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深淵なる君へ

作者: 空人

 ゆっくりと、惹かれていく。

 浮遊感。

 ぼんやりと蒼くにじむ空を、いつまでもいつまでも、いつまでも堕ちていく。

 本当に落ちているのか、それすらもわからない。もしかしたら落ちているんじゃなくて、昇っているのかもしれない。

 そんなふうに思い始めた瞬間に、僕はもう海の中に居た。

 果てしなく、溢れてくる。

 喪失感。

 ほの暗く藍に染まる海を、どこまでもどこまでも、どこまでも沈んでいく。

 水面に揺れる光はやはり、どこか暗くて。まるで逃げ出すみたいに。ゆっくりと体は旋回して、視界は底へと静かに落とされる。

 そこに見つけられたのは、もう一つの光。僕はそこに終着を求めて、手を伸ばす。君を探して、手を伸ばす。

 求める事は苦しくて、吐き出した泡は邪魔をするみたいに視界を覆う。泡を掃おうともがくほど、その手は新たなる仇を生み出す事に気付かずに。いつの間にか僕の意識は目当てをはずれ、目の前を取り繕う事にのみ価値を見出していく。


 不意に誰かに名前を呼ばれて――――。


 そうして僕は、目を覚ます。





「目が覚めたかい? 東雲ショウタロー君」


 頭の上から降ってきた凛とした声に、一気に眠気は追い出された。押し上げた目蓋にはじかれて現れたのは、風紀委員の紅月ツグミだった。腕章が光を宿す。


「あ、紅月先輩!? えっと、あれ?」


 左右に視線を巡らせると、すぐに自分が学校の屋上に居る事が確認できた。

 そうだ、僕は昼休みに屋上で昼食を済ませ、春風の暖かさに身を委ねて目を閉じたんだ。しかし辺りには、同じように数人でお昼の時間を談笑で過ごしていたはずの女子のグループや、どこから持ち出したのか本来屋上では禁止されているはずのボール遊びをする男子の姿は消えている。あろう事か、隣に居たはずの友人も、だ。まさか異界への旅の始まりやマリーセレスト号のような怪異ではないだろう。嫌な予感を拭えないまま、僕は携帯の時計を確認する。

 デジタルの光は十八時を告げている。完全に放課後だ。


「状況は把握できたかな?」

「ええ、まあ」


 覚醒に手を貸してくれなかった友人達に心の中で悪態をつきながら、視線を目の前に戻す。仁王立ちの上級生は不敵な笑みを浮かべたまま、午後の授業をサボった悪童を見逃してくれそうには見えなかった。


「その、お仕事お疲れ様です」

「うむ。苦しゅうないぞ」


 噛み合っているのか不確かなやり取りの後、制服に付いた砂を落としながら立ち上がる。ただ、姿勢は低めに。


「えっと、見逃してもらう訳にはいかないでしょうか?」


 風紀を守る立場にある彼女に対しては無茶な交渉だったかも知れないが、他に手段も見つからない。友人の軽い悪戯で、内申を脅かされるのは勘弁して欲しかった。

 下手に出て頭を下げる僕を見て、紅月先輩は目を瞬かせている。一般生徒の弱みを握った風紀委員は何を考えるのだろう。真面目に職務をまっとうするなら、担任か生活指導担当の先生に報告。頭の柔らかい人なら、厳重注意で済ますとか。まさか下級生を脅して、無茶な交換条件を突きつけてきたりはしないだろう。そう思って、視線を上げる。

 そこには、可愛らしかったはずの唇を邪悪に歪める上級生の姿があった。

 




 結局あの後、僕は先輩の仕事を手伝う事になった。

 こんな罰ならば甘んじて受け入れようと思う。同性異性を問わず人気と人望のある上級生の手伝いができる事は、例えそれが罰則であったとしても光栄な事だろう。それが可愛い女の子であるなら尚更だ。一瞬ぶつかった先輩の視線を受け流し、僕は緩みかけた頬を引き締めた。

 風紀委員というからどんなにお堅い仕事かと思ったら、中身のほとんどは雑務だった。居残っている生徒への声かけ、出しっぱなしになっている備品の片付け、時別教室その他の施錠確認等々。最初の方は仕事を教わる為に一緒に廻り、その後に手分けして終わらせる事になった。一人になった時に手を抜いた仕事をしても良かったのだが、それで後から文句を言われても面白くない。それに格好悪い印象を多少でも払拭しておきたかった。それはもちろんサボりの汚名を晴らすためでもあったが、他の要因も無かったとは言い切れない。


「今日はご苦労だったな、少年」

「はぁ、お疲れ様です」


 互いの功績を労いあった後、僕は大きく伸びをした。単純な作業とはいえ、慣れない仕事は精神的な疲労を誘発させたのかもしれない。先輩に仕事を見られるという緊張もあっただろう。それを引き剥がそうと肩をまわす。


「朝にも大きな欠伸をしていたようだったが、君はもしやそういう病気なのか?」

「え、ああ、それは違いますよ、ただの寝不足です。最近息苦しい夢ばかり見るので」


 心配そうな表情を覗かせる先輩に、慌てて首をふる。

 日中に突然眠くなる。そういう病気がある事は、ゴールデンタイムに流されていたテレビ番組が紹介していた。だけど彼女の質問も、僕のリアクションを見て表情を緩めるのにも、違和感があるように思えた。


「それは良いとして、先輩?」

「あまり良ろしくないが、なんだ後輩」


 僕の疑問を迎え撃とうと、先輩はその横柄にもみえる大きな態度とは反比例するような小さな胸を反らす。もちろんそれに文句を言うつもりは無いが。


「僕、名前名乗りましたっけ?」


 思い起こせば、先輩は当初から僕の名前をフルネームで呼んでいた。朝の欠伸の事もそうだが、せいぜい朝の通学路が一緒になるくらいの下級生の事を何故そんなに知っているのだろうか。


「なるほど、何故私が君の名前を知っていたか、知りたいかね? 東雲ショウタロー君」

「お聞かせ願えますか? 紅月ツグミ先輩」


 もったいぶった言い方に応じると、先輩はそれはだなぁと更なる間を取った。否が応にも期待は膨らむが、もしかしたら答えを現在進行形で考えているのに過ぎないもかもしれなかった。

 そんな僕の考えを読んだかのように、先輩が一度閉ざした目蓋を開く。


「それは、私が風紀委員だからだっ!」


 キメ台詞のつもりだろうか、指先を突きつけながら宣言した先輩の顔は、なにやら得意気だった。答えを誤魔化されたような気分にさせられたが、この先輩の事だから本気で言っているのかも知れないな。

 はぁ、そうですか、と気の無い返事で返した後、僕たちはそれぞれの帰路についた。先輩が近所に住んでいるとわかっただけでも、充分な収穫だったと言わざるをえないだろうな。





 境界線を眺めていた。

 上下に分けて広がる蒼と藍。空に漂う無数の白い泡は誰のものだろうか。巡らす視界に一つの影。いや、光だったかもしれない。他には何も無い、たったそれだけの世界に、一人の少女。

 僕はその見覚えのあるショートカットの後姿に足を向ける。

 足元の水面は僕の体重を支えてくれてはいるものの、触れるたびに広がる波紋と、沈み込む足跡が不安定に拍車をかける。

 彼女との距離は初めの半分くらいだろうか。明暗の変化が無い事にも不安を覚え始めた頃、体の重さを自覚した瞬間に、足跡が膝までを飲み込んでいる事に気が付いた。

 近付いたはずの彼女が揺らぐ。

 届かない声。

 僕は藍を飲み込んだ。



 境界線が見えてきた。

 僕を包む風景は、変わらないまま。慌てて巡らせた視界に、一つの影は謡っているように見えた。蒼の世界に。僕に向けてではない。その姿がどこか寂しげに映る。

 今度こそと水面を蹴りだす。また半分近付いた頃、どこで力加減を間違えたのだろう。僕は蒼い空を駆けていた。

 大きさの違う白い球体の合間を縫うように、蒼を泳ぐ。なのに空は思い通りになってはくれなくて。伸ばした手は空振るばかり。

 届かない想い。

 僕は蒼に溶け出した。



 境界線に立っていた。

 浮いては沈み、沈んでは浮いてを繰り返し、ようやくそこへとたどり着いたのだ。

 小さな背中は目の前にあった。僕は君に届くのだろうか。

 思いを定めて青を吐き出す。



「あの、こんにちは。で、合っているのかな?」

「うひゃっ!?」


 なんとも可愛らしい悲鳴は彼女らしくはない。振り向いた顔は確かに僕の知っている風紀委員のものなのだが、その少しおびえた表情も、僕を見て吐き出した安堵の溜息も、放課後に見た彼女のものよりもあどけない仕草で。


「脅かさないでよ。あと、時間帯から言ったら『こんばんは』だと思うよ」

「え、ああ。そうなんですか」


 得意気に説明をくれる声は、完全に別人のものだった。

 別人……なのだろうか? 目の前の少女を思わずじっくりと観察してしまう。小柄な身長は同じだが、フリルとリボンで飾ったパステルカラーの服装は彼女の好みとは思えない。ただ、恐ろしく似合ってはいるけれど。


「なに?」

「えっ、ああ。えーと、貴女は誰ですか? 紅月先輩じゃ……無いですよね?」


 舐めるような視線はお気に召さなかったのだろう、少女は不信感に眉を寄せる。

 配慮の足りないまま疑問を投げかけると、目を瞬かせる少女の表情が先輩と重なる。そしてしばらく考える仕草をした後に、うんうんと頷く。答えを彼女の中で完結させてしまったように見えて、少しだけ不安になった。


「オーケーオーケー、説明するよ。ここは――何ていうか、夢の狭間? みたいな所かな? 上が夢を見る浅い眠りで下が深い眠り、みたいな? で、ボクはココの管理人。名前は……リムでいいや」


 疑問符に侵略されたような説明と簡素すぎる自己紹介を終え、リムは満足そうに頷いている。

 つまりココは夢の中ということか。しかし、いきなりファンタジーな設定を押し付けられても対応に困る。舌足らずな説明を置いて、中断していた作業に戻ろうとする管理人をひっつかまえようと、僕は声をかけた。


「管理人って何をするんですか? あと、その。なんで先輩と同じ顔なんですか?」


 年齢は知れないが自分より小さな少女に敬語を使う事に抵抗が無かったわけではないが、先輩と同じ顔にタメ口を使う度胸も無い。とりあえず放った二つの疑問に、先輩の顔は面倒臭そうに向けられた。


「本当は説明しても目を覚ませば忘れちゃうんだから、知っておく必要は無いのよ。それでも知りたいのなら、一応教えるけど?」

「そうなんですか。でも、お手数でなければお願いします」


 先程から、少女の両手は何も無い空間で泳ぎ続けている。その作業は止められないまま、彼女の話は溜息と共に始まった。


「この顔は、君の記憶の中から選ばれたものなのよ。君が夢の中でも会いたいって思った人だって訳よ。そうでしょ?」

「うっ、いや、まぁ」

「で、ボクの仕事は……見てたらわかると思うよ」


 そう言って、リムは自分の両腕を一際大きく動かした。

 彼女の動きに反応して、世界が踊る。否、動いたのは先程から蒼い空に浮いていた白い泡のような球体だった。

 時に静かに、時に大胆に。一部を動かしたかと思えば、それは全体に広がるきっかけになったり。彼女の指揮で、オーケストラの演奏を映像にしたような、夢のような光景が目の前に広がる。


「こ、この泡は?」

「これは誰かが見ている夢だよ。ボクはそれらが重なったり潰れたりはみ出したりしないように少しずつ動かすのが仕事なんだよ。あとは――」


 ゆっくりと視線が回ってくる。


「たまにやって来る君みたいな迷子も相手してあげないといけないよね」


 さっきから対応がぞんざいなのは解っていたが、どうやら僕は仕事場に迷い込んだ厄介事という扱いだったらしい。


「良く解りましたよ。では、どうやって戻ればいいか教えてくれますか、管理人さん」

「夢から覚めたら君は消えるよ。あとは、下の海に潜れば夢も見ない深い眠りに落ちれるよ。その方が健康には良いかもよ」


 指示を受けて、改めて足元の水面を見る。

 さっきは藍の方から迎え入れられたが、自分からそれに潜るという発想は無かった。改めて水面に触れてみると、ゆっくりと手が沈み始めたので、慌てて引っ込める。


「これ、危険は無いんですよね?」

「あるわけ無いよ」


 作業中の管理人は呆れた顔でこっちを見ている。あの顔にはあまり格好悪い姿を見せたくない。覚悟を決めて、水面に挑む。集中すれば自らを沈ませる事が出来るようだ。

 夢の世界の管理人は、そんな悪戦苦闘をする僕には見向きもせずに、ただ世界を奏でている。この広大な夢の世界にたった一人で。

 体の下半分ほどが沈んだ頃に、僕は管理人への別れの挨拶がまだだった事を思い出す。声をかけようと思い彼女に顔を向けると、向こうもこっちをじっと見ていた。

 その表情は僕が見た事のある風紀委員の表情ではない、つまりそれは彼女自身の感情なわけで。


「あの、管理人さん」

「なによ」

「また、ココに来る方法は有りますか?」


 彼女が驚いた表情で長く目を瞬かせるのは、ゲームかなにかのロード画面を思い起こさせた。その後にアップロードされるのはきっと、パスワードとレア画像だ。





 ――次の日の朝。

 ここ数日のけだるさが嘘のように、清々しい目覚めを体験した。だからという訳ではないだろうが、朝の通学路に昨日お世話になった先輩の姿が見えたことは、誰かの導きのように思えて仕方が無かった。


「おはようございます。紅月先輩」

「うむ。今日は朝から元気だな、少年」


 朝一番で彼女の笑顔を拝めた事を、隣を歩く通学路を、誰に感謝したら良いのだろう。それだけで今日一日を幸せに過ごす事が出来るほどの満足感に満たされていく。

 だからその時不意に浮かんだフレーズが何を意味するものなのか、瞬時に理解する事は困難だった。



『その日一日を悔いの残らないように過ごし、その日がより良い一日だったと心から思えたなら、君はまたココへ来る事が出来るのかもしれないよ』



 今日が良い一日なのは、今のところ間違いない。悔いの残らない一日かどうかはまだ確定されていないが、そんな曖昧な条件に従う理由がどこにあるのだ。

 自分が会いたいと願う女性は、目の前に居るというのに。


「先輩っ」

「どうした? 後輩」


 なのに僕は、何処から現れたかも定かではないその言葉に従おうとしている。

 今日という日を、より良き一日とする為に。


「僕は、先輩の事が――――」







<了>

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