はじまりのおしり
何気ない、いつも通りの平凡な昼休み。僕は弁当を貪り食ってすぐに屋上へ向かった。
僕が弁当をすぐに胃袋へ押し込んで屋上へいく理由はひとつ。
それは単に屋上が大好きだから。それだけ。
お世辞にも広いとは言えない東京の空。それでも道路のアスファルトに這いつくばって見上げる空よりは良い。屋上ならずっと青空が近い。
そして手を伸ばして、結局は柵を超えることすらできないというのに、青空に触れたような気がして嬉しくなる。
こんなに平和な空を、こんな間近で眺められるというのに、他のやつらはケータイかゲーム機なんかのバーチャルな世界にしか興味を示さない。
ちょっと生まれる国を間違えれば爆弾の炎や、焼けた屍体の黒煙が立ち上っているかもわからないというのに、こんなに綺麗な精彩な空を見ようともしない。
どこかのネジが外れてしまっているんじゃないかと僕は思う。
もちろん、そんなこと口に出したりはしない。
クラスの連中には「俺、昼寝しないと午後からの授業ぜんぜん頭に入らないから」なんてにやけながら誤魔化して、いつも屋上のこのベンチから、一人で空を眺めている。
最初のころはこのことがきっかけでいじめられたりしたらどうしようかと、そわそわしていたけど、どうやらこれはぎりぎりセーフらしい。だけど本当にぎりぎりだ。
なぜならちょっと髪がぼさっとしている宮木くんなんかは、図書館で一人本を読んでいるが、彼の場合は完全にクラスの連中に無視されていた。
無視というよりも、そこには存在しない空気のような存在として、皆のなかで暗黙の了解じみたものが成立していた。
宮木くん自身、自分から目立とうというタイプではないから、それに馴染んでいるような気もする。そういう孤独が好きなタイプは良い。きっと、なるべくしてそうなったのだと思う。
しかし、もし僕があの立場になってしまったらと想像すると、ぞっとする。僕だってとくに目立ちたいわけじゃないけれど、誰の目にも認識されないような空気的存在にはなりたくなかった。
よく弱いものは群れるというこけれど、僕はまさしくその典型だ。そしてときどき宮木くんのように、自他共にそういう状況にはまっている人に憧れたりもする。そうすれば、毎回のような「いやあ、本当一回眠らないと午後キツイんだってー」なんて馬鹿みたいな演技しなくてもいいのに。
ただ普通に「いや、空みたいからさ」とだけ言って教室を去ることができるだなんて、なんてかっこいいんだ。
屋上は体育館の上にある。僕らの教室がある校舎とはまた別の建物だ。
だからここに来るには校舎、渡廊下、旧校舎、中庭、体育館と順を踏んで来る必要がある。だから大抵の人はここには来ない。
たまに人がいるけれど、それはこの空が目的ではない。
化学の授業とかどっかの部活の課題によって、必要に応じて屋上が使われなくてはならない状況に迫られたからだ。
そういう部外者がいるようなときは僕はここに来ない。その気配を、例えば旧校舎くらいで察知して、すっと逃げてしまう。だけれど今日はその雰囲気がなかった。
だからそのまま屋上にやってきてしまったのだけれど、それが失敗した。僕としたことが……。
僕が屋上に行くと、女子がいた。しかも同じクラスの二人組と、そして冴えない沢野さんだ。
沢野さんには日本人にはあまり見ないソバカスが両の頰にたくさんある。まるで赤毛のアンのように——。
だからみんなにアンと呼ばれている。(うちのクラスでもないのに、ほとんど女子全員にそう呼ばれている。きっと中学からすでにそのあだ名だったのかもしれない)
ぜんぜん赤毛ではないし、むしろ誰よりも正統な日本人らしい単発の髪の毛。化粧なんてまるでしていないというのに、その髪の毛にはどこか気品がある。
日本人として誇りのような、それでも奥ゆかしようなキューティクルを放っている。
僕が屋上のドアを開けると、すぐそこにある空の風が、そのキューティクルをつるりと撫でた。
風にふわりと浮かぶ沢野さんの髪は、僕が求める空なんかよりもぜんぜん優しかった。
そんな優しい髪を持つ沢野さんは、頭からぐっしょりと濡れていた。
さらに追い討ちをかけるように、水の塊が沢野さんを襲う。
水が放たれた方を見れば、うちのクラスの上条と高谷のプリンの配色を思わせる茶髪が視線に入った。僕はこのとき、異文化が友人をいじめていると、漠然とした恐怖にかられた。
ネットの動画で、他の国の民兵が、僕らと笑顔で話すことのできる国の兵士を斬首しているような恐怖。できれば見ていたくはなかった恐怖。
僕を見つけて、すぐに上条が話しかけてきた。
「あら、これはこれは。正也くんじゃない」
正也くんとは僕のことだ。それを聞いて高谷も追随する。
「ほんとだー。あたしたち、お昼寝の邪魔かしら」
「大丈夫よー、もう大体終わったから」
そう言い合って二人は笑っていた。彼女たちが僕のことを気にかける理由はない。そういう会話はいわゆるジェスチャーだ。嫌な予感がした。
「あ、そうだ。ね、正也くんにもお手伝いしてもらわない?」
僕の嫌な予感というのはまず当たることになっている。なぜだろう。
「今アンにパシらせたらさあ、あまりにとろいからご褒美あげてたの。もしかしたらアルプスまで行っちゃったのかと思ったし」
げははは!という下品な笑いが炸裂した。アルプスはアンじゃなくてハイジだ。
「ね、正也くんってさ、アンのことどう思ってるの?」
「え?どうって?」
「好きかどうかってことに決まってるじゃん」
僕はどきりとした。実際のはなし、僕は沢野に好意をもっている。でもそれを恋愛感情であると認識したことはない。そう言われたことによって、少しだけ意識をして、そして先ほどの髪を思い出していた。
「いや、別になんともないよ」
言った二人の顔がキツネみたいに悪どい目つきになるのがわかった。
「なんともないってなに?じゃ嫌いなわけ?」
「いやいや、別に嫌いなわけでもないよ」
こういう展開が嫌だった。僕がそういう役を演じるべきではないのだ。だからこうして、第三者的な立場を守ってきたというのに、いま目の前で、そういう今まで積み重ねてきたものが、一気に崩れ去ろうとしている。
「おー、アン!よかったねえ!嫌いじゃないって」
高谷が大げさにアンのほうへ言葉を投げる。沢野さんは濡れた服が助けてしまわないように、僕らのほうに背を向けていた。ぐったりと制服が身体にまとわりついていて、いつも以上に華奢な印象があった。
「ね、この娘キスまだなんだって。イケメンの正也くんからキスのご褒美あげたげてよ」
僕は耳を疑った。バカにしたようなにやけた二つの顔はしっかりと僕をとらえて離さない。
イケメン?キス?まるでその言葉は誰に言っているのかわからないように宙にぽっかり浮かんで聞こえた。
きっと彼女らにしたら、僕でなくてもいい、誰にでも向かって軽々しく言える言葉なのだ。
別に僕でなくったって、プログラムみたいに、ここにやってきた男の名前をその文章に埋めればいい。
ね、この娘キスまだなんだって。イケメンの くんからキスのご褒美あげてよ
久しぶりに本気で腹が立つのがわかった。横にサンドバッグがあればたこ殴りしてしまいそうなほど荒れ狂った怒りだった。そういうのが顔に出ていたのだろうか。二人の醜い女が僕の内心を悟って、静かに言った。
「あれー。そういう優しさないわけ?」
「それともアンじゃなダメなの?ブスとはキスなんてできませんってこと?」
無理になんでもないふりを装って、微笑を顔に貼っつけた。
「いやいや、そう言うんじゃないけど……。沢野さんがいやだろ?普通に考えて」
僕は完全にやっちまった。無意識に自分の責任を避けて、沢野さんに責任を押し付けているだけだと気づく。
「いやー、そんなことは無いと思うけどー」
どうなのアン!と上条が叫んだ。頼む嫌って言ってくれ!そう願ったが、案の定沢野さんは、上条の好きでしょ?という問いに首を縦に振った。
本当にそうだとか、そうすることがどうという話ではない、無意識のうちの脅迫と無意識の妥協がその全てだった。そんなことはわかっている。
わかっているつもりだったのに、僕は自分を責任ある立場に置かせたくないというわがままだけで、沢野さんへ責任転嫁した。しかしそうすることでもっと事態は悪化していく。僕は自分が犯した罪に対する罰なのだと思った。
「ほらあ、アンも良いってさ。しちゃってあげて」
なんだこいつら。いや、なんだこの世界。僕も含めてこんな世界大嫌いだ。僕はこの瞬間、この世界を捨てることに決めた。