《1小節目》〜イニッツィオ〜
今日も浅見中学校では、暑い日差しの中で、部活に励む生徒の声が響き渡っていた。丘陵を切り開いて作られたとされるこの学校は、冬の寒さは尋常ではないけれど、そのかわり夏は他の地域よりも少し快適に練習できる環境となっている。
窓を一瞥すると、そこには初々しい青葉が広がっていて、爽やかな風に揺られている。耳を澄ますと、暑さに耐えながら懸命に体を動かす運動部の声が、校舎の中まで入っていた。その声と交錯するように一室から何種類もの音色が聴こえてくる……。
生徒が扉を開ける度に、廊下に音色が雪崩込んでいく。防音設備が備えられて、素朴な教室ではあるものの、個性の溢れた音の塊が凝縮されている。運動部はその音を聞くけれど、室内だから良いじゃん、と不服に思っている。吹奏楽部はこの言葉を根に持ち、度々そうでもないよ。……と告げる。
浅見中学校が冷暖房完備ならば多少の暑さは対策が効くものの、ない学校はじっとしていても汗が滴ってきてしまう。換気のために窓を全開にしているにも関わらず、筋の柔らかい風が少し漏れてくるだけ……。
吹奏楽部は、息を使ってハーモニーを築く。もちろん誰もが承知していることなのだが、その誰もが予想するより──例を挙げると、運動部が思っているより息を使うのは困難なことだ。どういう状況か例を挙げると、水中で限界まで息を止めて起き上がろうと思ったらまた上から押さえつけられる……といった感じである。
その被害者の一人。フルートを束ねるパート長、天野凛は、汗を吹くことの出来ない辛さと途中にある演奏の要、独奏に対する緊張感を抱いていた。
楽器ごとにパートが九つあり、その中でも木で作られた楽器は木管と呼ばれ、金属で作られた楽器は金管と呼ばれる。木管が前で演奏を動かし、後ろで金管が支える役を担う。その後ろには、太鼓やカスタネットがリズムの生命線を担うパーカッションというパートがいる。パーカッションは、息は使わない反面、リズムが一度狂えば演奏の質が問われる重要な役目を持つ。
首筋を伝う汗が集中力を刺激して、指が思い通りに動かなくなったり、音が外れて音程が狂い始める。それでも、八月下旬に行われる夏休みのコンクールで金賞をとるために、演奏者の前で指揮をする指揮者は、コンクールの審査基準となる、リズムや音程、曲想の表現などを見極め、生徒に指摘する。
演奏の中盤に差し掛かるフルートのソロが終わった瞬間、四つに振る指揮棒が下ろされた。
「天野さん。最後ののばし、もうちょっと綺麗に。──こんな感じに」
先生は後ろへ向き、目の前のホワイトボードに切り方の形を描いた。四角から始まり右に向いた三角形で描き終えて前へ向き直す。
「それじゃあ“140”から……低音、音が小さいです」
「はいっ!」
各々楽器を構え、先生が指揮棒を振り始めると、息が吹き込まれ音が響いていく。フルートの独奏から始まり、天野凛が最初の音を吹く。伴奏はそれを聴いて音の大きさを調節する。不気味で、お化け屋敷を思わせるような不協和音が響くが凛はそれを見事に優しく吹き上げた。が、その時指揮棒がまた止まった。
「天野さん、ここはわざと怒ったように……悪人みたいに吹いてください」
「あ、あの……赤井先生?。悪人ってどんな感じに……?」
「そうですね……。」
先生は下を向いて顎に右手を持ってくると目を閉じて暫く考え込んだ。右や左を向きながら悩んだ末、閃いたように目を見開いた。
「自分の心の闇をさらけ出す感じでどうです?」
「わ、私……闇なんてありませんよ?」
「嘘つけぇ。闇がない子は人を殴ったりしませんよー」
反論するように隣から南出拓翔が入ってきた。膝にフルートを立てて、ポンポンと叩いて中の水を出しながら、睨みをきかせていた。拓人の発言に笑いが起こり、一瞬和やかな雰囲気に包まれた。
「はいはい……。──って天野さん人殴ったんですか!?」
「えっ?みんなそれで笑ってたんですよ?」
「そ、そうなんですか…………。鈍いですね。私って」
「だよなー」
「拓人くん、そこは嘘でもいいから俺の方が鈍いぜ先生、と言って欲しいんだけど……」
おどおどする先生に新たな追撃が加わる。
「早くしてくれませんか先生。反応も『鈍い』し、その上動きも『鈍い』なんて、どうせ奥さんの事も『鈍感』すぎてまだ進展ないんでしょ?」
「ミール君、君は……飛びっきりのSだね……ぐすっ」
「ミール君あんまり言わない方がいいよぉー。先生も──ひょっとしてM?」
「ち、違いますよ相川さん!。僕は決してえ……」
「合奏中だぁ!ごるぁぁー!」
和やかになりそうだった雰囲気を、般若の如く怖い形相の部長が窓ガラスの向こうへ放り出した……ように消えた。それを見たみんなは瞬時に悟る。──部長のお怒りを鎮めねば大変なことになる……と。
「す、すいませんー!じゃじゃあ、び……Eから!……」
皆が慌てる先生にクスッと微笑むと、気持ちを切り替えて楽器を構えた。般若の仮面も外れた部長は、ニコリと顔を変貌させ、クラリネットを口へ運ぶ。指揮が力強く振り下ろされ、整頓された不協和音が轟いた。
※※※※
「ふぅ、これで自由曲は以上です。十分休憩して、課題曲……えーと……マーチ『春風に当たろう』をします。では、休憩」
「休憩です!」
そう言って先生が指揮台を降りると同時に、皆の話し声が聞こえ始めた。椅子に体を委ねて、ため息をついた凛は、指摘を受けたソロのイメージを頭の中でかけ巡らせていた。
「……悪人ってなんなのぉ?」
無意識に言った一言に隣の子が食いついた。
「正しく貴方のことだね!」
「美依ちゃんの方がよっぽど悪だと思うけどー?」
「私は何もしてないじゃん!証拠はー?」
「存在」
「酷っ!これだから悪人なんだよ!」
話を嗅ぎつけてきたのか、拓人も二人の輪に入り込む。
「まだそんなんで悩んでんのか天野ー?」
「拓人君、そうなんだよー。何かいい案無い?」
「うーん……。美依っち参考にしたら?」
「南出くんも私の方が悪人に見えるの!?酷いよ!」
プクプクと頬を膨らませて怒る美依に、凛は少し試してみた。
「じゃあ美依ちゃん。私の今日の昼ご飯はなーんだ?」
「ご飯と卵焼きと焼き魚と野菜炒めとパン五つ!」
「パン五つは余計! それ以外は当たってるけど……」
「わーい!当たってるー!」
凛の弁当のおかずは、毎日『殆ど変わっている』。見ることのないはずの弁当のおかずを言い当てた美依はつまり……。
「イコール美依っちはストーカーだな」
「えっ……?。ま、まさか……試されて……?」
ガクンと膝を曲げ四つん這いになった美依は、ブツブツとなにか呟き始めた。凛には到底その行動に理解できなかったが、見たままだと、落ち込んでいるように見えた。
(ありゃ?流石に傷つけちゃったかも?)
「おーい、美依ちゃんごめ」
「凛ちゃんが私を試してくれた。ウフフ、こんな事今まで無かったのに。二ヒヒヒ」
(美依ちゃん!?)
「美依ちゃーん!」
「えっ?あっ何?」
「あっ……そのよ、涎がで……」
「えっ!?あっこれは特に何もないよ!食べ物の妄想してただけだから!絶対何にもないから!」
図星な美依に顔を綻ばせた凛は、もうすぐ十分経つことを告げた。美依はすぐにハンカチで口を拭いて、照れ隠しのつもりか、椅子に座るまでぎこちない動きだった。
「はーい、もうすぐ先生くるので音程合わせといてねー」
部長が皆に呼びかけをすると、隣の楽器倉庫で話をしていた人たちも音楽室へ入ってきた。皆音程の基礎となるシ♭(しふらっと)のロングトーンを吹き、楽器が温まってくると、次の合奏で行う課題曲の練習に入った。
先生は十分と言いつつも、五分ほどずれる時がある。音楽室は、四階に位置するため、一階の職員室から上がってこなければ行けないからだ。──しかし、この学校にはエレベーターが設置されてある。
十分過ぎても何も思わなかったが、二十分過ぎたあたりから皆、先生は?、と思い始めた。それはやがて声になって出始めた。
「あんの先生。まさかとは思わないが……」
部長がきれ始めたその時、隣の楽器倉庫から電話の音が鳴った。──ざわざわしていた掠れ声が静まった。
「出てくるからみんな静かにしてねー」
ニコリと皆に注意して、部長は隣の部屋へ入って行った。その後ろ姿を呆然と見ていた拓人は、部長のストレス発散が、職員室の内線まで届かないことを祈った。
※※※※
部長が楽器倉庫から戻ってくると、皆は次々と口を開いた。
「どうだったー?」
「先生はー?」
「何だったのー?」
その言葉を聞いて、部長は人差し指を立てて皆を黙らせた。その後部長は、ウフッと笑顔で微笑み、やがて──
「天に召されたっ」
語尾に音符が付きそうな部長の発言に、部員全員が凍りつくのであった。そして、主に後輩達は部長に逆らってはいけないことを胸に刻んだ。
「冗談だよー。っと、えーとね。先生は、用事で合奏に出られないだとさー。各パートでパート練習です!。それではぁ、解散!」
それぞれ愚痴を零しながら、グラウンド側の壁際に置いているピアノの上の鍵を取っていく。その様子を見ることもなく、凛はため息をついてその場から一目散に出ていこうとしていた。
「相談に乗ろうか?」
ドアを開けた時、部長が脇の下を掻い潜って前に立ちはだかった。何故か両手を後ろに組んで楽しげにしていた。
「大丈夫だよぉ。流華ちゃんも練習したいでしょ?」
「そうだけど、私言っちゃなんだけど全部出来てるんだよね。それこそ自慢できちゃうくらい」
「そ、そうだったネ……」
この学校で……もしかしたら全国の中学生のなかで、部長の実力はトップクラス。高校生にも引けを取らない演奏と、長い黒髪をなびかすその容姿は、後輩にとって憧れの存在であり恐れている。性格に難あれど眼鏡かければ敵なし。部長曰く伊達眼鏡らしいが。
「そう言えばさぁ、去年先輩もなにか悩んでなかった?」
「あー。なんだっけ?いやらしく……だったっけ?」
「わぁー凛ちゃんハレンチィー」
「何でそうなるの!?」
「えぇー、だってー……ウフフッ!」
部長の、あたかも考えてなさそうな言葉に流され、後ろで大渋滞が起きていた。待っている皆は笑顔で見守っていた。
「邪魔になってるよんっ」
「こんの流華ちゃんめ!」
「はいはい、渋滞になってんの気付いてるだろー?早く歩けー」
後ろから拓人が声をかけて、譜面台を足にずかずかと当ててきた。
「痛いじゃん拓人!」
「じゃあ早く進めっ!」
「こ、こんの……!」
「──私も!」
「美依ちゃんも入らないでよぉ!」
「──賑やかですねぇ」
ふんわりとした髪をいじりながら、風和璃は呟いた。
「イチャイチャですね」
フルートのキーをパコパコ押しながら、藍は言った……。
※※※※
「去年先輩が悩んだのはやらしく……言い換えると色気のあるソロです。これを担うのはサックスという楽器が適任ですねぇ。体ごと動かすとなおそれらしく見えます。どんなんだったんでしょう?教えてあげましょうか?」
挨拶の練習、と言われて付いてきた後輩達は、少し困惑していたが後輩の一人がお願いします、と申し出た。グラウンドでは、運動部の勢いある声が響いていく中、座っている後輩に向かって部長は腕を組んでから一年前の話を告げた。
イニツィオ→イタリア語、始まり