エピローグ『おかえり』
まだ一つ、俺にはやらなければいけないことがあった。それは、必ず帰ってくるという奈央との約束を果たすことだ。
「……ねえ、隼人」
「何だ?」
「……さっきさ、神崎先輩達と話しているときに、その……私のことを言ったじゃない。その意味、どういうことなのかな? 私、馬鹿だから……はっきりと言ってくれないと分からないよ」
奈央は頬を赤く染めながらそんなことを言っているが、本当は分かっているんだ。ただ、今回のことがあったので、俺から直接言ってくれないと奈央も安心できないのだろう。
ここでちゃんと言わないと、雅先輩や西垣先輩に笑われてしまう。
俺は一つ深呼吸をし、右手を頭の上にそっと乗せる。
「奈央のことが好きだ。これからも俺の側にいて欲しい。だから、俺と付き合ってくれ」
奈央と見つめ合いながら俺は彼女にそう言った。
今回のことで得たもの。それは自分の気持ちを言葉にして伝えることだ。雅先輩と西垣先輩、そして奈央から教わった。
奈央は嬉しそうに笑い、涙が溢れて……俺を抱きしめてくる。
「……ずっと待ってたよ」
「そうか。これからは幼なじみとしてだけじゃなくて、恋人として……ずっと、俺の側にいてほしい」
「……うん」
これで、奈央との約束を果たすこともできた。奈央のところに必ず帰ってくる……いや、奈央の側にいるということ。
俺と奈央は幼なじみとして今までもずっと一緒だった。でも、どこかで互いの気持ちを伝えて恋人同士にならなければ本当の意味で側にいることはできない。今回のことは俺と奈央にとっての試練だったんだ。
「奈央」
「……えっ?」
俺は奈央にそっとキスをする。その瞬間、奈央の顔はさらに赤くなる。
「えっ、えっ? は、隼人……」
「……雅先輩とキスはしたけど、それは全て彼女からだ。俺からキスをするのはこれが初めてだよ」
「……嬉しい」
奈央は本当に嬉しそうに笑った。そして、お返しをするように今度は奈央からそっとキスをした。
「本当に何で告白もキスも、普段と変わらない感じでできちゃうのかなぁ。私、水曜日に隼人と会いに行ったのも、今、ここにいるのも……凄く緊張したんだから」
「俺だって覚悟してやったんだけどな……」
あまり緊張せずに告白やキスができたのは、奈央が水曜日に俺のことが好きだと言ってくれたおかげかもしれない。俺のことを待ってくれて、受け入れてくれることが分かっていたかもしれない。
「でも、隼人に告白されて、キスまでしてくれて本当に嬉しい。私、前からずっと恋人として隼人と付き合いたかったから。でも、告白する勇気が出なかった。告白して断られるなら、このまま幼なじみの方がいいのかなって」
「……そうか」
「でも、今回のことがあって、隼人に本当の気持ちを伝えなきゃ絶対に後悔すると思って。だから、一昨日……隼人に好きだって言ったの」
「そうだったのか」
「……よく頑張ったね、隼人」
「奈央がいてくれたおかげだ。本当にありがとう」
俺一人ではきっと、こんなに早くこんなにいい結果には辿り着けなかっただろう。俺のことを信じて待ってくれる奈央が心の支えになってくれた。
「じゃあ、一緒に鏡原に帰るか」
「そうだね。遥香ちゃんに付き合うことになったって報告しようよ。遥香ちゃんに応援されてたんだ」
「そ、そうだったのか」
そういえば、遥香と絢さんにも今回のことでかなり世話になったな。後で礼を言わないと。彼女達の協力がなければ今はなかっただろうから。
「さっ、帰ろうよ」
「そうだな」
俺は奈央と手を繋いで、大学のキャンパスを出る。
午後5時という帰宅ラッシュの始まる時間帯もあって、大学の最寄り駅から会社や学校帰りの人が多く出てくる。
改札を通り八神方面の潮浜線のホームに立ったとき、奈央に言わなければならないことを思い出した。
「そういえば、奈央」
「どうかした?」
「今回のことを通して女性恐怖症が治ったみたいだ」
「えっ、そうなの?」
奈央は腕を絡ませてくる。いや、奈央に対しては、前からそんなことをされても大丈夫なんだけどな。
「それって、神崎先輩と一緒に住んでいたから? 同じベッドで寝ていたりしたんでしょ?」
「まあ寝ていたけど……」
「キスまでされていたもんね。それじゃ治るんじゃない?」
奈央は少し拗ねたような表情をしながら言う。
水曜日の夜、俺は雅先輩に告白された際、キスをされたが……その時は女性恐怖症の症状が全く出なかった。既にその時には女性恐怖症が治っていたんだ。
きっと、治るきっかけになったのは、水曜日の朝に奈央が俺に好きだと言ってくれたことだったんだと思う。
「奈央のことが好きだから、俺は女性恐怖症になったんだろうな……」
今まで俺が女性恐怖症になったきっかけが分からなかったけれど、今回のことを通してそういう答えに行き着いた。幼い頃に俺は女性恐怖症になったけれど、それは無自覚に奈央のことが好きになっていたからだったんだろう。たぶん。
家族や奈央以外の女子に対して症状が出てしまうのは、奈央との関係が消滅することを防ぐため。俺が他の女子に気が移らないようにすることと、奈央が俺のことを諦めるようなことをさせまいとしていたんだ。だから、火曜日に奈央の前で雅先輩からキスをされたとき、俺はかつてない苦しみを味わった。
だけど、奈央は水曜日に俺のことが好きだと言った。このことで、本能がもう今までのような症状を引き起こすことはしなくても大丈夫だと判断したんだ。
「全ては今のためだったんだ」
奈央と恋人同士になるために、ここまで苦しめるとは……自分自身のことだから何とも言えない。
「もう、何なの? さっきから独り言を言って」
「……いや、本当に奈央のことが好きなんだなと思っただけだよ」
「こ、こんなところで好きとか言わないでよ! 恥ずかしいよ……」
そんなことを言いながら、奈央は更に俺にくっついてくる。こんなにベッタリする方がよっぽど周りからの視線が集まると思うけれど。
そして、俺達は程なくして到着した八神行きの列車に乗る。
最寄り駅である鏡原駅まではこの各駅停車で約35分。昨日までの4日間、大学から徒歩10分の所に帰っていたから、結構長く感じるな。
「隼人、おかえり」
「何だよ、電車の中で急に」
「だって、私に必ず帰ってくるって約束してくれたでしょ。そんな隼人に対してどういう言葉をかければいいのかずっと考えていたんだけど、これが一番いいかなって」
奈央は可愛らしい笑顔を見せながらそう言う。
帰ってきた人にはおかえり、か。そう言ってくれた奈央にはやっぱり、
「ただいま、奈央」
俺の帰りを待ってくれたんだから、この言葉が一番いいだろう。
俺はようやく本当の我が家に帰るのであった。この5日間を通して得た大切な人と一緒に。
Fragrance 5-ミヤビナカオリ- 終わり
Fragrance 6-キオクノカオリ-に続く。
次話ではShort Fragrance 2-ヨゾラノカオリ- となっております。ただし、これは短編なので読まなくてもこの後の本編を読むにあたって支障はありません。