大人な恋のかくしあじ
休日の昼を過ぎた時間帯。私は駅前で、ある男性と待ち合わせをしていた。
約束の時間を少し過ぎた頃、その男性は私の前に現れた。
「すみません、緊急の会議が長引いて」
「大丈夫ですよ。休日出勤お疲れさまです」
切れた息を整えながら、申し訳なさそうに彼はこちらを見た。
本当ならば、仕事が入った時点でこちらとの約束をキャンセルすればいいのに。
そんなことを考えるも、この真面目な人がそんなことをするはずがない、と知っている私は苦笑いをするしかなかった。
「さて、では行きましょうか」
そう言って彼は手を差しのべる。私はその手を握り返して「はい」と言った。
彼と知り合ったのは、料理好きな友人の主催する立食パーティー。友人の夫が招待した人物だった。
「お隣、いいですか?」
「あ、どうぞ」
初めての会話はすごく単純なもので。
私は彼の皿に盛られた山のような料理に驚いてしまった。
「すごい量ですね....」
「ああ、これですか。ここの主人が『うちの妻の料理はうまいんだ』と、どんどん乗せていきまして......」
苦笑いする彼は、静かに「いただきます」と言って料理を口に運んだ。
「おいしい......」
つい声がこぼれてしまったと言うように、感想と感嘆の声を発した。私はその驚き様がおかしくって、つい笑いながら彼に声をかけた。
「美味しいですよね。私の自慢の友人です」
「奥さまの方の知人でしたか。はい、でも本当に美味しいです」
そのままパクパクと食べ進める彼に興味を引かれ、私はこの人と話がしたいと思った。
「私、有野 幸っていいます。あなたの名前、聞いてもいいですか?」
「もちろんです。僕は津田 克。よろしくお願いします、有野さん」
「あの、幸でいいです。プライベートで名字呼びは慣れないんで」
「なら、僕も克で。お願いします、幸さん」
それから話をするにつれて、趣味が同じことを知って仲良くなった。大人になってからできる男の友達はどこか特別なところがあって、何度か会って話をするうちに一年が過ぎていた。
再びあった立食パーティーでは、連絡先を交換し、休みの日には二人で出掛けることも増えた。
そんな私たちの関係は、一年半を過ぎた今でも友達のまま。互いに独身だということも知ってはいるし、今日も二人で映画を観に行く、まるでデートみたいなことをしているわけだけれど、一向にこの関係は変わる気配を見せない。
私はそれが焦れったかった。いつの間にか芽生えていた恋心を自覚したのはつい最近ではあるけれど、彼が私にとってどこか特別な存在なのは、初めて会ったときから変わらない。
そんな特別な彼の恋人という立場になりたいと思った。でも、私は自分から動く勇気は持ち合わせていない。たまに会って、話をして、遊ぶ。この関係がもし壊れたらと思うと、私はその一歩をとどまらざるをえなかった。
「今日は、どんな映画でしたっけ?」
肌寒い昼の街中は、息をはくと白くなる。そんな通りを歩きながら、私は彼に問いかけた。
「荒方 勝先生原作のラブロマンスです。監督はあの有名な松田さん」
いつもと変わらない表情で彼は返事をする。
「いつもコメディーばかりを書く、勝先生初のラブロマンス。それが映画化されるとは、観に行かなきゃですよね」
「そうですね。私もすごく気になっていました」
握りこぶしを作って力説する彼の楽しみがこちらまで伝わってくる。
それにしても、ラブロマンスか......。
「克さん、あんまりラブロマンスとか見てるイメージないですね」
「あー、そうですね。興味がありませんでしたし」
興味がない。その一言が私の心にグサリと刺さる音がした。
「今回も勝先生の作品じゃなければ見に行かなかったと......。あれ?幸さん、どうかしました?」
彼が私の顔を覗き込んできた。そういえば前にもいってたなぁ。「恋人は私とは縁が遠い存在です」とか。
私は何でもないように取り繕って、彼に笑った。
「いえ、ただイメージ通りだなあって」
本当にどこまでも真面目な克さん。これじゃあ告白なんてできるはずがないや。
「本っ当によかったですね!」
映画を見終えた私たちは、近くの喫茶店で感想を言い合っていた。
「はい、後半で過去に決別した主人公が追いかけるシーンとか、素晴らしいと思いました」
「そこ、よかったですね。僕は途中の女性を映すアングルが......」
自分では気づかなかったところや、共感するところをたくさん語る。趣味が合うこともあって、話はとても盛り上がった。
彼と話す時間は、長いはずなのにとても短く感じて。楽しくて、嬉しくて、ずっとこうしていたいと思ってしまった。
「......もう、こんな時間ですか」
幸せな時間は過ぎるのが早い。外を見ると周りは薄暗くなっていた。今日ももうすぐ終わる。充実した私の休日は意外とあっさり終わるもので、彼と離れるのが寂しく感じた。
次、会えるのはいつだろう......。
そんなとき、彼から声をかけられた。
「あの、幸さん。今から予定が入っていたりしますか?」
「いえ、あとは家に帰るだけですが」
「今日の夕食は決まっていたり...」
「しませんね。これから考えようと思います」
彼は何が言いたいんだろう。もしかしたら、なんて考える私は、ちょっと期待しすぎだろうか。そんな私の思考を裏切って、彼は私に提案してきた。
「なら、一緒に夕食はどうですか?近くのレストラン、予約してるんです」
「っ、いいんですか」
「もしよければ、こちらからお願いします」
彼は私に手を差しだした。私は黙って頷いて、彼の手をとる。
今日、オシャレしてきて良かった。心の片隅でそんなことを思った。
入ったレストランはちょっと有名な、ビルの中にあるお店だった。
私たち二人は案内されて席につく。あまり、こういったところに来ることがないから、私の心臓は高鳴りっぱなしだ。
どことなく店の雰囲気に合った彼の姿は、格好良かった。彼は流れるような動作で注文を進めていく。
「幸さんは、お酒、どうしますか?」
突然声をかけられて、私はビクリと肩をゆらした。
「あ、飲みます」
「わかりました。じゃあ、白ワインの....」
注文を終えた彼は、私の方を見てにっこりと笑った。
「やはり、こういったところは緊張しますね」
「全くそんな風に見えませんよ?」
そこまで言って、私は一つ思い出した。
「......あの、もし私に予定が入っていたら、どうするつもりだったんですか?」
予約は二人分していたはずだ。もし私があの場で断っていたら、どうするつもりだったんだろう。
「一人で来るつもりでした。だから、来てもらえてよかったです」
にこにこと変わらない表情で答える。彼は、そういったところは行動的なんだ、と今初めて知った。
しばらく待つと、食事とワインが運ばれてきた。食事はとても綺麗で、手をつけるのがなんとなく、もったいないと思えてしまうほど。でも、一口食べてみると、その美味しさは私を唸らせた。
「美味しいですよね」
「はい、とっても。......そういえば、お肉の料理なのに赤ワインじゃないんですね」
「だって幸さん、赤ワイン苦手でしょう?」
彼は私の好みを知っていてくれたらしい。気のきく男性とは、こんなひとを指す言葉だと、心のなかで呟いた。
一通り食事も終わって、食後の紅茶を飲みながらほっと一息つく。
彼は、私をこれ以上好きにさせて、何がしたいんだろう。
内心そんなことを思いながら彼を見た。彼は真面目な表情で私を見つめて言った。
「幸さん、聞いて欲しいことがあるんです」
私はその言葉に背筋を伸ばす。こんなにキリッとした表情は久しぶりに見た気がする。
彼は息をはくと、はっきりとした口調で告げた。
「好きです。僕と結婚を前提としたお付き合い、してくれませんか?」
私は言葉を失った。
どうして、こんな、突然......。
「克さん、恋愛は興味ないって、」
「興味がなかったのはラブロマンスの作品です。あと、今は興味を持っています」
「恋人はつくらないんじゃ、」
「そんなことを言いましたっけ?」
「縁がないって言いましたよね....」
「....ああ、あれは今までに恋人をつくったことがないという、事実の言い回しを変えただけです。勘違いさせてすみません」
今までに堪えてきたなにかが一気に溢れ出すのを感じた。
全部、私の勘違い....?私、彼を好きでいていいの?この思いは隠さなくていいの?
私はこらえきれず涙を流す。
「さ、幸さん!?」
「克さん、ごめんなさい。つい、嬉しくなっちゃって」
ポロポロとこぼれる涙は止まらない。
絶対ないって諦めてたのに。まさか、本当に。
彼は始めは慌てていたが、私の言葉を聞くと、ハンカチをそっと差し出した。
「返事、聞いてもいいですか?」
微笑んだ彼の表情は、今までにないくらい私の心にキュンときた。
「私も、好きです。こんな私でよければ、お願いします」
彼のハンカチを借りて、心からの笑顔で返事ができる。
今、私は世界一幸せだ。
レストランからの帰り、彼はポツリと呟いた。
「サプライズは苦手なんですよ」
「十分サプライズでしたよ?」
あれだけのことをして、彼は何を言っているんだろう。まるで物語のような盛大な告白をしておいて。
「僕も、自分がまさかあれだけの行動力がある人間だとは知りませんでした」
幸さんに会うまでは。そう付け加えた彼の頬はちょっぴり赤い気がした。
「でも、ちゃんと言えて良かったです」
「私も、克さんは恋だの愛だのに興味はないと思っていました」
「僕をこんなにしたのは、幸さんだけですよ?好きです」
そう言って彼は私の頬にキスをした。アルコールの匂いがする。彼、酔ってるかもしれない。
手を繋いで歩く彼はどことなく楽しそうで。これが夢じゃないといいな、なんて思いながら暖かくなった手を握り返して、夜の街中を進んだ。
大人の恋愛はまだはじまったばかりだ。