Case 3『杏と牡丹』
7月7日、日曜日。
あたしは今日も牡丹の家に行って彼女の家庭教師をしている。来年、天羽女子に入学するために彼女に受験勉強を教えている傍らで、今週の期末試験の勉強をする。幸い、牡丹に勉強を教えていることが高校の勉強に繋がっているので苦労なく進んでいる。去年までは勉強が苦手で、牡丹に教えられていたことが多かった。
「杏ちゃん、できたよ。答え合わせして」
「うん、分かった」
数学の章末問題の答え合わせをするけど、見事に全問正解。
まずは意識を失った一年間の穴を埋めるべく、まずは中学3年生で習う内容を一通りやっている。基礎を固めることは受験勉強をやる上で大切だから。
でも、牡丹は元々頭がいいため、新しい内容をどんどん理解してくれるのでスムーズに進んでいる。
「全部合ってるよ。この章はもう大丈夫だね」
「えへへ、やった」
牡丹はちょっと子供っぽい笑顔を見せた。意識を失う前はこういう笑顔はほとんど見せることはなかったから本当に嬉しい。教えて良かったって思える。
「ねえ、ご褒美のキスして」
そう言って、牡丹はゆっくりと目を閉じる。意識を失う前はこういうわがままをほとんど言わなかったから本当に嬉しい。キスの割合が凄いけれど。
「ほとんどご褒美にキスを要求してくるよね。しょうがないなぁ」
あたしは牡丹にキスをする。
「杏ちゃんの唇って小さめで可愛いよね」
「……牡丹の唇がふっくらしてるだけだよ。あたしだってそれなりにある」
「そんなことないよ。杏ちゃんの唇、ちっちゃくて可愛いよ」
何を基準にあたしの唇をちっちゃい呼ばわりしているんだか。あと、ちっちゃいちっちゃい言われ続けると、胸のことを言われているような気がして何だか嫌。だって、牡丹の胸、あたしのよりも大きいんだもん。
何度も思うけど、意識を失っている間に体はぐっと大人っぽくなったけど、精神的にはちょっと幼くなった気がする。それとも、精神的にも大人になっていて、幼い部分を適度に出すようになったのかな?
「ねえ、杏ちゃん。期末試験の勉強はどう?」
「難なく進んでるけど」
「……そっかぁ」
「どうしてちょっと残念がるの?」
「だって、私が天羽女子に合格して、杏ちゃんが留年すれば同級生になれるじゃない。そうすれば3年間、杏ちゃんと高校生活を満喫できるし」
「な、何てことを考えてるの!」
ポンッ、と牡丹の頭を軽く叩く。
「ぼ、牡丹の勉強を教えているあたしを馬鹿にすんな! それに、今のあたしは牡丹の知っているあたしじゃないもん!」
本当に失礼なことを言っちゃってくれるよ、まったく! 満面の笑みなんか浮かべちゃってさ!
で、でも……牡丹と3年間高校生活を送ることが悪くないと一瞬でも思ってしまった自分もいる。情けない。
「今日は七夕だし短冊にそう書こうかなぁ」
「絶対に書くんじゃありません。そんなこと書いたら破っちゃうから」
そういえば、今日は七夕だった。梅雨の間の晴天で暑かったなぁ。
「もう暗くなったし、今日の勉強はここまでにして、短冊に願い事でも書く?」
「うん、そうしようよ、杏ちゃん」
鏡原駅周辺で七夕祭りがあるのは知っていたけど、結構人が来るし、牡丹の体のことを考えて行かないことに決めたため、せめて家でも七夕気分でも味わえるようにと牡丹のお父さんが笹を買ってきて、午後に一生懸命庭にセッティングしていた。
牡丹のお母さんが作った短冊を1枚ずつもらっているから、さっそく願い事を書こうかな。
「杏ちゃん、願い事書いた?」
「うん? 今、書いているところ。牡丹は書いたの?」
「うん!」
そんなに元気な返事を聞くと、短冊を破らなきゃいけない気がしてくるよ。
「ねえ、どんな願い事を書いたのかあたしに見せてくれない?」
「うん、いいよ」
あたしは牡丹から短冊を受け取って見てみると、
『好きな人の後輩になれますように。』
そう書いてあった。
「後輩、ねぇ」
思わずそう声が漏れてしまう。同級生じゃなくて良かったと安心して。
「……さっきのは嘘だよ。まあ、杏ちゃんと3年間一緒に高校生活を送れたらいいなって思ったのは本当だけど。だから、せめても2年間は杏ちゃんと一緒に天羽女子に通いたいって本気で思ってるから。だから、その……これからも勉強を教えてください」
牡丹は頬を赤くし、あたしの眼を見つめながらそう言った。
「……当たり前だよ。それにあたしの願いは牡丹と同じだから」
「えっ?」
あたしは牡丹に自分の書いた短冊を見せる。
『好きな人の先輩になれますように。』
それがあたしの願い事。
「杏ちゃん……」
「あたしだって、2年間は牡丹と一緒に天羽女子に通いたいって思ってるから。だから、そのためにもずっと牡丹に勉強を教えていくから。その……あたしについてきてよね」
何だか言葉のチョイスを間違えたような気がするんだけど。でも、来年の春から牡丹と一緒に高校に通いたい気持ちは伝わったよね。
牡丹は目を潤ませるものの、嬉しそうに笑う。
「うん、頑張るから。だから、私を連れて行ってください。杏……先輩」
牡丹から先輩って呼ばれると、キュンってくる。とっても可愛い。そんな気持ちがキスという行為をさせる。
「……約束のキスだから。一緒に頑張ろう、牡丹」
「……うん、杏ちゃん」
でも、きっと牡丹なら乗り越えられると信じている。だって、牡丹は1年間の眠りから覚めて、こんなに笑えるようになるまで回復したんだから。
それに、今は1人じゃない。あたしだっている。ううん、ハルも、サキも、原田さんも色々な人が牡丹の仲間なんだ。
「じゃあ、短冊を飾りに行こっか」
「そうだね、杏ちゃん。短冊を飾ったら夕飯食べていって」
「……お言葉に甘えて」
気持ちが重なったこの願いをどうか叶えてください。満天の星空を見上げながら、あたしはそう願うのであった。