してダニーは落胆も歓喜もなく、「そうかそうか!」とただ頷いていた。
私は彼に球体のランプを返すとやっぱりダニーはなにか独り言をしながら本棚の多い居室へと戻っていく。私はその後をついていった。
そうしてまたテーブル横の椅子に座り、しばらく彼の恍惚とした語りを眺めているうちに……。
私はまた気がついた。そしてそれと同時に“鳴った”。
何が鳴ったかといえば私の腹である。つまりは空腹を報せる音色というわけだ。
それを聞いたからか、それとも偶然に彼の陶酔が収まったのか……。
ダニーは「そうだ、食べよう!」と言って部屋を出ていった。そうしてしばらくすると両手にいくつかのパンを持って戻ってきて、それをテーブルに置いた。
皿の上でもなく、雑な扱いでテーブル上へと置かれたパン……。
しかし私は衛生観念がどうとか言っていられなかった。「さぁさぁ、食べなさいよ」と促された私は感謝しながらパンを頬張る。
その時食べたパンの味はなんと優しく、甘美なものに思えたことか……。
今にして思うとカビとか大丈夫だったのかとか、私が食べる様子を老人が満面の笑みで見ていた不気味さだとか、色々と思うところはある。
だが、ともかくとして……私は自分の空腹が満たされることに意識が向いていた。そこにあったパンが違和感もなく、いつも食べているような味と変わりがないことにも安堵した。
そうして私がパンを食べているうちに……いつしか白髪の老人はいびきをかいて床の上で寝っ転がっていた。
どうしたものかと思ったが……私は本棚に囲われたベッドから毛布を1枚持ってきて、それを老人にかけてあげる。そして彼がすっかり熟睡していることを確認すると、なんだか私も眠気がやってきた。
思えばその日は「寝る」というより「気絶」ばかりしていたのでまともな睡眠もなかったのだろう。「永眠」という意味なら1度したのかもしれないが……。
気がつくと私はベッドに横たわり、そして今度こそ。
”自分の意思“で眠りについたのである…………。
つづく