或る男の独白
黙れ。男は言った。
俺を見るな。男は嘆いた。
この世界は生きづらい。男は思った。
幾つもの言葉が容赦なく男の鼓膜を打ち据える。
幾つもの視線が容赦なく男の身体を刺し穿つ。
まったく――――反吐が出る。
燻らせた煙草の紫煙が風に乗る。
眼を閉じる。
思い出すのは決まって幼少期。
首には虫籠。手には虫網。
つっかけたサンダル。
大気を灼く太陽。入道雲を抱く蒼穹。
命を賭けた蝉の叫び。
苔むした溝川。高く伸びた青草。
鼻を突く土の香り。
あぁ、自然は年々消えて行く。
いや―――自然『が』消えて逝ってるのか。
あの頃は良かった。
眼に見える世界は全てが未知のモノで、世界は遥かに、天は限りなく高く、海原は延々と続いていた。
それが今。
目に映る景色を美しいと思うこともなく、記憶の中の想い出を思い出すこともなく、まるで機械のように決められた作業を淡々とこなすだけの怠惰な人生だ。
大人になれ、と人が言う。
そんな定義もない不安定なモノになれと言う。
巫山戯るな、と思う。
人生を悟った気になれば大人と呼べるのか。
何もかもを受け入れられるなら大人と呼べるのか。
俺に言わせれば。
大人とは、『人生の中で妥協点を決め、その妥協点を中心としてつかず離れずの距離を保ちながら公転する惑星のようなモノ』だ。
即ち、人生に於ける妥協点を設定した時点で、人間は大人と呼ばれる存在に成り下がる。
結果それは人生を諦めていると言えるわけだ。
『覚悟』と『諦観』。
この二つは実質同じものだ。
どちらも、「目的のために何かを切り捨てる。」という事に他ならない。
覚悟は『〇のために✕を捨てる』。諦観は『✕をする事で〇を捨てる』。
うまい言葉を入れるなら、〇に夢、✕に職だろう。
大人は、知らず知らずのうちに諦観を選んでいると思うのだ。
『誇り』と『驕り』も同じこと。
何か価値のあるものに自分を依存させる事で己の存在を肯定する。
そんな大人にはなりたくないと思う。
人生は一瞬の輝きだ。
さながらそれはセントエルモの火。
生まれた瞬間から死んでいく。
死とは終着点であり、そこに辿り着くまでの過程を描いていく事が人生と呼ばれるものだ。
全てを拒んでしまえば、傷はつかない。
全てを受け入れてしまえば、傷つくしかない。
選ぶべきは二つに一つ。
だから俺は。
第三の選択肢を取ることにした。
心と身体を分離する。
思考と態度を分離する。
記憶と言葉を分離する。
切れたケーブルは繋がらないから、あっちはこっちに届かない。
完全ではないから、最大限の性能は発揮出来ないけれど。
人間なんて所詮不完全な生き物でしか無いから。
完全に近づくために己の持っていないものを持つ者に惹かれるのだから。
自分はこっち。相手はあっち。
そんな交わらない平行線で触れ合おうとする二人を、そっちの誰かが笑っている。
死ぬのが怖いという人がいる。
極論から言えば、それは『死』本来を恐れているのではなく、死に至るまでの『過程』を恐れていると思うのだ。
病死であれ、自殺であれ、事故死であれ。
そこには少なからず『痛み』が伴う。
それが人が恐れる根本だ。
総ての人が『寿命』によって死んでいくなら、きっとこれ程恐れることも無いだろう。
人は人で有る限り『死に至るまでの過程』から逃げられない。
では何故自殺者は減らないのか。
自殺には勇気がいるというが、それは間違いだ。
自殺に必要なものは三つある。
絶望というスパイスと、大さじ一杯程の孤独感、そしてほんの少しの錯乱だ。
本来の死とは、段階を踏んでいくものだ。
『こうした結果こうなり、死に至る』。
だが、自殺は違う。
『こうなったから死を選ぶ』。
自身の精神面が直結するものが自殺であり、そこに他者介入の余地はない。
自殺をしたくないと思うならば、人は己の精神と戦い続けるしか無いのだろう。
大人とはあまりにも複雑だ。
此処で語るのは、とある男の辿りついた一つの結論でしかない。
少年少女よ、武器を持て。
今から貴公等が辿る道程は戦いの連続だ。
今手にした剣が、閉塞した世界を切り開かん事を、切に願う。